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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

宝塚、永遠の花園の魅力

『愛と青春の宝塚 恋よりも生命よりも』に寄せて

Livespire『愛と青春の宝塚 恋よりも生命よりも』
Livespire『愛と青春の宝塚 恋よりも生命よりも』
7月4日(土)銀座・丸の内TOEI2ほか全国順次上映

「人はさ、つらい時ほど素敵な夢を見たいと思うんやないかな。こんな時代だからこそ、宝塚が…」

 戦時体制の下、宝塚大劇場が閉鎖されると、タカラジェンヌたちの活動場所も華やかなステージから戦地での慰問へと変わりました。慰問先で死に直面する兵士たちの姿を目の当たりにし、こんな時代に宝塚歌劇が必要なのだろうかと弱音を漏らすベニに、オサムが返したのが上の言葉です。

 宝塚歌劇―― この単語から皆さんが想起するイメージとは、どのようなものでしょうか。「ベルサイユのばら」、電飾が輝く大階段、豪華なドレスにスパンコールの燕尾服、大きな背負い羽根…… あるいはまた、独特の濃いメイクや、男役・娘役の不自然な発声など、何となく敬遠したくなる世界というイメージをお持ちの方もいるかもしれません。
 実際、宝塚歌劇で上演されるステージは、非常に独特なものです。女性が男性を演じる男役の存在がその独特さの最たるものであることは言うまでもありません。しかし実は娘役という存在も、男役をより男性らしく見せるためにかなり誇張した演技が必要とされる、特殊なパフォーマーです。これら仮想の男女が織り成すステージを、そうした独特さに馴染まない人が見た場合、舞台作品としての判断それ以前にその独特さ自体が一種の判断基準となってしまい、「食わず嫌い」あるいは「生理的反発」といった反応を引き起こすこともあるのでしょう。
 けれど、宝塚歌劇の独特さは決して倒錯的なものでもなければ、その舞台も一時の物珍しさを狙った奇抜なパフォーマンスではありません。宝塚歌劇団は日本の劇団の中でも非常に長い歴史を持つ団体で、実に今年で創立95周年を迎えます。そしてその長い歴史の中、波乱に満ちた時代をいくつも経験しながらも、常に乙女たちの憧れによって支持され続けてきた人気劇団でもあるのです。

 『愛と青春の宝塚 恋よりも生命よりも』は、この宝塚歌劇を題材とした作品です。時代は1940年代、日に日に戦争の影が色濃くなっていく時代。武庫川のほとりにある乙女の園・宝塚を舞台に、宝塚歌劇とそこに生きる人々、そして彼らが関わっていく様々な日本人たちの姿が描かれたミュージカルです。
 通称"タカラジェンヌ"と呼ばれる劇団員の乙女たちのほかに登場するのは、演出家、漫画家志望の青年、海軍の将校など。戦時下の日本において、人々がどれほど懸命にそれぞれの人生を生きたのか、何のために生きようとしたのか―― 『愛と青春の宝塚』では、宝塚歌劇団のたどった運命を語るというよりも、宝塚歌劇に象徴される「素敵な夢」というものの美しさと、人生におけるその必要性が謳われています。
「つらい時ほど素敵な夢を見たいと思うんやないかな」
 悲しいとき、辛くてたまらない時、ふと耳にした音楽に救われた、優しい歌声に癒された、そんな経験を持つ人は多いと思います。もちろん、あらゆる癒しを拒むような絶望というものもあるでしょう。けれど、溌剌とした肉体から発散される生命の輝き、汗となってほとばしる情熱や夢に燃える眼差し、希望に満ちたあたたかな歌声など、「人間」の持つパワーを直に肌で感じさせてくれるパフォーミングアートというものは、頑なな心にも、弱りきった心にも、実に難なく入り込んでくる魅力を持っています。
 とりわけ、そのパフォーマンスが素直で自然なものであれば、その癒しのパワーも素直に、自然に、心へと入り込んできます。独特さゆえに「不自然」と思われがちな宝塚歌劇ですが、舞台上のパフォーマンスという面に関して言えば、むしろ数多い商業演劇の中でもかなり素直で自然なものと言えるでしょう。なぜなら、演じ手である劇団員――タカラジェンヌたちとは、女優と言うより学生に近い素直さを持つ、ごく普通の女性たちだからです。

	Livespire『愛と青春の宝塚 恋よりも生命よりも』 	Livespire『愛と青春の宝塚 恋よりも生命よりも』
Livespire『愛と青春の宝塚 恋よりも生命よりも』
(*本作品はWキャストのため2パターンでの上映を予定しています。)

