女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
71号   p. 46

『花の夢 ―ある中国残留婦人―』

二〇〇七年 監督 東志津 宮﨑 暁美

 この作品は、満州に渡ったまま戦後三五年もの間、日本に帰れなかった中国残留婦人栗原貞子さんを、三年に渡って撮ったドキュメンタリーです。

 栗原さんは、前頁の森川和代さんと同じく一九四四年四月、満蒙開拓女子義勇隊員として十八歳で渡満。満州で開拓を手伝い、研修をしに行くんだと思っていたそうです。八ヶ月くらいで帰ってこられると聞かされ、出かけたと語っています。

 ところが、女子義勇隊とは、「大陸の花嫁」だったのです。満州への移民政策とは、大人たちだけではなく、貧しい農家の少年たちへの口減らし策でもありました。満蒙開拓青少年義勇隊が組織され、十代前半で満州に渡った少年たちが青年になり、結婚相手として送られたのが女子義勇隊だったのです。でも、その真意は伝えず、若い女性たちを満州に送り出しました。

 栗原さんは、結婚したくない、日本に帰りたいと最後まで抵抗しましたが、結局かなわず、結婚せざるを得ませんでした。満州に渡って七ヵ月後、十一月に結婚しました。でも、夫は四五年七月に出征。当時、栗原さんは妊娠四ヶ月だったそうです。

 八月九日、ソ連軍が満州に侵攻し、開拓団の人たちと避難を開始。亡くなった方もたくさんいた中、七台河という村にたどり着き、農家に助けられました。

 お腹の子を助けるため、近所の人が紹介してくれた董長勝さんと、子供が生まれる寸前に結婚。董さんが、とてもいい人だったのが幸いでした。乳の出なかった栗原さんのために、近所でもらい乳をしてまで、他人の子供を育ててくれたのです。とても感動的な話でした。よかったね栗原さんと、思わずこのシーンで涙が出ました。たくさんの人たちが死んでいった中、心打たれる話でした。その後、董さんとの間にも子供が生まれ、子供は六人になりました。

 しかし、多くの残留孤児や残留婦人と同様、貧しい暮らしの中、必死に生きてきた栗原さん。文化大革命の時には、日本人であるがために自己批判も迫られました。

 一九七五年の一時帰国を経て、夫の進めもあり、永住帰国を考えるようになりましたが、一緒に日本に行く予定だった董さんは、日本に行く前に亡くなってしまったそうです。一九八〇年、まず長女と次女を連れて帰国。その後、ほかの家族も呼び寄せ、日本で暮らすことになりました。

 戦争に振り回され、棄民を生きた栗原さんですが、日本にやっと帰ってきたのに、やっかいもの扱いされたりして、当初はなじめず、帰国したことを後悔したこともあったそうです。 帰国後二七年がたち、現在の栗原さんは、都営アパートで一人暮し。落ち着いた生活を送っているように見え、ほっとします。とぎどき子供たちが訪ねてくるし、素晴らしい自筆の絵手紙が部屋を飾っています。そして、猫の大吉が傍らにいます。子供、孫、曾孫合わせたら五〇人以上の大家族になりました。厳しい人生をくぐりぬけてきた栗原さん。せめて残りの人生は穏やかに暮らしてほしいと思います。

 野原に咲き誇る花がきれいだったという栗原さんの思いを込めた『花の夢』というタイトルもすてきです。


 森川和代さんも栗原貞子さんも満州に渡ったがために、戦後すぐに日本に帰れなかったし、去年公開された『蟻の兵隊』でも、山西省に残された兵隊が二六〇〇人もいたことが語られ、びっくりしたが、終戦当時、満州にいた日本人開拓民はおよそ二七万人、そのうち八万人くらいが亡くなったと言われています。戦後、中国へ残らざるを得なかった女性は約四〇〇〇人。今も二〇〇名くらいが中国に残っているそうです。

 満州に行けば、今よりいい暮らしができるという言葉に騙されて行った人たち。栗原さんのように研修と騙されて大陸の花嫁にされた女性たち。戦争は人々を翻弄する。栗原さんがしみじみ語るように、戦争は、二度と起こしてはいけないと思うのです。

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