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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『乱世備忘 ― 僕らの雨傘運動』
英題 Yellowing   香港/2016年/128分カラー/広東語
山形国際ドキュメンタリー映画祭2017 アジア千波万波 小川紳介賞受賞

陳梓桓(チャン・ジーウン)監督 撮影:宮崎暁美

作品内容

2014年9月~12月まで、香港の民主的な選挙を求めて3ヶ月に及ぶ道路占拠に至った雨傘革命。「香港特別区行政長官選挙に親中派のみが立候補できる」という通達が、2014年8月、中国共産党から出され、これに反発する学生や市民が行動を起こした。これは単に選挙だけの問題だけでなく、香港人としてのアイデンティティを保つための闘いでもあった。道路占拠は中環(セントラル)、金鐘(アドミラリティ)、旺角(モンコク)、銅鑼湾(トンローワン)と広がったけど、雨傘革命に参加した人たちの思いは達成することはできないまま収束した。

陳梓桓監督はこの雨傘革命を記録に残そうと、デモの現場で撮影を始め、現場で出会った若者たちが変化していく様子を丹念に追い、主に7人の若者たちを中心にまとめた。警官との対峙や衝突の場面、道路占拠の状況を記録しつつ、若者たちが活動にのめりこんでいく姿、行動を続ける若者たちの思いに寄り添う。3ヶ月近くたって、進展がなく、結果が出ないことに悩む若者たち。そんな彼らの青春物語でもあり、未来に向かってのメッセージを込めた作品になっている。




陳梓桓(チャン・ジーウン)監督

香港城市大学政策、行政学科を卒業した後、香港バプテスト大学で映画、テレビ及びデジタルメディア学科修士課程修了。ジョニー・トー監督主宰の新人監督発掘コンペティション「鮮浪潮」にて賞を獲得。『乱世備忘―僕らの雨傘運動』は長編デビュー作。2016年、台湾金馬奨ドキュメンタリー映画部門にノミネートされた。






陳梓桓(チャン・ジーウン)監督インタビュー

山形国際ドキュメンタリー映画祭2017にて            2017年10月11日


山形国際ドキュメンタリー映画祭2017の特集記事は下記ページにあります。
http://www.cinemajournal.net/special/2017/yamagata/index.html




― 先々週香港に行ったのですが(9月14日~20日)、この雨傘革命で道路占拠が行われた中環(セントラル)、金鐘(アドミラリティ)、旺角(モンコク)にも行きましたが、この雨傘革命の痕跡は、もう全然なくなってしまっていてむなしさを感じました。また、今年4月の東京・テアトル新宿で行われた第一回日本・香港インディペンデント映画祭2017で、この作品を観ることができなかったので、山形で観ることができてよかったです。

前回2015年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でも、雨傘革命を扱った『革命まで』の郭達俊(クォック・タッチュン)監督&江瓊珠(コン・キンチュー)監督にインタビューしているので、今回も雨傘革命の映画でインタビューさせていただきたいと思いました。

2014年9月~12月の3ヶ月に渡る道路占拠を行った雨傘革命ですが、映画を撮ろうと思ったきっかけは?

*シネマジャーナルHP 特別記事『革命まで』2015年 香港
郭達俊(クォック・タッチュン)監督&江瓊珠(コン・キンチュー)監督インタビュー
http://www.cinemajournal.net/special/2016/kakumeimade/index.html

監督 この運動が始まったのは2104年の9月ですが、実際は7月くらいからカメラは回し始めています。というのは、この時、セントラル住民の政府に反対する動きが始まったのですが、それに参加しようと思ったのがきっかけです。7月1日(1997年)は香港が中国に返還された日で、その日はデモや行動がいつもあるわけです。2014年7月は市民、学生などいろいろな人が参加したのですが、このドキュメンタリーの中にもありますが、「住民は絶対に承服しない。政府に負けない」と、座りこみをして、そこで511人の人が逮捕されたわけです。

そのことを自分は撮っておかなくてはいけないと思いました。それは未来のために歴史的事実を残すということになるわけです。撮ろうという思いはずっと前からあったのですが、実際撮り始めたのはこの事件が起きてからです。あの年(2014年)に台湾ではひまわり学生運動が起き、香港では9月に催涙弾が発射されるというデモに対する鎮圧が行われています。