 宝塚歌劇団の劇団員は、全員が付属の音楽学校の卒業生。中学校3年から高校3年までと受験可能期間が制限されている試験を通り抜け、2年間の音楽学校生活を経て晴れて劇団員となるシステムです。音楽学校を卒業しても、劇団にいる間タカラジェンヌは「生徒」の扱いを受け続けます。舞台で主役を務めようとも、高い人気を博そうとも、劇団員が一同に会する際には年功序列で席次が決まります。入団5年目までは、学年内での席次を決める試験なども行なわれるほどです。
 試験を経て音楽学校に集まった15歳から18歳までのごく普通の少女たちは、そのまま劇団へとエスカレーター式に入り、日々舞台を務めて行く中でそれぞれに舞台経験を積んでいきます。その過程で違う道を志して去る者もいれば、結婚によって劇団を去る者もいます――宝塚歌劇団は未婚女性のみで構成される劇団であり、結婚する場合は退団することとなっているのです。しかしそうした日々の中、多くのタカラジェンヌたちは、プロの女優として独自の表現方法を築き上げていくというよりは、あくまで普通の少女が学校という機関の中で成長していくような意味合いにおいて、各々の個性を磨いていきます。社会において業績が評価されるように技術の高低が評価されるのではなく、学校において模範的な努力が評価されるように、劇団が目指す方向に合った個性の研鑽が評価されるのです。
 こうして育てられるのが、一定の技術力と宝塚歌劇という看板に背かない共通した雰囲気とを持つ、素直で自然な、どこかアマチュアらしさを残した舞台人、"タカラジェンヌ"です。ファン以外の目から見れば、どのタカラジェンヌもあまり変わり映えはしない、要するに「タカラジェンヌ」でしかない存在かもしれません。しかし、世間的には「高校生」とひとくくりにされる高校生も親にとっては世に2つとない魅力と可能性を有した子どもであると同じように、彼女たちを熱烈に応援するファンからしてみれば、タカラジェンヌは十人十色の魅力と無限大の可能性を持つ世界に1人のスターなのです。そして、舞台の外ではごく素直に自然に振舞う彼女たちが、舞台の上では美しく装い、眩しいライトを浴びて、観客の眼前で華やかな夢の世界を繰り広げます。親近感と憧れ――それこそが、時代を問わず宝塚歌劇を支え続けてきた人気の根本にあるものなのではないでしょうか。

 この作品に登場するタカラジェンヌたちも、それぞれに夢や希望、あるいは悩みを持った、ごく普通の女性たちです。宝塚歌劇団に身を置いているからと言って、宝塚の舞台に立つことそのものが夢であり目的であるといった者ばかりでもありません。没落した華族の娘で、衣食住が保証された生活を送りたいために劇団へと入ったタッチーのようなタカラジェンヌもいます。それでも、舞台に立つことは彼女たちそれぞれにとって、やはり意味のあるものであり、生きている証なのです。
 表現者として、舞台人として伝えたい特別な言葉があるわけではなく、「生徒」として鍛錬を積んでただ必死で歌い踊る、そんな彼女たちがふりまく「生きる喜び」が、見る者の心を和ませ、明日への活力をもたらします。戦時下の日本においても、そうした彼女たちに活力をもらった男性たちがいました。誰もが戦争と向き合わねばならず、戦地へ行かない者は行かない者の、戦地へ赴く者は赴く者の、それぞれの苦悩を抱えていた時代。タカラジェンヌたちの素直で自然な生き方、悲しければ泣き、楽しければ笑い、夢を諦めず、希望を見失わない生き生きとした姿は、そうした男性たちの心にもぬくもりを与えるものとなったのです。
 「欲しがりません勝つまでは」のスローガンが叫ばれ、国民全てが何かを犠牲にすることが求められた戦時下の日本。宝塚歌劇の舞台も時局にそぐわない娯楽と見なされ、国民が犠牲とすべきものの1つに数えられることとなりました。華やかな舞台衣装からみすぼらしいもんぺ姿へ―― 大劇場は閉鎖され、タカラジェンヌたちははるか満州までも慰問へと訪れ、歌を歌います。立つ舞台は変わっても、彼女たちの歌声はやはり人の心にぬくもりをもたらしました。たとえ、歌う彼女たちが「人がいっぱい死んでいるのに、歌ったり踊ったりなんかできない」という辛さを抱えていたとしても。

	Livespire『愛と青春の宝塚 恋よりも生命よりも』 	Livespire『愛と青春の宝塚 恋よりも生命よりも』
Livespire『愛と青春の宝塚 恋よりも生命よりも』
(*本作品はWキャストのため2パターンでの上映を予定しています。)

