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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『美しいひと』東志津監督インタビュー

東志津監督 撮影:宮崎暁美

5月31日(土) 新宿・K's cinemaにてロードショー!
シネマジャーナルHP 作品紹介 http://cinemajournal-review.seesaa.net/article/397910349.html


韓国、オランダ、日本。あの原爆を生き抜いた人たち、そして、生きることができなかった人たちの物語

原爆投下から69年。被爆者も人生の最終章を迎えています。彼らはあの日、何を見たのか、原爆後の人生をどう生きたのか。日本は唯一の被爆国と常に言われるけど、広島、長崎で被爆したのは日本人だけではない。この作品は、被爆後を生き抜いてきた人たちに取材し、原爆が日本人だけの悲劇ではなかったことを伝えている。
約21万人という広島・長崎の原爆の犠牲者のうち約4万人が、当時日本の植民地だった朝鮮半島からの移住者あるいは強制連行で連れてこられた労働者だったという。韓国の陜川(ハプチョン)原爆被害者社福祉会館で余生を送る人々に、被爆当時の話、その後どう生きたかを訊ねている。
また、長崎の爆心地近くにあった捕虜収容所に収容されていた連合国軍兵士195人が被爆し7名が亡くなった。その中でも多かったオランダ人被爆者を訪ね話しを聞いている。日本軍のインドネシアへの侵攻でオランダ軍は降伏。多くのオランダ軍の若者が捕虜となって日本へ送られ、強制労働に従事させられていた。
16歳の時に長崎で被爆した龍(りゅう)智江子さん。被曝した母が亡くなり、その黒こげの遺体のそばにたたずむ姿の写真が被爆の象徴になった。原爆の後遺症と戦いながら暮らしてきた彼女の年月を息子さんと共に聞く。


『美しいひと』 公式HP http://utsukushiihito.jimdo.com/


東志津監督
東志津(あずま・しづ)監督プロフィール 公式HPより

1975年大阪府生まれ、東京都出身。大学卒業後、映像の世界へ。企業PRビデオ、CMなど、商業映像の制作を経て、ドキュメンタリーの制作を開始。
2003年『ある中国残留婦人 栗原貞子さんの日々』にて、地方の時代映像祭市民・自治体部門奨励賞受賞。
2006年、いせフィルム入社、記録映画作家・伊勢真一氏に師事。
2007年、長編ドキュメンタリー映画『花の夢-ある中国残留婦人-』を発表。ポレポレ東中野はじめ、全国のミニシアターにて公開。山形国際ドキュメンタリー映画祭“ニュードッグスジャパン”招待。ヘルシンキ国際ドキュメンタリー映画祭招待。あいち国際女性映画祭にて愛知県興行協会賞受賞。2007年度キネマ旬報文化映画部門第9位。
2009年、文化庁新進芸術家海外派遣制度にて渡仏。一年間の留学を経て帰国。
著書に「中国残留婦人」を知っていますか(岩波ジュニア新書)。


東志津監督インタビュー

取材日2014年5月14日    宮崎暁美

*この作品を作るきっかけ

編集部:この作品は、今を生きる被爆者の姿を温かい眼差しで見ていて、前作の『花の夢ーある中国残留婦人ー』(2007年)と同じ目線を感じました。『花の夢ーある中国残留婦人ー』の後、2009年に文化庁新進芸術家海外派遣制度でフランスに留学していますが、これは自分で応募して行ったのですか?

