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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

2003年アジアフォーカス福岡映画祭 —アジアの女性監督たち特集—
トルコの女性監督ハンダン・イペクチ インタビュー

トルコの女性監督ハンダン・イペクチ作品
『少女ヘジャル』 Hejar


写真提供:アジアフォーカス福岡映画祭

2001年/トルコ/120分
監督/脚本/プロデューサー:ハンダン・イペクチ
出演:シュクラン・ギュンギョル、ディラン・エルチェティン、フュスン・デミレル
第13回アンカラ国際映画祭 最優秀主演男優賞・最優秀助演女優賞受賞
第22回イスタンブール国際映画祭 観客賞受賞

第16回国際女性映画際で上映されます。
日時:11月4日(火) 12時〜
会場:東京ウィメンズプラザ
http://www.iwff.jp/schedule.html

[2004.5.8] いよいよ東京都写真美術館で一般公開! 期間: 2004年6月12日(土)〜7月16日(金)

*ストーリー*

75歳になる元判事のルファトは妻を亡くし一人暮らし。ある日アパートの隣室に警察が銃を持って押し入り、次々と隣人家族を銃殺。隣人は分離独立派のクルドだったらしい。そこにたまたま隣人を頼って叔父に連れられてやってきた孤児のクルド人の少女ヘジャルが残されていた。とまどいながら少女を保護し一緒に暮らし始めるルファト。クルド語しか解さない少女とルファトとを取り持ったのは、10年来の家政婦サーキネ。自分の前ではクルド語を話すなと2人に言いつけるルファトだが、ヘジャルも頑固にクルド語しか口にしない。一方、隣に住むミュゼェイェンは未亡人。ルファトに「お互いの自由を保ちながらいい関係を・・・」と手紙をよこす。ある日、ルファトはヘジャルを連れてきた叔父をメモを頼りに訪ねていくが、そこで見たのは故郷を追い出され、狭く汚いところに大勢で暮らしている姿。ヘジャルを返すのをためらい、ヘジャルと暮らす決意をし、家政婦サーキネにクルド語を習うルファト。いつしかヘジャルもトルコ語の単語を口にするようなる・・・・

*背景*

この作品の舞台は1998年のトルコ共和国75周年の年。クルド問題がもっとも敏感に報道されていた時代。なお、かつてはクルドの存在自体が否定され、公共の場でクルド語を話せない時代もあったが、その後政情も変わり、学校でクルド語の教育も可能になっている。

この作品はクルド人虐待場面が過激だとして、一時は政府から国内で上映禁止処分を受け裁判に持ち込み勝訴するが、さらに監督個人が訴えられ、アジアフォーカス福岡映画祭の直前勝訴し、無事来日を果たした。物静かで、どこにそんなエネルギーを秘めているのかと思わせる風情は、以前インタビューした『遥かなるクルディスタン』のイェスィム・ウスタオウル監督を思い起こさせてくれた。お隣イランの女性監督や女優さんから受ける強いイメージと好対照だ。

◎ハンダン・イペクチ監督 インタビュー

2003年9月14日 2〜3時
福岡 ソラリアホテルにて

*監督プロフィール*

1956年アンカラ生まれ。ガジ大学メディア学部でラジオ・テレビ制作を学んだ後、1993年にドキュメンタリー「Song of the Kemence」を発表。翌94年に撮った長編劇映画第1作『軍隊にいる父』は、第45回ベルリン映画祭パノラマ部門でも上映される。

ハンダン・イペクチ  ハンダン・イペクチ  ハンダン・イペクチ

— 力強さと愛を感じました。 ヘジャルが、ただ可愛いのではなく、 どちらかというと強情な感じでとても意志の強い女の子だったのが、 この映画を成功させたと思うのですが、 ヘジャル役の彼女をキャスティングした経緯を教えてください。  また、実際に彼女はクルド人なのでしょうか?