 戦時中の宝塚歌劇については、橋本雅夫氏の『すみれの花は嵐を超えて ― 宝塚歌劇の昭和史』(読売新聞社、1993年)が詳しく取り上げています。『愛と青春の宝塚』の背景となっている時代を含め、宝塚歌劇が経てきた波乱の時代と日本の姿を描いた本です。
 1914年(大正3年)、第1次大戦勃発の年に創設された宝塚歌劇団。当初は温泉地に客を呼ぶための余興として始められた少女歌劇が次第に人気を集め、良妻賢母を育てる乙女の園として評判を高めると同時に、日本初のレビュー『モンパリ』以降は舞台としての評価も上がりました。1938年(昭和13年)・1939年(昭和14年)には、不穏さを増していく時局の中でも、華やかにヨーロッパやアメリカで公演を開催。しかし、そんな歌劇団も結局は国策に沿った在り方でしか存続を許されなくなっていきます。
 不敬と見なされた芸名の改名に始まり、外来語の禁止、そして上演演目も戦時色の濃い愛国的なものばかりへ。『愛と青春の宝塚』の中で劇中劇として上演される演目も戦争物ですが、実際に当時はこうした作品を上演することでしか、劇団が公演を続けることはできなかったのだと思います。国策にも背かない安価な国民娯楽として生き残りを図った宝塚歌劇は、戦況が最悪の状態に陥る1944年(昭和19年)までは、こうして何とか公演を続けることができました。劇場の閉鎖が決まったのはこの年3月、第1次決戦非常措置令の発動を受けてのこと。宝塚歌劇と並んで人気を博していた同じく女性ばかりの劇団・松竹少女歌劇団(戦後の松竹歌劇団の前身)は各高級劇場の閉鎖に伴ない、この時解散してしまいました。
 宝塚歌劇団は劇場を失っても解散はせず、少人数のグループに分かれて国内各地の工場や部隊駐屯地を回る、宝塚歌劇移動隊を結成して活動を存続させました。1944年の夏には樺太、秋には満州への慰問公演も行なっています。一方で、工場で旋盤を回すような勤労動員にも参加。『愛と青春の宝塚』第2幕で描かれるエピソードはもちろんフィクションですが、当時実際にタカラジェンヌたちが体験した出来事がベースとなっているのです。
 一方、劇中とは異なる史実も存在します。『愛と青春の宝塚』のラストは、戦争が終わり、タカラジェンヌたちがやっと舞台へ戻れるという希望の中で歌い踊るシーンとなっています。しかし実際には、戦局がいっそう悪化していく1945年(昭和20年)春から、大劇場は閉鎖されたままではありましたが、近隣の映画館を「宝塚映画劇場」と改称し、そこで公演を再開することが許可されたのでした。空襲警報による休演も度々でしたが、ここで上演されたのは閉鎖間際の大劇場公演のような愛国的、軍国主義的な作品ではなく、戦時色のない和やかな演目でした。劇中でも描かれていますが、大劇場閉鎖に当たっては大勢のファンが詰め掛け、別れを惜しんだ宝塚歌劇。閉鎖から1年経ち、ますます暗さを増していく日々の中で、"夢"の輝きを途絶えさせなかったタカラジェンヌたちは、まさに「つらい時ほど素敵な夢を見たい」という人々のニーズに応えた癒しを、ささやかながら舞台から届け続けていたのです。

 終戦を迎えた後も、海軍に接収されていた宝塚大劇場と陸軍に接収されていた東京宝塚劇場は、引き続き今度はアメリカ軍に接収されることとなりました。宝塚大劇場が劇団へ返還され、公演が再開されたのは1946年(昭和21年)4月。大劇場閉鎖の命が下された際に公演を行なっていた雪組(劇中、リュータンたちが所属しているのも雪組です)が、その再開公演を担当し、再び大劇場の舞台の幕を上げたのでした。一方の東京宝塚劇場に再び宝塚歌劇の歌声が流れるのは、終戦から10年を待った後、1955年(昭和30年)のことでした。

【書き手紹介】

 中学生時代の夏休み、かつて越路吹雪ファンだった祖母に本拠地・兵庫県の宝塚大劇場へ連れて行かれたのが宝塚歌劇との出会い。以来20年間、熱心なファンとして各公演を鑑賞しつつも、日本にしかない独特な文化の1つとして、客観的な考察を個人的に積み重ねています。世界にも珍しい女性だけの劇団としての特殊性、その舞台が持つ魅力の本質を考えると共に、女性のみの舞台である裏返しとしての劇団の封建的な体制や、変貌していく社会の中でどのように第一線のエンターテイメントとして人気を保ち続けてきたのか等、社会文化史的な意味合いにおいても宝塚歌劇に深い興味を持っています。

作品紹介はこちら

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(文:M-CHAMP)
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