(編集部注:『花の夢ーある中国残留婦人ー』でも東監督にインタビューしています。シネマジャーナル71号に掲載)

東監督:そうです。応募して審査を受けて行くことができました。この制度は映画だけでなく、音楽とか、他の芸術分野もあります。前作から今作までに空白があるのはフランスに1年いたからです。

編:この作品を撮ろうと思ったのは、フランスに行ったことが大きいとのことですが


東志津監督

監督:次の作品を作るのに、戦争をテーマにするかどうかは決めていなかったのですが、フランスに行った研究テーマが「戦争の記憶をどう残していくか」ということだったのです。
ヨーロッパの第二次世界大戦というと、やはりユダヤ人迫害の歴史があったわけですが、戦後何十年かはナチスドイツにひたすら責任を押し付けるような形だったのだけど、近年になって、実はヨーロッパ全体がユダヤ人迫害に走っていたということに向き合うことになった。EUの共同体としてやっていくためにはそのことを乗り越えていかなくてはならない。真正面から向き合って若い人たちも歴史を知りたいという気運というか、社会の雰囲気があります。歴史と向き合うという意味では、日本より数段成熟しているなと感じました。ユダヤ人迫害、大量殺戮ということと繋がって、広島・長崎に落とされた原爆のことが浮かんできたので、日本に置き換えてみました。
その時、たまたま大江健三郎さんの「ヒロシマノート」を読んでいたので、あらためて大変なことだったんだなと思ったし、パリに行って初めて日本人以外の民族とか人種と混ざり合って暮らしてみて、民族の違いとか差別ということを肌で感じて、戦争というのは差別だ、原爆も間違いなく究極の人種差別だったんだなと改めて感じて、日本人として一度は原爆のことをやるべきじゃないかと思ったのがきっかけでした。
ただ、日本人の被害を慰めるだけに作ったのでは従来の作品となんら変わらないし、戦後70年たって改めて歴史を伝えていくためには、民族とか日本人とか人種を超えて、原爆がいかに人間にとって大変な出来事だったかということを考えた時、日本人以外の、韓国人とかオランダ人の被爆のことを知って、その時に初めてこういう形で描けないかなと思って、この形にしました。


*被爆したのは日本人だけではない

編:被爆したのは日本人だけではないということは、これまで朴寿南(パク・スナム)監督の『もうひとつのヒロシマ-アリランのうた』などでも描かれてきましたが、マスコミで報じられることはめったになくて、ほとんどの日本人が知らないのではないかと思います。日本の現代史を勉強していない人にとっては、なぜたくさんの朝鮮人が住んでいるかということも知らず、「韓国人は出ていけ」などと叫んだりしていますよね。
私はこの作品で、連合国軍の捕虜で被爆した人がいるということを知りました。

監督:私たちの世代のごくごく一般的な日本人は、朝鮮半島が日本の植民地だったということすら知らない人が多い。「なんで、その時代に(韓国)の人がいっぱいいたの?」なんていう人すらいる。それが日本の現実だし、私自身もこういう仕事をしていなければ知らなかったでしょう。

編:歴史をちゃんと教えないことが、こういう風潮に結びついているのでしょうね。私自身、高校くらいまで知らなかった。教科書には「台湾、朝鮮半島を併合した」という言葉は出てきていたけど、真の意味は教わらず、それが植民地化とは知らなかった。私の世代(60代)ですらそうなのだから若い人はもっと知らないですよね。

監督:今回、韓国人の被爆者だけを取材するとか、オランダ人だけを取材するという方法もあったのだけど、そうしてしまうと、その人たちだけの映画になってしまってすごく政治的になってしまう。それはつまらないと思ったし、きっとそういうことに興味を持っている人たちだけに受け入れられる映画になってしまうから、どうやってそういうことに気をつけて、民族とか人種とかの基本的なことは押さえて、人間というものを考えられるような作品にしたいと思っていました。

編:この作品で陜川(ハプチョン)原爆被害者福祉会館のことを知りました。 これは日本政府と韓国政府の支援のもと1996年に開館し、運営は大韓赤十字社が行っているそうですが、全然知りませんでした。映画を観ると発見がありますね。映画でそういうのをぜひ伝えていってください。


韓国陜川原爆被害者福祉会館の藤棚
(c)S.Aプロダクション

監督:今回、私もそういうふうに思いました。自分が出かけていって見たものを、手紙みたいにして観ている人に伝えていくというのは、ドキュメンタリーの大きな役割だと思いました。

編:連合軍の捕虜も被爆していたとは知りませんでした。

監督:捕虜だけでなく、教会のシスターとかもいたし、日本人以外にいろいろな人が被爆していると思いますが、捕虜という立場で、束縛されている身として人間としての尊厳を奪われていた上に、さらに被爆という体験をした人がいるというのを知り衝撃でした。

編:そういうような情報などはどのように調べたのですか?