新聞で新人を募集したところ、クルド人の女の子150人が応募してきました。 その中で、この子を見つけたとき、顔だけ見てうまくやってくれるだろうと思いました。 内向的で、後に引いてしまうタイプなのがちょっと気になりましたが、他に、 10人位候補がいたけれど、直感でこの子だと思いました。 両親はクルド人ですがイスタンブルでクルド語を全く知らずに育ちました。 撮影当事5歳半でした。決めてからは、毎週一回彼女と会って、映画や劇場や公園に連れて行きました。 しばらくしてから、シナリオを説明して、カメラでなくビデオで、 役を演じられるかどうか試してみました。3ヶ月彼女と接触して、大丈夫と確信が持てました。 すでに撮りはじめなければならなかったので、3ヵ月後撮影に入りました。  ゆっくりゆっくり理解しあうようにつとめ、撮り始めるころには、 彼女は公園にでも遊びに行くような気分で撮影に臨んでくれました。

— 監督だけでなく、お一人で脚本からプロデューサーも務められていますが・・・・

脚本・プロデューサーすべてをこなすのは難しかったけれど、 プロデューサーもやらざるを得ませんでした。 長編2作目ですが、2作ともプロデューサーもやらなければなりませんでした。 今、トルコの映画界は残念ながら状況がよくなくて、年間10〜15作品しか製作されていません。 作品数が少ないので、大金を投資してプロデューサーをしてくれる人を見つけるのは難しいのです。 新人監督にとっては、プロデューサーも兼ねざるを得ません。 そういう意味でトルコの映画界は新しい時代になっていると思います。

◆トルコ映画の現況

−9月15日 アジアフォーカス福岡映画祭シンポジウムでの監督発言よりー

1960年代には年間200〜300本の映画が製作されていた映画大国だったトルコも、 70年代に入り、テレビの影響が強くなり、ビデオも発達し、映画産業が廃ってきました。 さらに80年代に入り、ポルノ製作に力が入り、女性の支持者を失う一方、 アメリカ映画がどんどん入り、政府もガードしなかったので、トルコの映画産業は衰退しました。 残念ながら、今、トルコの映画産業は政府の援助を得られない状況です。 文化庁から、ほんの少しの援助があるけれど、フィルムしか買えない位の小額です。 おまけに厳しい検閲があって、引っかかると上映出来なくなってしまいます。 このようなマイナス面がある中で、年間10〜15本の映画が製作されています。


— 大学進学の折に、メディア学部を選ばれていますが、 いつごろからメディアの仕事をしたいと思っていらしたのでしょうか? また、何かきっかけがあったのでしょうか?

本当は、子供時代は判事さんになりたかったのです。この映画の主人公ルファトのようにね。 高校で政治に興味を持ち始めました。でも、この大学に行きたいと思ったわけではなかったのです。 大学に入ってから、テレビより映画が私にとって表現できる場だと思い始めました。

— Buyuk adam kucuk ask(*注) というトルコ語の原題に込められた意味は?

(*注:トルコ語文字で表記できないので、近い形で英語のアルファベット表記としています。)

実は、何回かタイトルが変わりました。シナリオも変わりました。撮りだしてからも変わりました。 このタイトルにようやく決めたのは、アンタルヤ映画祭に出品する1週間前でした。 実際には6番目のタイトルで、1番いいタイトルになったと思います。 意味は、「大人の小さな愛」Buyuk(大きな) adam(人)はルファトを、 kucuk(小さい)ask(愛)は意味をかけていて、 小さな愛とヘジャルへの愛の両方に捉えることができます。 映画の2人のキャラクターを織り込んだタイトルです。

— クルドの存在自体が否定されていた時代があったことを考えると、 この映画が上映されたこと自体がクルド問題も緩和されてきたことを示しているのでしょうか? もっとも、一旦上映禁止になったとのことですが・・・

この映画は、トルコ文化庁が許可を出していたし、ユーロエマージュのサポートも得て撮ったのですが、 上映されて5ヶ月間で10万人の人が観たのに、そのあと、 許可を出す役所の上層部から禁止を言い渡されました。 警察(政府側)のクルドへの弾圧の描き方が過激だとして、 最高裁にあたるところで禁止になってしまったのです。最高審査員7人のうち、 文化庁の一人が禁止と言ったのです。 文化庁が一度OKを出していたのにもかかわらずです。トルコには昔から、 ヨーロッパに顔を向けてヨーロッパナイズしたい人たちと、それに反対している人たちがいます。 私の映画はその中間にあたることを刺激したので問題になったのです。 裁判に持ち込んで、6ヶ月かかって勝訴しました。すると、今度は映画でなく、 監督である私個人に対し裁判を起こされました。1〜3年の実刑という判決でしたが、 4〜5ヶ月かかって、福岡に来る直前の9月3日に却下されました。

— こういう問題が起こるとわかっていて、この映画を撮ろうとしたのは?

