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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『津軽のカマリ』大西功一監督インタビュー 2018年9月28日

1965年大阪生まれ。大阪芸術大学卒。在学中から報道カメラマンの助手につく。ギター流しを追った『河内遊侠伝』が卒業制作学科賞。上京して『吉祥寺夢影』(1991)『とどかずの町で』(1995)でフォーク歌手の高田渡を起用。 2011年、沖縄県の宮古に伝わる古謡、神歌(かみうた)をテーマにドキュメンタリー『スケッチ・オブ・ミャーク』を発表し、好評を得る。スイス ロカルノ国際映画祭批評家週間部門にて準グランプリ受賞。2015年より函館在住。
映像の仕事を続けるかたわら、自ら菜園を作り、無農薬野菜を育てる農家と繋がって《カフェ プランタール / love & vegetable market》をオープン。
心に残る映画は「ヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』。かつてロックが好きで、映画はさほどではなかった自分の心に触れてきた作品で、その後、小津安二郎やヌーベルバーグ、ジョナス・メカスなどとの大事な出会いがありました。あの映画がなければきっと映画を撮ることはなかったと言えるでしょう」。


(C)2018 Koichi Onishi

『津軽のカマリ』

「カマリ」とは「匂い」のこと。生前、初代高橋竹山は「津軽のカマリが湧き出るような音を出したいものだ」と語っている。残された映像や音声、竹山を知る人々の言葉を集めながら、彼の苦難に満ちた人生に光をあてていく。また津軽に残る風習や文化の背景をさぐり、つましく生き、死んでいった人びとに思いを馳せる。

高橋竹山(1910年6月18日~1998年2月5日)は貧しい農家に生まれ、麻疹をこじらせてほぼ失明する。生きていくために三味線と唄を身につけ、東北・北海道を門付けして歩いた。戦後は「津軽民謡の神」と呼ばれた成田雲竹の伴奏者として各地を興行、竹山(ちくざん)と名乗った。昭和39年に独立。津軽三味線独奏という新しい道を開く。


二代目高橋竹山 18歳で初代竹山の内弟子となり、師とともに海外・日本全国をまわる。1997年二代目襲名。本作では大西監督と共に初代の足跡を辿る。襲名後初となる青森市内での単独コンサートを開催した。


(C)2018 Koichi Onishi
http://tsugaru-kamari.com/
★2018年11月3日(土)より青森・青森松竹アムゼ、柏シネマヴィレッジ8 イオン柏
11月10日(土)より東京・ユーロスペース 他全国順次公開


-高田渡さんが監督の2本の作品に出演されていますね。うちのスタッフ(暁)が同じアパートに住んでいたので、あまり遠い人という気がしないんです。今『スケッチ・オブ・ミャーク』以外の旧作を見ることはできますか?

それができないんですよね。DVDになっていなくて、すみません。
僕、しょっちゅう高田さんのアパートに行っていましたから、会っているかも知れないですよ(笑)。2本とも家族ドラマで、高田さんは主人公の父親役として出演してくださっています。
『スケッチ・オブ・ミャーク』前後ブランクがありますが、その間映像の仕事を生業にしてきました。今回の作品は3年くらい、企画からはもう20年近く経っているんです。『スケッチ・オブ・ミャーク』も配給はここ太秦さんでした。ミニシアターだけだと観て頂ける人が限られます。お客様から非常に喜ばれて手ごたえのあった作品だったもので、自分で上映用の機材を積んで全国行脚をしました。この時111箇所回りました。最後は秋田のお寺でした。

-映画館が減っていますから喜ばれたでしょう。人に会えて反応もわかっていいですよね。

そうです。主催者の方が一生懸命人集めしてくださるので、普段映画館に行かないような人に「観てよかった」と感動していただけて、何よりだなと思います。それで結構時間を費やしましたが非常に楽しめました。上映後トークしたり、一緒にお酒飲んだり、さまざまなご縁が今でも繋がっています。人脈が何よりの宝ですね。

-十三湖の印象が強かったとHPで読みました。津軽三味線に繋がったのは?