監督:たまたま読んでいた本に、捕虜として被爆したオランダ人がいると載っていて、生きていらっしゃらないかなと思い、インターネットで調べたら、3年くらい前の共同通信の記事で「オランダ人の元捕虜が被爆者手帳を取得した」というニュースが残っていて、話を聞いてみたいなと思い、その共同通信の記者の方に問い合わせて、紹介してもらいました。そこから、広がってオランダの3人に話しを聞くことができました。


*情報はどのように

編:オランダにも被爆者の集まりのようなものがあるのですか?

監督:そういうのはなくて、人づてに教えてもらいました。日本軍のインドネシアへの侵攻によって、インドネシアからオランダに帰国せざるを得なかった人たちを支援する団体はあり、そのネットワークがあります。今でも、インドネシアでの戦争被害の補償を求めて、日本大使館の前でデモをしている人たちがいると聞いたことがあります。(編集部注:インドネシアはオランダの植民地だった)

編:今回、オランダ人3人に取材していますが、捕虜の中でもオランダ人が多かったのですか? あるいは情報が得られたということもありますか。


オランダの被爆者 (c)S.Aプロダクション

監督:金銭的、物理的にあちこちは行けないので、捕虜として一番多かったオランダ人を取材しました。

編:今はインターネットの時代で、情報収集はしやすくなっていますね。

監督:今回はほんとに縁があったというかスムーズに行きました。映画を作り始めるまでは自分の中で葛藤がありましたけど、作り始めてからはトントントンと私が望んだとおりに物事が動いていきました。

編:皆さん協力的だったのですか。

監督:それだからこそ、これはできた作品ですし、1年という短い期間で撮影を終えられたのも協力してくれた方の熱意とご縁があったということですね。

編:皆さん、今、話しておかなくては、伝えておかなくてはという思いがあったのでしょうね。20年、30年前だったら話してくれなかったかもしれませんね。

監督:もちろんそうです。


*日本を懐かしがる人たち

編:陜川(ハプチョン)原爆被害者福祉会館の方たちがとても協力的でしたね。日本に怨みを持っているのではないかと思っていたのですが、逆に日本を懐かしがって親しみを持って話しているのが印象的でした。


韓国陜川原爆被害者福祉会館の人たち
(c)S.Aプロダクション

監督:その質問はよく受けるのですが、今、残っている70代から90代の方たちは日本で生まれ育っていて、日本で教育を受け日本に友達もたくさんいるので、日本のことを故郷のように思っているのです。日本が恨めしいとか憎いとかいう言葉はほとんど聞かれませんでした。彼らより上の世代の人たちは、大人になってから無理やり連れて行かれた人も多いから憎しみがあると思うのですが、今、ここにいる人たちは「広島が恋しい」とかおっしゃるのです。

編:びっくりしました。

監督:だからよけい切ないですよね。そういう時代に生まれた人たちがここにいるのだなと思いました。

編:戦争前後に日本に来た人が多いのかなと思っていたのですが、けっこう古い時代から来て、日本で生まれ育って20代すぎに韓国に渡ったという人もいるのだなとびっくりしました。

監督:原爆そのものは憎いし、その後の生活の貧しさ苦しさがあると思いますが、逆に日本にいたときが彼らにとって生活が安定していたのかもしれません。もちろん民族差別とかあったと思いますが、子供だからあまり感じていなかったのかもしれません。

編:台湾の人たちもそうだけど、日本を懐かしむみたいな感じがあって、植民地だったのになんでだろうと思っていたのですが、そういうのはあるかもしれませんね。でも、朝鮮半島の人たちはひどい扱いを受けた人が多かったのではないかと思います。

