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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『ニセ札』木村祐一監督インタビュー

木村祐一

ー 俳優として監督を見ていたときと、ご自分が監督になって違ったことは?

 俳優の場合は、キャストの一人ということで監督の指示に従えばいいという、言ってしまえば気楽です。キャストから見た監督というのは、それはもう抱えているものの量が違うし、せまられる決断の量も膨大なものです。作品を作る前も後も時間をかけている、その仕事量をみて圧倒されるばかりでした。声をかけていただいて、はたして自分にできるのかと思いました。

 それが、内容が決まり、納得いくものが出来、と、自然な流れでやっていけたんですね。一日でやってしまうわけではない、時間をかけて作っていけばいいんだ、いろんな監督像に捕われることなく、自分で葛藤して決断していかないと前に進まないんだ、と、そういうことが日に日にわかってきた。めちゃめちゃしんどかったいう感じではなかったです。そうやらせていただけた。環境がすごく良かったんですね。

ー キャストの方々が「監督は指示が明確で決断が早い」とおっしゃっています。

 昔っからそうなんです。あんまり考えてるの長いの嫌なんです。二つ選択肢があったときに悩んで一つ選ぶより、早く決断したら二つできるみたいな感覚がある。この世界に入ってネタ作るのも、TVや舞台でお笑いやるのもそうです。映画は時間がかけられる分余裕を持ってできました。自分がどんな監督やったらいいかなと考えたとき、やっぱりすっと答えが出て、決断の早い人がいい。それをするには、自分の中でいろんな問題を想定して管理しておく。すんなり答えが出て、結果早かったと思うんです。

クレーンを使ったり技術的なことは結構やりましたが、芝居部分に関しては、台詞をかんだりしない限り、基本は1回テストして本番、多くて3テイクくらいでした。

『ニセ札』場面写真 『ニセ札』場面写真
©2009『ニセ札』製作委員会

ー 現場での脚本の変更は?

 一言一句脚本どおりってことではなかったので語尾は変えてもいい、ということも入れて1割。新しく台詞を変えたシーンは、河原でのピクニック。裁判のシーンは主に倍賞さんの台詞をディスカッションして何回か書き直しました。「間違うのに理由なんてない」「捕まろうと思ってやっていない」などの台詞です。短めにして観客が行間を読み、納得し、共感してほしいというのがありました。

ー メインキャストを女性にしたのは?

 実際の事件では男性の学校関係者が一人いたそうですが、この他はオリジナルです。男性にするより、女性のほうが思いやりや愛情が出るかなと思いました。学校の子どもたち、引き取っている哲也、村の人たちに対しても。実際、強い信念があり、行動力もある。女性にしたほうが納得いったんです。

ー 倍賞美津子さんへ熱烈なアプローチをされたとか。

木村祐一

 最初にお目にかかったときに「(ニセ札作りを)ワクワク楽しくやっていたと思うのよ」と言われたんです。それが僕の目指す暗くしたくないというのと一緒やった。犯罪とはいえ、希望に満ちて、いたずら心や開き直りもあったんじゃないかと思っていたんです。

 現場でも明るくて「グッドモーニング、エブリバディ! 今日もよろしくね」とか「ボンジュール」と日傘さして来られるんですが、そのあと敷居につまずいてこけたり。

 モニターを見ていても「可愛い」。母のようでもあり、恋人のようでもあり、人間力のある懐の深い人でした。そこからかもし出される表情に毎日のように感心していました。倍賞さんが柱として決まった他、ほぼ100%指名したとおりのキャストになって良かったです。アントニオ猪木の話も聞けたし。

ー いつも新しいことに挑戦し、成功されていらっしゃいますね。

 いや、不安だらけですよ。自信もないし。だから準備するんですね、いろいろと危機管理する。最悪のところを人に対しても仕事に対しても想定しておくんです。そこからはプラスにしかならない。〝自信満々でやっているように見える〟なら、そういう演技もしようかなぐらいの気持ち。緊張しないように見えるんだったら、緊張したら損やな、って。みんなどこかしら演技しているでしょう。敬遠されるのはいちばん損ですし、表現自体を否定されたり、嫌悪感抱かれたりも損。謙虚な気持ちでしっかり丁寧に作ってプラスの評価を得られると嬉しいですね。