20年前に十三湖へ行ったんです。そして6年前にも東北旅行に出て、次回作のことなど考えていました。友人のお父さんが参加していた民謡教室を見学させてもらいましたら、高橋竹山のお孫さんがいるわ、直弟子さんはいるわで、竹山のことをいろいろ聞かせていただきました。
東北に行く前に、イタコが唱えている呪文のような歌のようなものを聞いて、非常に原初的な音楽のありようを感じていました。『スケッチ・オブ・ミャーク』にも通じるんですけど、こういうものに今触れられるのか?と胸に秘めつつ行ったんです。そしたらお孫さんが「うちのバッチャ(祖母)はイタコだった」と! ここでつながりました。


(C)2018 Koichi Onishi

帰京してから「高橋竹山を軸に描けばいいんだ」とハタと思ったわけです。亡くなった人だけれど、映像も必ず残っているし、なんとかなるだろうと。お孫さんに「こういう映画を作りたいんです」とお願いしましたら「どうぞ」と言っていただけました。
亡くなられているので会ったことはありませんが、僕は竹山に前から関心があって。唄や三味線しか生きていく術がない、それは唄や芸能の原点ではないかと思っていました。僕の中では高田渡さんとかぶるんです。竹山の苦労は並外れていますが、高田さんも苦労人で唄とギターを生業にしていて、竹山に一目置いていました。

-やっぱり惹かれるものがあるんですね。どこか似ていますものね。
こういう亡くなった方のドキュメンタリーを作るときは、何から始められるんですか?

まず映像があるかどうか、からですね。テレビ局にあるのはわかっていましたが、まだ確約が取れないうちにスタートしました。
共同プロデューサーが十和田で『スケッチ・オブ・ミャーク』を上映してくれた人で、主に協賛金集めを担当してくれて。ほかにもいろいろ頑張ってくれました。

-ほんとに大変ですね。で、映像を集めて、ロケしてインタビューを撮って。ドキュメンタリーは、何が出てくるかわからないので多い目に撮って後で削ることになりますよね。機材も発達しましたし、フィルムでなくてよかったですね。

撮ったけれど使わないのもいっぱいあって。尺(長さ)だけの問題じゃなくて、いいシーンなのに流れからしてこれは使えないとか。
編集し終わってから気づいたんですが、『スケッチ・オブ・ミャーク』と同じ104分になっていたんです。エンドロールがいっぱいになってしまって、ちょっと延ばしたら偶然同じになっていました。
僕はカメラも照明も車に積んで1人でどこへでも行っちゃうので、機材のことはほんとにそうです。編集も全部家でできますしね。業界に入ったときは、三脚だって木製で重かった。こんな風になるとは想像もしなかったです。

-監督は大阪芸大のご出身ですが、監督さんをたくさん輩出されていますね。(田中光敏、庵野秀明、橋口亮輔、熊切和嘉、大森研一、山下敦弘、呉美保、石井裕也ほか)同窓会で会うとか、同業者の横のつながりは?

同窓会出てないです。たくさんいるみたいですけど、僕はつながってないですね。

-情報の共有とかスタッフの融通とかいろいろ便利そうですが。
監督さんって選択と決断の繰り返しですよね。悩まれますか?

いつもこれで良かったかなといろいろ心配します。思い切ってやったけど、これが正解だったか失敗だったかって、すごい怖いですよ。文章だって夜中に書いていいなと思っても、朝になったらダメだっていうのと似ていますね。
映画のブログもHPも自分で書いているんですけど、そういうのあまり得意じゃなくて、仕方なくやっています。

-それは私も一緒です。しょっちゅう原稿直しています。あまりに煩雑に訂正するので、簡単に書き込みできるブログに移行しています(笑)。

ロケに行ってよく食べたものとか書く人がいるでしょ。僕はもう苦手で全然できないです。どこかのことを書くと、書いてないところのことがすごく気になるんですよ。差をつけたくないと思って。だからキャラバンでまわったときも、この会場がどうだったとかって一切書きませんでした。やってくれた人がどう思うかなんて考えはじめると、もうやめとこう、と思って(笑)。