ひまわり学生運動を記録した台湾の『太陽、不遠』(2015年の山形ドキュメンタリーで『太陽花(ひまわり)占拠』というタイトルで上映)が香港で上映されました。台湾でそういう行動があって、それを記録した作品がここにあるということを観て、香港人である我々も、今起きている香港の出来事を撮っておくべきだと思いました。実際はこの作品のチャプター1で、警察と学生の間に挟まれて撮っていた。これが契機になったわけです。そこからこれは絶対に記録すべきだと、より強く思いました。




― そこで、この作品に出てくる学生や若者たちと知り合ったんですね。

監督 当時、ワン・チーホンという学生運動のリーダーが、政府の建物に突入していったのです。政府の建物の広場で学生たちはバリケードを作っていましたが、そこを警察は排除しようとしたわけです。その時に警察と学生の間に挟まれる形になって、学生たちの最前線に押し出される形になってしまった。その対峙は1,2H続きました。僕はその中でカメラを回し続けていた。その時は緊張してとても怖かったです。この映画の主役の人物たちとは、その時に出会ったのです。

警察官と間近にいるということが今までなかったから、僕も怖かったけど、学生たちも怖かったと思います。だけど学生たちは自分たちが何をしたいのか、だからこうしてほしいと警察官を説得しようと試みていた。目的というのは、香港をよくしたい、香港の未来のために変えて行きたいという熱意が学生たちにはあった。僕は学生たちより4,5歳年上だけど、自分が学生だった頃は無力感のほうがすごくて、彼らのように積極的な行動に出ることはできなかったのです。だけど学生たちには僕が失ってしまった熱意を持っていた。彼らが持っている、自分が失ってしまっていた熱意を撮らなきゃという風に思った。この動機があったから3ヶ月撮り続けることができました。

― この若者たちの心や行動の変化、進展は、私の心にずしんと来て、とても良かったと思います。彼らのひた走る行動とか、迷いとか、その思いに寄り添って撮影して、それが映画の中にとても生きていると思いました。逮捕される覚悟で、デモに参加するシーン、とても迫力がありました。でもただ突っ走るというのではなく、ちゃんと逮捕された時に備えて、救済のための相談窓口の電話番号を手にマジックで書いていたシーンは理性的だと思いました。79日間も行動が続いたというのは、そういうのがあったからかなと思いました。

監督 彼らは確かに、自分が何をすべきかということを比較的冷静に分析することができていた時もありました。どういう風に政府に民意を伝えていけばいいかという方法を香港大学のベニー・タイ教授が2013年の初め頃に呼びかけていました。その後、2014年に政府とデモ隊が対峙することになったわけですが、デモに参加する人たちの数が、あんなに膨れ上がるとは、まったく予想していなかった。大体、香港の人たちというのはビジネス、お金をメインに考える人が多くて、こういう政治的なことにはあまり関心を持たないというのがこれまで一般的でした。でも今回は違ったわけです。それはお金だけでなく、香港を変えるということを民衆は求めていったわけです。警察に逮捕されるという危険を冒しても立ち上がろうという意識がありました。

香港人がここまでやるとは誰も予想はしなかったのです。だから、ある程度の譲歩もしていったわけです。学生たちを苦しめたのは政府がなかなか回答を出してくれなかったことです。自分たちの要求に答えてはくれないということで、だんだんと学生たちの困惑が深まっていった。だから運動の半ばくらいには、もしかしたら自分たちの初期の目標を達成することはできないかもしれないという危機感が芽生えてきた。初期の頃は団結も強く盛り上がっていった時期、それから、政府への反抗のやり方を変更していくとか、討論して意見が分かれていったのです。




― 私たち香港に関心がある日本人も、香港の人たちが政治的な運動で、あんなに盛りあって、まさかそんな風にデモをしたり道路占拠することになるとは思っていなかったので驚きました。だから頑張れ、頑張れと思っていました。

最後にレイチェルさんが教授に宛てた手紙が出てきましたが、それがとても良かった。これがあることで、この作品の質がぐっと上がったと思いました。観ている人たちに、すごくアピールできたのではないかと思います。それに監督の幼い頃の映像も出てきて、単なる行動の記録としてだけでなく情緒に訴える作品になったと思いました。手紙の宛て先の教授はベニー・タイさんですか?

監督 いえ、レイチェルの担当教授で、ベニー・タイ教授と同期の方ですが、基本法の草案を書いた方です。

― このレイチェルのシーンを入れようと思ったのは編集の段階ですか?