危機管理は子どものころからです。自分だけ捨てられたらどうしようとか、悪いことしたら子どもの警察に連れていかれるとか心配して、ここは泣いておこうとか、そういう子どもでした(笑)。親にはちょっとのことでも幸せやな、と思うように育てられましたね。戦時中子どもだった両親は「今はありがたい、ありがたい」って、言っていました。特に親父はいつも有難がっていました。

ー 時代考証について。

 知らない時代ですから、写真や映像を参考にしました。外すにしてもルール、基本を知った上でないとね。警察署の太鼓はほんとにあったかどうかわからないですけど、そういうふうに良かれと思ってやったことはありました。

 当時の人がもし観たとして「違うけど、そういう風にみてくれてありがとう」って言ってもらえればいいなぁという意識はありました。昔やから貧乏やから言うて、なんか変なもん食わすとか汚いもの着さすとかはいややったですね。そんな中でも絶対こぎれいにしときたいし、ちょっとでも旦那や子どもたちにええもんをと思うてはったと思うから。

ー 初めはためらったニセ札作りを次第に楽しんでいく映画でしたがそんな経験は?

 遊びでも何でも危険すれすれのほうが面白いですよね(笑)。悩むのは怖いから、不安だからです。でも動き出すと楽しさが勝っていく。ジェットコースターなんかもそうですよね。僕自身でいうと畑でスライディングの練習をしてみたり、夜中に学校のプールで泳いだりとかありました。やってみたら爽快きわまりない。垣根が取れるとのりきれるみたいな、ね。

『ニセ札』場面写真 『ニセ札』場面写真
©2009『ニセ札』製作委員会

ー 不況下の若い人たちへメッセージを。

 昭和25年っていうのは我々の調べたところでは…都会の方では高度成長の礎になるようなことが始まっていた。そういう情報が田舎の町にも届いていた。現実にそんなに豊かにはなっていないけど、戦争が終わって光が見えて憲法も変わって夢と希望に溢れていた。お金はないけど。そんな時代なんですよ。

 今はある程度財があるので、不景気だと守りに入ってしまいますよね。昔は守るものがない分、希望に置きかえられた。今の人、生活にそんなに不自由はないんですよね。もっと希望を持っていてほしいんですけどね。選択肢がなくなっていくからこそ自由にできるんだって思っていただければいいような気がします。派遣で切られたら、いろいろあると思いますけど、リストラクションは「再構築する」です。「される」っていうイメージでしょ。企業でなく、自分が再構築「する」。

 学生たちはたぶん親が金持っているから思いっきりスネかじってつこたらええねん(笑)。使わな動かへんもん。

ー 監督をなさった後これからの目標は?

木村祐一

 目標や段階があるわけではないんですよ。でも、やり方がわかったので、「自分の作品」というものができるようになればいいですね。

 それが映画か小説か、どんな表現方法になるかわからないんですけれども、自分だけが感じるものを理解してくれる人がいるのかどうか知りたいです。写真や映像にコメントをつけていくとか、映画か、写真集かまたは「ビジュアルアーツ」か、何と呼ぶかは見る人に判断してもらいたいのですが、こちらは出して行く作業をする。職業は何家?何師?というんでしょうね。新しい職業になるのかなぁ。そうなればいいですねえ。

* * * * *

*2月20日、合同インタビューで初めて“木村監督”にお目にかかりました。俳優としていろいろな作品を通じて観ていた方なので、正直ちょっとあがってしまいました。たいへんまじめで気配りをされる方なのがよくわかって、ますますファンになった次第です。

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(取材・まとめ・写真:白石映子)

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