-気遣いの方なんですねえ。話が戻りますが、映画はお客さんに観てもらうまでわからないですけど、もう手を入れるところはない、という100点で完成ですか? 100点ですって言わないと。

あはは、じゃあ120点です!(笑)
『スケッチ・オブ・ミャーク』は映っているものの貴重さっていうのがありますよね。それはもう何百点と言えるような凄いものを撮ったなと思っています。それが映画の中心ですから、一生この映画を越えることができないんじゃないかなあ。
作り手としてはまだまだ磨かないといけないんですが、内容がね。何百年どころか何千年の歴史が消えようとしているところに立ち会ったようなものですから。だから宮古島の人たちにとても感謝されましたし、本土の人からも「残してくれてありがとう」と言われたことが結構あったんです。


-プライスレスですよね。あのおばあちゃんたちも亡くなられていきますし。竹山さんや足跡を辿った映像もやはり貴重ですよ。亡くなった方のはもう増えませんし、こうして映像として残すのはいいお仕事だと思います。

ありがとうございます。

-津軽弁は字幕がないと伝わらないのが残念です。私は東北出身者の多い北海道で生まれ育ったので、耳になじみがあって、かなりわかりました。初代のとつとつとした語りがいいですよねえ。

芸人さんと一緒に、浪曲師の伴奏で旅回りしていましたから。語りや唄に三味線をつけながら、自分の身につけていますよね。

-宮古の神歌と津軽三味線には、何か共通点がありませんでしたか?

それが初代の演奏を聴いていて神歌みたいだなと思ったんです。結局普遍的に伝わっているものって太古の深い深い何かと繋がっている感じがあるんです。その独特の振動が神歌にも初代にもあった。初代に限るんですけど、そこまで行きつく人がとても稀なんだと思います。
大学の先生がね、初代の演奏を楽譜に起こそうとしたらしいんですけど、できなかったという話を本人が言っています。竹山の弾き方っていうのは単調な叩き三味線と違って、コロコロこぶしを回して抑揚がある。ただ、一度挑戦してみたそうですが、元々歌のある曲を三味線で弾いてきたので、アレンジはできるけれど、唄も何もないところから作りだすのは難しいそうです。

-やっぱり初代は特別な方なんですね。耳だけが頼りなので、見える人の何倍も耳が優れているんですよね。

そうなんです。リズムを刻むのもすごく正確だそうですよ。お弟子さんの竹童さんから聞いた話なんですが(竹童さんもまた聞き)、ずっと前スティーヴィー・ワンダーが来日したときにパーティがあって、会場で竹山のレコードを聞いたスティーヴィー・ワンダーが「私と同じ盲人か?」と言ったという話があるんですよ。竹山のことが大好きになって、アメリカ公演のときに花を贈ってきた(自分のツアーとかぶって会えないから)と聞きました。それで、コメントをいただけないか頼んでみたんですが、余りにも大物過ぎてお返事ありません(笑)。

-ちょっとスマホで撮って送ってくれないでしょうか(笑)。あ、本人よくてもエージェントから1秒ン万円とか言われたらいやですね(笑)。

僕は高校時代からスティーヴィー・ワンダーをよく聴いていたんです。何が、とは言えないんですけど竹山とスティーヴィーってすごく似ているんです。聴けば聴くほど似ています。映画の中で須藤雲栄さん(唄)が「目が見えない人は竹山先生と同じ様な音色を出す」って言ってますでしょ。そういうこととちょっと繋がる何かが感じられるんです。じゃ、レイ・チャールズはどうか、っていうとちょっとわかんない(笑)。もう一回聴いてみます。

この作品では晩年までジァンジァンなどで若い人に非常に愛されたとか、成功してからのことは描いていません。生きるために三味線をやるしかなかったという時代に絞っていこうと思っていました。門付けなんかももうないですからね。映画の中に東北のおばあさんたちがいるでしょう。子どものころは門付けの人が回ってきて、一日に7人も8人も来たんだそうです。そういう人たちには、少しずつでもお米を分けてあげるのがどの家庭でも普通だったと。

