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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『津軽のカマリ』二代目 高橋竹山たかはし ちくざん インタビュー 2018年10月1日

東京都出身。18歳で高橋竹山の内弟子となる。自立して高橋竹与(ちくよ)の名で竹山とともに演奏活動をする。伝統を守りつつ、モダンな感覚をプラスして様々なジャンルの音楽家とコラボ。1997年1月二代目高橋竹山を襲名。

高橋竹山オフィシャルHP https://www.chikuzan.jp/
『津軽のカマリ』作品紹介は こちら


-初代高橋竹山の弟子になるまでをお聞かせ下さい。三味線のどこが良かったですか?

はっきり言いますとピアノ大好きだったんです。でも家が鮨屋だったので、家族にはおよそピアノと言う感覚がなくて、日本の浪曲や都都逸やそのたぐい。聞いていて三味線もいいなとは思っていました。家族中でお稽古していたのに、自分は参加しないで聞くだけだったのですが、あまりにもみんな覚えが悪い(笑)。それで自分でやってみたら、できたんです(笑)。でも覚えるのと人様に聞かせられるかというとまた距離があって、週に1回近所の先生のところにお稽古に通っていました。17歳のときに初めて竹山先生のLPレコードに出会って、針を落とした瞬間にほんとに鳥肌が立ちました。今まで聞いたことのない音でした。この人に習いたい!とすぐ思いました。

-まだ10代ですよね。ご家族はなんとおっしゃいました?

家族に言ったら、ぜひ行け!とみんな賛成、父親は特に。前からレコードを聞き、テレビに出られたのも見ていましたから。先生に弟子にしてもらいたいとお願いしましたが、断られ続けまして「遊びに来るんだったらいいよ」と言われました。父と2人で、クリスマスの前に青森まで行きましたら、もう雪で真っ白。ようやく先生の知人の家までたどり着きました。そこで月1回の民謡の会があったんですよ。ひとしきり皆さんの歌や演奏を聴きました。
また弟子入りをお願いしましたら「家には病人がいて内弟子をとってる場合でないんだ」「でもせっかく来たんだから歌ってみて」と。津軽民謡の「鯵ヶ沢甚句(あじがさわじんく)」を歌いました。後から考えたら、なんとまあ!なんですけど、父が好きな歌だったんです。そしたら「いつ来てもいいよ」ってことになりました。唄が先ですから、どの程度唄えるかってことだったんですね。年明けて3月に青森に向かいました。

-東京から行って津軽弁はわかりましたか?

父母と姉がついてきてくれて、1人残されましたが、もう全くわかりません。先生は旅して歩いている人ですから、多少気を使って話してくださって少しはわかるのですが、家族とみなさんの言葉が全然わからない。何を言っているのか大体わかるようになるまで1、2年かかりました。

-いわば言葉のわからない外国で一人ぼっちになるようなものですよね。

ずいぶん勘違いがありました。笑い話みたいなんですけど先生が「まいね!」、「まいね!」って仏頂面で言うのを私は「うまいね!」だと思っていたんです。ほんとは逆で「ダメ!」なんですよ。意味がわかって愕然としました(笑)。でもまあ誉めない人だから。誉められたことは一度もないです。

-初代は自分が教わったとおりに、お弟子さんに教えておられたんでしょうか?

いやそれとは関係なく、私もそうなんですけど、よそ様のを聞いたりしても、自分でいいなと思わない限り絶対お愛想とか口がさけてもいえないんです。いいなぁと思うと一言二言お話させていただくんですけど、かえって悪いじゃないですか、お愛想って。

-心にもないことは言えないと。

もう大っきらいです。

-江戸っ子ですね!(笑)

そんなんで初代も通いのお弟子さんには、ああとか、いいとか言いますけども、私は目指してきているもんですから、よけいそういうことでは厳しくしていただきましたね。

-それは厳しい愛情ですね。見込まないと内弟子にとらないし、これくらいでつぶれると余計だめだしってことじゃないですか? 私は習い事全然できない人間なのに、こんなこと言ってすみません(笑)。
二代目はお弟子さんとられないんですか? 三代目竹山さんは生まれないんでしょうか?

それはわからないですねぇ。くるときはくるだろうし、来ないときは来ないだろうし。

-とりわけ厳しい内弟子を6年やって自立されたわけですが、それは初代のお宅から出て、独り立ちするっていうことなんですね。

そうです。東京の実家に戻って、初代が旅に出るときは駅まで迎えに行ったり、指定のところまで行ったり。自分一人のお仕事と初代とのお仕事で食べていけました。


一番好きなことをお仕事にされたのだと思っているんですけれど、三味線のほかのご趣味は?