もちろんデリケートな問題だとわかっていましたので、十分考慮の上で臨みました。 15年間の間にクルドの人が3万人も殺されています。私にとって、 この3万人も死んでいるということで、何か訴えなければいけないと思いました。 トルコとクルドの文化的・言語的違いを分かち合うことが、お互いを豊かにすると思うのです。 私自身はクルドではありませんが、 子供のとき父の転勤で5年間クルドの人たちが多いウルファに住んでいました。 そのころ、トルコとクルドの間に争いはありませんでしたので、いい思い出ばかりが残っています。 当時はクルドの人たちは家や村で、自由にクルド語で話していました。私が小学校2年生のとき、 妹は一年生に入ったのですが、そのときクルド人の子供たちはトルコ語を知らずに学校に入って、 はじめてトルコ語を習う現実を知りました。

— 映画の中で、サーキネの本名が実は違うというように、クルドの人たちは、 トルコ風の名前を持つことにより、トルコ社会に溶け込んで生きているのでしょうか?

サーキネに関して言えば、ルファトはトルコ化したサーキネを受け入れているといえます。 ニュース番組で、クルドの活動家の名前を本名と別名の双方を報道していましたが、 あれは組織に属していて、身を隠すために別名を持っているからです。

— この映画には、妻を亡くした判事ルファト、親を亡くしたヘジャル、夫を亡くした隣人の女性、 捨て猫・・・と、都会で孤独に過ごす人たちが出会うという面白さがあったのですが、 孤独な人たちが寄り添うこともテーマに描きたかったのでしょうか?

まさにその通りです。 大都会で孤独な中でルファトがヘジャルに人間的な愛情を持っていくことを描きたかったのです。 隣人の女性とは一線を置いていますが、微妙な触れ合いを持つようになります。 自ら社会に壁を作っていたルファトのところにヘジャルが流れ込むことにより、 壁を薄くしていって、死ぬことしか考えていなかったルファトが、 人生でまだやれることがあると目覚めていくところに大切なテーマがあるといえます。

— ルファト役のシュクラン・ギュンギョルさんと、 隣人の女性役のユルドゥズ・ケンテルさんは、 トルコでどのような位置づけの役者さんなのでしょうか?

あの2人は劇場でほんとに有名な方たちで、トルコで知らない人はいないという人たちです。 2人は実生活ではご夫婦なのです。 残念ながらルファト役の役者さんは2年前に73歳でお亡くなりになりました。主演男優賞をもらい、 最初の上映のときに完成作品をごらんになりましたが、 裁判の結果は知らずに亡くなられました。

— ルファトがトルコ共和国と同じ歳という設定も面白いと思いました。意識的な設定でしょうか?

まさにそうです。トルコを代表する人物としてルファトを設定しました。 また、クルド民族の代表としてヘジャルを設定したわけです。  トルコの国家がクルドと一体となることにより、国家自体が繁栄することを描きたかったのです。 もともとは共存して生きていたのですし・・・

— 私も映画を拝見して、共存していくことの大切さを描きたかったと感じました。  次回作もまた社会的な問題を取り上げるご予定ですか?

今、2つのプログラムを考えています。1つはシナリオが出来ていて、 トルコ女性とクルド女性の話です。もう1つの作品も女性の問題がテーマです。

— それもシナリオはご自分で書いているのですか?

はい、もちろんです。

— トルコで女性監督はまだ少ないと思うのですが、女性だからというご苦労や差別はありますか? もっとも、もう20年以上前に、在日トルコ大使館の参事官が女性で颯爽としていて、 日本よりよっぽど女性が活躍していると感じて驚いたことがあります。 トルコでは色々な分野で女性が活躍していますよね。

トルコでは、先生と名の付くなかに女性が多く活躍しています。 教員、大学教授、医者など・・・。メディアでは、テレビの監督は女性も多いのですが、 映画では10人位です。ずっと映画監督を続けているかといえば、 中には1作品で終わってしまう人もいます。世界と同じように、トルコの映画界も男の世界です。 ただ、年間10〜15本しか製作されていない現況では、男性の監督でも難しい状況です。 映画を撮りだしてから、私自身は女性ということを意識したことはありませんが、 男性の側が意識していると感じることはよくあります。

— それにしても、問題になるのも覚悟の上でこの映画を撮られた勇気に感服します。 ところで映画は一旦上映禁止になってしまいましたが、興行的に成功したといえるのでしょうか?

まだ製作費100万ドル弱の全額は回収できていません。 日本が買い付けて下さればいいのですが・・・

— 私もぜひこの映画が日本で公開されることを期待しています。 本日はどうもありがとうございました。

『少女ヘジャル』監督インタビュー第二弾 + トルコの映画事情

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(取材: 景山咲子)
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