-信心深い人には、功徳でもあるんですね。竹山さんが必ずアリランの歌を弾くのは、北海道で門付けしていたころ空腹で死にそうになったのを朝鮮の人に助けられたからだと、私も初めて知りましたが、そういうことも知ってほしいですね。困っている人を見ることもそんなにないかもしれないんですけど。

そういう人がいても身近でなければ、いないようなものなんですよね。都会は村社会と違って見えにくくなっていますからね。
こうやって映画になって、竹山のことをみんなに知ってもらえることに意味があると思います。僕は竹山を知っていましたが、今40代以下の若い人には全く知られていません。吉田兄弟とか若い演奏者は知られていますが。
竹山を知らない若い人たちにどうやって伝えていけばいいか、繋がっていけばいいかと試行錯誤しているところです。
年配の方々にはやはり浸透しています。二代目のコンサートを函館の市民会館でやったんです。新聞広告を打ったんですけど、お年寄りを中心にたくさん集まっていっぱいになりました。


(C)2018 Koichi Onishi

-二代目のコンサートは東京でも開催されますね。楽しみにしています。 入れたかったのに今回入らなかった場面というのは、どういうものでしょうか?

20年前、お地蔵さんの風景に出くわして、それが印象的だったんです。もうあちこちにある。
亡くなった子どもの供養のためにお地蔵さんを建てるんだそうですから、昔たくさん幼い子が亡くなったということですね。地蔵堂といって、お地蔵さんばかりがいっぱいひな壇に並んでいるところもあるんですよ。そこでも撮影して、その身代わり地蔵を御参りに来ている人のすごくいいインタビューも撮っていたんです。それがね、入れようとしても入らなかった。いつかそれを生かせたらいいんですが。

-次の作品にですか?

次のアイディアはあるんですけど、撮るかどうかはまだなんともいえません。

-監督は全然人見知りしないで、どこにでも入っていけそうな感じがします。人が好きなんですね。きっと。

いや~(笑)。結構難しいですよ、僕(笑)。気難しいってよく言われます。
僕はすごいエゴイストで自分のことばっかし考えていて、ただこういうドキュメンタリー撮るときは精一杯人のことを考えてやるんです。そういうときだけはね(笑)。こんな罪深い人間がそれで救われているなぁって(笑)。

-それでは監督のためにも素敵な映画を撮り続けてください。ありがとうございました。



=インタビューを終えて=

昔見た十三湖の景色が今の作品に繋がったというのは、よほど深いところに繋がっていたのですね。こうしてスポットが当たって、初代も喜ばれているんじゃないでしょうか。
津軽三味線の音色は聴いていて気分が高揚するときと、哀切さにしーんとするときと両方あります。十三湖の風景はきっと後者ですね。北島三郎さんの「風雪流れ旅」は高橋竹山を唄ったものだそうです。「破れ単衣(ひとえ)に三味線抱けば~♪」という歌詞が浮かびます。初代は唄につければ唄を、踊りにつければ踊りがひきたつように弾ける人であったそうです。津軽三味線の名人と呼ばれた初代の「津軽があらわれてくるような音、カマリ(匂い)」を確かめにぜひお出かけください。
いろいろな方向に話が広がっていきました。大西監督は農業に注目していて「高齢者がみんなで楽しく農業をやろうというのが目標です。たくさん収穫すればみんなで交換でき、安く売ることもできる。食は俺らに任せとけ、くらいのができないかな」だそうです。災害で物流が止まったときに、スーパーから食べ物がなくなりました。監督のおっしゃるように「五穀豊穣」を取り戻していけたら、食料自給率も上がり、高齢者と若者が一緒に働くことで交流も生まれます。人がもっと幸せになりそうな気がしませんか。そしてまた歌が生れて、歌い継がれていくといいですね。

(まとめ・写真 白石映子)


★二代目高橋竹山インタビューはこちら

★2012年『スケッチ・オブ・ミャーク』大西監督と監修・出演した久保田さんのインタビュー。 http://www.cinemajournal.net/special/2012/myahk/index.html

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