趣味というか、やっぱり繋がっています。音楽を聴いたり、演劇を観たり、美術関係も好きですね。知らない世界がありすぎますよね。だから他の国の三味線に似たものを聞くこともありますし、最近とみにブルースが心に響きます。黒人の方々の古いもの。蔑まれて苦労してきた人の音や歌詞が。
それは初代が基本にあると思うんです。目がご不自由でやむをえなく生きてきた世界、その人だけの世界があって、見える私には見えないってことが想像もできません。初代の苦しみをほんのわずかでも自己体験したいといっても、ただ単に目をつぶったらといいかというと、そうじゃない。
いろんな場面で「見えなかったらどうだろう」とよく思いますね。電車に乗っていても、「ここで真っ暗になったら、一歩も足が前に出ないだろう」と思うんです。目の見えない方はそういう恐怖をいつも持って日々暮らしていらっしゃる。それは目だけじゃなくって、「障がいのある方々が抱えているものって本当にたいへんだろう」と思うんです。その上で「音楽をするっていうのはどういうことなんだろう」と、いつも考えていることの一つです。

-真っ暗ではなく、光だけは少し感じられたそうですね。

生まれつきじゃなく、麻疹のせいなので、瞳に雲がかかっているようなものなんです。それで、74,5歳頃だったかな、信州大学の先生が「目、治りますよ」と手術を薦めたんですが、いわく「これ以上見えなくなったら困る」って断っていました。どういうことかっていうとやっぱり失敗したらいやだってことじゃない? 例えば煌々と光る満月とかはぼーっと見えてわかって「おー、今日満月だな」と。電気もずっとついていると「寝られない、早く消せ」と言ったりするので、そういうのは察知するんですね。人の姿なんかは全然わからない。

-手術が失敗したらっていうことも、世界が全く変わってしまったらどうなんだろうっていうこともあるでしょうね。
私は動画で見たくらいで、三味線の演奏のことはさっぱりわからないんですけど、習うときは、とにかく先生の演奏を聞いて真似していくものなんですか?

長唄とかあちら系は譜がございます。長いので譜がないとね。我々民謡はこれでなければいけない、っていうのは基本的にないんです。教える方たちもそれぞれ違いますし、唄についてもさっきの鯵ヶ沢甚句も違います。五線譜でやっている方もいるかもしれないけれど、初代や私は耳だけが頼りですね。

-初代がいて二代目がいて、先ほどに戻ってしまいますが三代目は今わかりませんと。

わかりませんというか、自分が教えるほどのものがあるかっていうのがまず疑問ですしね。ある一定のものは教えることができるけど、唄とかね。それは通いの普通の生徒で弟子ではありません。それは好きでやっているわけで。それに私は1人にしか伝えられないと思っていますから。
まだいないですね。ただ、三味線やる人じゃなくてもいいと思っているんです。

-それは技巧技術でなく、気持ちを伝えるってことですか?
竹山先生から伝えられた技術と心を残していきたいですよね。

もちろんです。特定の人だけでなく、いろんな人のところに深く入っていかないと、そういう話もできないですし、そういう風に来る人もいないです。いまのところ。

-竹与さんになりそうな人はいないですか? 唯一無二の感じがするからかな。受け取る人がいないと伝えられないですよね、すごくもったいない。

いやー、なんなんでしょうね。楽器が違ってもやりかたとか、遡れば一緒だし、まず喋って。私はこの年なので言えることもあると思うし、その人にも素養というものがあると思うんですよ。華がある見た目、私見た目大事だと思っています。私の中の「見た目」(笑)。あと声ですね。喋る声が大事。私が重要視しているところですね。
子どもなら子どもで教え甲斐があると思うんですけど、そうもいかないですね。大概てっとり早く有名になりたいとか、舞台に出たい、いくらお給料もらえますか?とか、そっから入ってきますから(笑)。

何人か来た子はいましたけど、向いていない子にははっきり言います。一生のことですから。「やめたほうがいい」って。練習しなくてもいい子はいいんですよ、これはもうどうしようもない。すぱっとわかっちゃうんですよ。 私は生意気な子が好きなんです。プライドが高くて文句言うような子、へえへえしてるよりいい(笑)。なかなかいません。まあ、自分がきちっとやってないと。ダメだってなっちゃうと話にならないから。自分が気持ち良く生きてればいいなぁって感じです。

-「気持ち良く生きる」それ「いいね!」です。

あ、今けっこう良かったね?! 初めて言った!(笑)

-「いいね!」いっぱいつきますよ(笑)! 二代目は携帯持たないんですよね。今もですか?