監督:犬とか豚以下の扱いを受けたという人もいます。だからそういう扱いだったのだなと思います。

編:それにも増して被爆した人たちは差別を受け、生活も困窮していたのでしょうね。被爆者に対する差別とか偏見というのは、日本でも韓国でも同じだったのですね。

監督:被爆に対する同情と差別は、本音と建前で二重構造ですよね。どこまでも冷酷です。


*今、話を聞いておかなければ

編:被爆した後も生き続けて来た人たちの話を聞けるのは、あと数年だと思うので、今、聞いておかなくてはという思いはありますね。オランダの方で、取材のあと3週間後に亡くなってしまったという方の話は貴重ですね。ぼけたところはあったけど、あれだけ話をしてくれたのはすごいです。

監督:会った瞬間に、この方はもう長くないだろうなと思って涙が出て止まりませんでした。神様の近くにいる人は美しく、最後の力をふり絞って話をしてくれたと思いました。

編:そういうのは本人も感じていたのでしょうね。この方はほかでも原爆のことを語っているのですか?

監督:取材とかはほとんど受けていないと思うのですね。ただ、語り口で、なんか近所の子供たちに自分の体験を話したりする機会があったのではないかと思いました。息子さんたちがそういうことを話していました。

編:このオランダの3人にたどり着いたというのがすごいですね。

監督:だからこれはもう縁というか、神様がこの映画を作るために道を作ってくれたんだなって。1本の映画ができる時って、奇跡のようなことが起こるんですよ。私が一生懸命頑張らなくても自然にうまくいくというか、そういう風にしてできる映画こそが最後まで行き着く作品で、自分がどんなに作りたいと思っていろいろな人にお願いしても、事が運ばない時は全然だめで、今じゃないのだなと思うようにしています。

編:毎年原爆に関する映画はあると思いますが、ここ数年日本人以外の被爆を扱った映画がなかったので、伝えていくのに貴重な作品になったと思います。

監督:歴史的にどうだったかというのもありますが、日本って狭い国で島国だから、どうしても自分たちのことだけで物事を考えてしまう。世界の中の日本という考え方がどうしてもできないから、自分たち以外にもこういう人たちがいるんだという発想を持てるような作品、意味合いを持たせたいと思いました。
パリに行ってそういうことを自分が感じたから、自分たちが悲しんだことを、まったく別のところで悲しんでいる人もいるんだという想像力が一体になればいいなと思って、いつも作っています。


*時代の必要性が映画を作る

編:そうですよね。そういう想像力の欠如があるから、従軍慰安婦の人たちに対する思いやりのない発言が出てくるのでしょうね。慰安婦にさせられた人たちの痛みを考えれば、その人たちを傷つけるような発言はないだろうと思うから、歴史を知ると同時に、その人たちの痛みを考える想像力がある若い人が育ってほしいなと思います。こういう映画は、なかなかたくさんの人が来るということはないけど、若い人が観に来て広げていってくれるといいなと思います。

監督:映画で何かが大きく変わるということはないけど、こういうことを続けていけば、それがベースになっていくのではないかと思います。

編:去年はドキュメンタリーで素晴らしい作品がいっぱいあったと思います。若い人たちがいろいろ掘り起こして作っていってほしいと思います。そういう意味で、低予算ながらも自分が追っていくテーマの作品を作っていけるということはすごいなと思います。今後に期待したいと思います。

監督:でも私がこの作品を作ったのは特別なことという感じはしなくて、なんか自然の流れ、時代の流れの中で作ったという感じです。私の世代とか、私より若い世代の人たちが、この国のおかしなところに気づき始めて、自分たちで歴史とか、時代を取り戻していきたいという気運があるから、こういう映画が自然に出てきたと思います。
戦争がテーマでなくても、ドキュメンタリーに良い作品が多くなっているのは、そういう時代の流れの中であると思いますね。

編:時代の渇望感みたいのが、そういう流れを生み出しているのかなという気もしますね。70年代ころもそういうのがあったように感じます。70年代のそういう流れを見てきたものとしては、それは嬉しいことなのか、悲しいことなのか考えてしまいますね。それでもやっていかないともっと悪いほうに進んでしまう。

監督:そうですね。


*タイトルにかけた思い

編:この『美しいひと』というタイトルは、この方たちにインタビューしている時に思い浮かんだのですか?