監督 道路占拠していた時に、レイチェルが教授宛に手紙を書いたということを知っていたので、当時、すでにラストに使えるかもしれないと思いました。それから、父が撮った自分が幼い頃のホームビデオの映像とかも入れていったわけです。

― それらのシーンは、私たちの感情にとても響きました。


監督 『革命まで』と僕の映画が違うのは、個人のことをかなり入れたということです。個人のことを入れたことで、外国人にもわかりやすいのではないかと思いました。父が撮った僕のホームビデオの映像は、香港の歴史も物語っていたと思います。それで入れました。もう一つの意味は、父はこの占拠に反対していたので、そういう意味で、父との対話ということも意味しています。僕がなぜ、学生運動を支援してこういうものを撮ったのかということを理解してほしかった。父にとってはこういう行動は過激すぎると思っているわけですが、学生たちはなぜ占拠をするのか、次の世代のために学生があのように動いたということをわかってほしかったから。

― 27歳で撮っているわけですが、TVや映画の勉強をしたあと、どこかに所属して仕事として撮っているのですか?

監督 これを撮っていた時は、どこの組織にも所属せずフリーランスで撮っていました。けっこうたくさんの人が記録映像を撮っていました。素材をTVやメディアに提供する人もいましたが、僕は一人で撮っていました。ポストプロダクションになってから、プロデューサーのピーター・ヤムさんがいる会社がポスプロの資金を提供してくれて、仕上げることができました。そこと芸術発展基金から資金を出してもらいました。雨傘運動を多くの人が記録していましたが、「もう、あまり思い出したくない」という思いになって、作品にしようという気持ちが失せてしまった人も多かった中で、それらの方たちの協力のおかげで作品にすることができました。




― ありがとうございました。
雨傘革命に参加した人たちの中には挫折感を感じている人もいるとおっしゃっていましたが、決して、この行動は無意味ではなかったと思います。むしろ行動していなかったら、「あの時、行動しておけばよかった」と、あとで後悔するかもしれません。それに、「あの行動で培った行動力や、知り合った友人たちという財産は、きっとこれからの人生の糧になると思います」と、彼女たちに伝えてください。



この作品は、小川紳介賞を受賞しました。



打ち上げパーティで左からピーター・ヤムさん、陳梓桓監督、ゲストサポートボランティアの呉華東さん

取材・写真 宮崎 暁美


取材を終えて

まだ若い監督だけど、雨傘運動への思い、香港への思い、自分より若い人たちへの思いが聞けたインタビューでした。それにしても3ヶ月も道路占拠を続けられたということは、香港人も捨てたものでないと思いました。警察も強権を発動することができず、手を出せなかったのでしょう。

インタビューの時は、けっこうシビアな話が多かったけど、取材を終えてプレスルームに戻った時、ゲストサポートボランティアの呉華東さんが私のデイパックに描かれたキャラクター(Andox&Box)を見て、「華仔(ワーチャイ)?」(劉徳華/アンディ・ラウの愛称)と聞いたので、「そう、この間、香港に行った時に華仔天地(アンディのファンクラブ)のイベントで買ったの」と言ったら、華仔の曲で一番好きな曲は何?と聞かれたので、「忘情水」(『私の少女時代』や『クレイジー・ストーン~翡翠狂騒曲~』ではラジオから流れていた)と言ったら、陳梓桓監督と二人でこの曲のサビの部分を歌って、さらに「笨小孩」という華仔のヒット曲を歌って踊りだした。ほんの1,2分の出来事だったけど二人は盛り上がっていた(笑)。さらに監督は私のデイパックを背負ってキャラクターが見えるようにプロデューサーのピーターさんに撮ってもらっていたけど、あとで自分のFBに載せたらしい(私は見ることができないので聞いた話)。私が華仔天地に長く入っているというのが、二人には嬉しかったのかもしれない。

小川紳介賞を受賞し、打ち上げパーティでは、とても良い笑顔の3人の写真が撮れました。(暁)


アンディ・ラウが考案したキャラクター安逗(Andox)と黒仔(Box)がついたデイパック

9月の香港行きのレポートは下記にあります。

シネマジャーナルHP スタッフ日記 香港に久しぶりに行ってきました
http://cinemajournal.seesaa.net/article/453711072.html

上記スタッフ日記のレポートの中で「香港の変わりようにはびっくり」と書いたけど、監督が「3ヶ月もの道路占拠で店が開けなくなり、おじさん、おばさんがやっているような個人商店はやっていけなくなって、会社組織のような商店(ジュエリーなど)が増えた」と言っていたので、香港の一般庶民の生活にも大きな影響を与えてしまっていたのだと思った。(暁)

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