持たないです。でも周りの人の(携帯やPC)を見ているので「いいね!」はわかります(笑)。


-初代は着物姿で座って演奏されていましたが、二代目は立って演奏されますね。

立つと動けるから。踊りもできるし。しっとりと着物も好きなんですけどね。

-姿勢もスタイルも良いのでドレス姿も素敵ですが、自分でデザインされるんですか?

いえ、あちこち崩れてきました(笑)。デザインはいろいろ相談して。曲ごとに合った衣装やアクセサリーを考えるのが好きですね。他の舞台など見てもそういうところにも目が行きます。選ぶ喜びがあります。何を見てもそういうところ気にしています。

-あ、映画に戻らなくちゃ(笑)。ロケで大西監督とあちこちに行かれましたが、印象に残っているところは?

初代とは25年ご一緒しましたから、渋谷のジァンジァンからはじまっていろいろな場所を回りました。一番は沖縄です。初代もさんざんご苦労されたけれども、特に沖縄の方々は戦争で肉親を殺されたり、(自決のために)家族を自分で手にかけたり、悲惨な体験をしています。どこかへ行く前にはマネージャーの佐藤さんと一緒に資料を読むんです。人情に厚いひとでしたから、沖縄の話は特に残ったんだと思います。
舞台で絶句したこと、感極まって言葉につまってしまったことは、後にも先にも沖縄でだけです。そのときのお客様は水を打ったようにしーんと静かになって、後、大きな拍手がおこりました。その場にいた人と同じものを感じ、提供できる存在であるということですね。やっぱりそれはすごい力だと思います。初代が死ぬ思いをした三陸の野田村も(津波に出会って逃げた)印象に残っています。

-ご長命で、ずっと三味線を弾き続けられて。(晩年は喉頭がんのため、声が出せなかった。1998年2月5日死去)

数えで88歳でした。ラストシーンにありますように、最後までしっかりしていました。
私の襲名披露(1997年1月)に渋谷のジァンジァンまで来てくださって「みなさん、いいときの竹山を聞いてもらいましたが、ダメになった竹山も聞いてください」って。そういう覚悟ってすごいと思います。いろんな引き際があり、いいときに引退するっていう人もいますけど、先生は何も隠さなかった。あれでよかったと思っています。

-長時間ありがとうございました。コンサート必ず行きます!



=インタビューを終えて=

立って三味線を弾く姿を映像で観ての第一印象が「ロックスターみたい!かっこいい~!」でした。
民謡は子どものころからよく聞いていて、東北の言葉と民謡は身近でした。津軽三味線は聴いていると気分が高揚します。津軽弁の「じゃわめく」です。その第一人者にお話を伺えるとは! 嬉しくてミーハー心半分(いや、ほとんど)で取材に向かいました。
二代目高橋竹山さん(本文で二代目とお呼びしています。ご容赦)は江戸っ子らしく、芯が通って(1本でなく3本かも)、粋でかっこいい方でした。長かった髪を今年ばっさり切っていてベリーベリーショート、すっきりさっぱりしておられました。
初代のエピソードから三味線、コンサートや衣装の話、それにお互い長い間使い続けてきた身体の故障の話、あちこち飛びつつの楽しい時間でした。
作品中にもコンサートの映像がありますが、11月に初代高橋竹山没後20年メモリアルコンサートが都内でも2箇所で開かれます。帰ってすぐチケットを手に入れたのはいうまでもありません。

(まとめ・写真 白石映子)



初代竹山没後20年メモリアルコンサート ~「民謡の心」唄から三味線へ、三味線から唄へと繋ぐ~

出演:高橋竹山(津軽三味線) / 小田朋美(ピアノ)

日時:11月4日(日)13:15開場 14:00開演
会場:狛江エコルマホール

日時:11月10日(土)13:30開場 14:00開演
会場:江東区文化センター 2階ホール


高橋竹山オフィシャルHP https://www.chikuzan.jp/
労音 https://ssl.alpha-prm.jp/ro-on.jp/service/app/artist/detail/261/

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