東志津監督

監督:そうですね。最初の仮の題は『原爆の人』というストレートなタイトルだったのですけど、撮影をしていく中で、自然にこの『美しいひと』というタイトルが出てきたんです。『原爆の人』というタイトルは、作ろうと思った憤りが、最初のタイトルに込められていたのですが、彼らに出会う中で浄化されて、『美しいひと』というタイトルに変わっていったのだろうと思います。

編:シネジャのスタッフに、このタイトルを言った時に、原爆とか被爆の映画とは思わなかったと言われたのですが、逆にこういうタイトルだと、そういう思いもなく来てくれる人もいるかもしれませんね。

監督:原爆の映画だから、そういうイメージのタイトルにしてしまうと、「ああ、原爆の映画ね」ってなってしまうし、上映も夏にしてしまうと、いかにもありきたりというという感じになってしまう。被爆した人にとっては、夏だけでなく、春も秋も冬もあるし、長い人生があるのだし、メインで注目されない季節にも目を向けてもらいたいということもあったんです。

編:龍智江子さんのことも聞きたいのですが、日本人の取材をこの方にしようと思ったきっかけは?
廃虚にぼうぜんと立ち尽くす龍さんと、その足元にある黒焦げになったお母さんの遺体の写真はとても衝撃的でした。この写真を見て取材したいと思ったのですか?

監督:はい。この写真のことは知らなくて、原爆の写真展で初めて見て、こんなに生と死があからさまに対照的に描かれている写真って衝撃的だったし、なおかつ母娘だということで絶句してしまったんです。こういう状況に置かれた15,6歳の女の子が、この後どのようにしたら生きていけたのだろうということを知りたくて、この人に会いたいと思いました。つてをたよって調べてみたら、まだお元気だということがわかって取材を申し込みましたが、快く引き受けてくれました。

編:この方は、この写真で長崎原爆の象徴のようになっていたのですか?

監督:そうですね。何年かごとに取材を受けていました。終戦50年の時に、NHKの番組で取材班の方がたずねて来て、初めてこの写真の存在を知ったそうです。それまで自分が写真を撮られていたなんて全然知らなかったそうです。その後、原爆の語り部をやっていたのですが、今は認知症を患われてやっていないそうです。

編:戦後69年もたっているから、戦争の現場を体験した人の話を、今、聞いておかないと聞けなくなりますね。

監督:撮影した時は83歳で、今は85歳です。先日、長崎の上映会でお会いしたのですが、まだお元気でした。
でも、もう私のことはわかっていない。自分がこの映画に出演したということも忘れているけど、この映画を見て自分が出ているということはわかるという状態でした。
こういう原爆の写真というのは、私たちにとっては原爆の悲惨さを知る資料なんですね。でも写っている人にとっては、ひとつの遺体にしても、その瞬間までそれぞれの人生があったのに、そういうところまで自分の思いが至ってなかったなという後悔もこめて、ひとつの写真からひとりの人の人生をたどってみたいと思いました。

編:韓国では陜川の施設にいる人たちを取材していますが、中でも身体障害を持ち不自由な生活を送っている李在任(イ・ジェイム)さんのことが印象に残りました。75歳ということは5,6歳の時に被爆しているんですね。


李在任(イ・ジェイム)さん
(c)S.Aプロダクション

監督:彼女の障害は原爆の影響というより、ポリオなどほかの病気によるのではないかと被爆に詳しい方は言っていましたが、それでも、彼女の存在に惹かれたのは、こう不自由な体で被爆後も生きてきた姿に、被爆の影響で結婚を諦めたり、出産をあきらめたりして、何も怒りを叫べないまま亡くなっていったたくさんの人たちを代弁しているような、象徴のように思えて出ていただこうと思いました。

編:70年代以降、被爆後30年くらいたって、やっと海外に住む被爆者に被爆者手帳が出るようになったことを考えると、自分の国に帰ってからのそれまでの生活の苦労は計り知れないですね。

監督:ただでさえ朝鮮半島は、戦後の混乱していた時だったから、日本と同じように苦しい生活だったと思います。

編:それにしても原爆の犠牲者は、広島・長崎合わせて21万人と言われている中、朝鮮半島出身者は約4万人もいたんですね。せいぜい何千人という単位くらいかなと思っていたので認識不足でした。

監督:朝鮮半島出身者の被害者数は全体の約1割なんですよね。国に帰ってから白血病や癌で亡くなった人もたくさんいますので、あらためて思いいたるという感じです。

編:被爆者に対する差別は、日本も韓国も同じだったんだろうなと思うのですが、日本が、海外の被爆者に対して何もせずほっておいたという状況も一般の人はほとんど知らないですよね。

監督:「文句があるならアメリカに言え」という人もいますが、サンフランシスコ講和条約を締結したときに「原爆に対する補償を求めない」という約束をした上で、それと引き換えにこの国はまた独立したわけです。なので、落としたのはアメリカだけど、そういう約束をした以上、日本も責任を負っていかなくてはならないのです。

編:「原爆に対する補償を求めない」ということは、このパンフレットで知りました。歴史の掘り起こしが必要だなとつくづく思いました。

監督:私もパンフレットを作る時にそうなんだと知りました。それは文句言えないなと思いました。講和条約と引き換えに日本は繁栄を手に入れたわけですから、原爆被害者に対する責任と向き合わないといけないと、私たちの世代は思い始めているのではないかなと思っています。
そういうことをベースにしながら、そういうことを考えるきっかけになればと思います。

編:これから、映画館での公開があり、その後も自主上映活動をすると思いますが、この作品の後にどんな作品を作っていこうと思いますか?

監督:いくつか候補はあるのですが、今できることを見極めながらやっていこうと思います。今回作品を作って、自分はどういう作品を作っていくべきか、なんでこういう作品を作っているのかという確認はできたなと思います。

編:長編の1,2作が、戦争に翻弄された人々を描いていますよね。まだまだ掘り起こすものがあるでしょうね。

監督:近代の国家という枠組みの中で、国民としての保障とか安定を享受していると同時に、いつでも国家に切り捨てられるという危うさの中で生きている。そういう中で、なんとか自分たちの生活や人生を守ろうとする個人というものに焦点をあてていきたい。政府が国家を維持していくのが仕事だったら、芸術家は個人の尊厳を追及していくのが仕事なんだと今回あらためて思ったので、今後もこういうのをベースにしていくと思います。

編:ありがとうございました。


『美しいひと』 公式HP http://utsukushiihito.jimdo.com/

製作協力/ヒポ・コミュニケーションズ いせフィルム
製作・配給/㈱一隅社 S.Aプロダクション
助成/文化芸術振興費補助金
2013年 日本 116分 カラー



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1作目『花の夢 ―ある中国残留婦人―』作品紹介 シネマジャーナル71号(2007年)
http://www.cinemajournal.net/bn/71/hananoyume-shokai.html

1作目『花の夢 ―ある中国残留婦人―』東志津監督インタビュー シネマジャーナル71号(2007年)
http://www.cinemajournal.net/bn/71/hananoyume-kantoku.html

3作目『北のともしび ノイエンガンメ強制収容所とブレンフーザー・ダムの子どもたち』 東志津監督インタビュー 2022年7月31日
http://cineja-film-report.seesaa.net/article/490207103.html

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