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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『チベットの女 イシの生涯』
謝飛(シエ・フェイ)監督 インタビュー

+ 番外編:私のチベット

シエ・フェイ

2002年11月7日 渋谷 アリマックスホテルにて

英題:Song of Tibet
監督:謝飛(シエ・フェイ)
出演:テンジン・ドカー、オンドゥ、ラクチュン
2000年/中国/105分
配給:フォーカスピクチャーズ、ビターズ・エンド
公式サイト:http://www.bitters.co.jp/tibet/
作品紹介

謝飛監督は、『香魂女−湖に生きる』でベルリン国際映画祭グランプリ、『草原の愛−モンゴリアン・テール』でモントリオール国際映画祭監督賞を受賞した中国映画界の巨匠。
北京電影学院で副学長を務め、第五世代の張藝謀(チャン・イーモウ)や陳凱歌(チェン・カイコー)などの指導教官でもありました。
折しも東京国際映画祭が開かれていた11月初旬に来日され、3日間の取材日は大手のマスメディアのインタビューがぎっしり。最終日に6誌共同でようやくインタビューの機会を得ました。

-- 3人の男性はイシという女性にとって、何を象徴するのですか?

原作に出てくるの男性は、夫のギャツォとクンサンの2人です。僧侶のサムチュは原作には出てきませんが、原作者のザシダワと脚色するときに、意見交換をするうちに宗教の要素を入れるほうがいいと判断して、設定しました。当時のチベットは人口の70%が貧民や農奴、30%が貴族と僧侶で、宗教が重要な役割を果たしていましたので、それを配慮してサムチュというラマ僧を人物構成に加えた訳です。シナリオに書いた位置付けは、サムチュは、イシが一生を通じて憧れている、もっとも尊敬している人物で、プラトニックラブの対象です。クンサンは愛情とうらみつらみが合い半ばする人物です。また、ギャツォは実際の夫です。人生というのは、非常に長いものです。その大部分は平凡な日常です。最も強い愛というのは、平凡な日常生活の中でお互いに責任を持ち、寛容の精神で接してきた夫婦の間で生まれるものです。ですから夫であるギャツォとの間の愛が1番大きいものです。ギャツォは自分の最期におよんで、イシのことを思い計って、イシが2人の男性クンサンやサムチュに会える様配慮したのです。

-- 複数の男性に対して、恋心を抱くという映画は中国では珍しいのではないですか? チベットは、そういうことにオープンとも聞いていますが…

私自身はチベット語ができません。チベットに対して深い理解は出来ていませんが、漢民族と違いがあるのは事実です。チベット族は独自の宗教観に基づいた輪廻転生の考えを持っています。略奪婚も前世で悪いことをしたからと考えています。また、クンサンに夜伽の相手をさせられたときも自分は農奴だから仕方ないという宗教観に基づいた考えです。
我々漢民族は女性の貞節にやかましいが、チベット族は比較的寛容です。ギャツォがクンサンにお尻を見せるシーンがありますが、あれも実際にあることです。また、女性が男性を侮辱するときに、スカートをめくって大事なところを見せるというのも、“死んでしまえ”という意味です。水浴の機会は少ないので、川などで服を脱いで浴びるというような、あけっぴろげなところがあります。

-- 夫役に『農奴』にも出演したことのあるオンドゥさんを起用していますが、とてもいい演技でした。

優秀な俳優です。70歳を越え一線を退いていますが、農奴開放のあと、上海で演技の勉強をし、チベット新劇団の俳優として活躍していた方です。チベットに行って一緒に仕事をしてみて、役者としての成熟度に感心しました。残念なことにラサという辺境に住んでいるために、これまで活躍の機会が少なかったのですが、見識の非常に高い方でもあります。金鶏賞の授賞式にも来ないかと声をかけたのですが、今は孫を連れて散歩をするのが楽しみだし、空気が重いからと、降りてこなかったのですよ。
これまで、チベットというと地主と農奴の対立という単一的な構図で描かれてきましたが、この映画ではもう少し違う見方で捉えてみました。この映画を通じて、チベット族の芸術家の人達に活躍の場を与えることができたと思っています。

-- イシの生涯を語るのに、チベットの圧倒的な景色の素晴らしさが大きな役割を果たしていると思いますが、撮影中のエピソードで、苦労したことや、偶然いいシーンが撮れたことなどがありましたら、お聞かせください。

チベットは世界の屋根といわれる3700m以上の高原地帯で、風景がそれ自体美しく、またチベット民族の風俗も素晴らしいものがあります。カメラは、美術学校の画家出身。この人たちのおかげで、いいシーンが撮れました。この映画は記録映画ではなくドラマなので、ただ単に美しさを撮れば良いのではなく、人物の人生に結び付けなくてはなりませんでした。老夫婦の家は、ポタラ宮の麓の住人のいなくなった家を修理して撮影に使いました。背景にポタラ宮が写る位置で、効果的だったと思います。 (★注: 「番外編:私のチベット」 参照)
イシは農村出身のごく普通の女性で、年老いてからラサに移った人物です。この設定ですと、農村と都会の風景しか撮れませんが、1970年代の文革のときに、遠くに住む夫のギャツォを訪ねていくシーンで、途中の山や湖などの美しい風景を取り入れることができました。そういう設定にしたので、ヤルツァンポ川を牛の皮のいかだで下る場面や、5000m以上の海抜の世界最高地にある塩湖ナムツォ湖も取り入れることができました。雪の山や湖のシーンを撮るには、入念な準備が必要でした。
また、偶然のチャンスでいいシーンも撮れました。ギャツォがイシを略奪して結ばれる場所は、単なる草原を考えていたのですが、偶然菜の花畑を見つけ、あのシーンが撮れました。
設備的にもっと予算があれば、いいものを使えたのですが、50万ドル位の低予算でしたので、ヘリコプターなどは使えず、15m位のクレーンを利用したのですが、カメラマンはクレーンを上手に使って、ポタラ宮を撮るときに躍動感のあるショットを撮ってくれました。このカメラマンと一緒に撮ったのは、3本目でした。非常に経験のある方で、試し焼きもしませんでしたが、失敗したシーンはありませんでした。

-- 風景と共に音楽が大事な要素ですが・・・

少数民族、特にウィグル、モンゴル、チベットの人達が歌が上手いのは 子供の頃から知っていました。チベットの音楽で一番特徴があるのは女性の独唱です。歌っているラムツォは歌手としてチベット自治区でもっとも上というわけではありません。ラムツォはチベットの隣の甘粛省の出身です。チベット語にもいろいろ方言があって、ラサの標準語がわからないのですよ。
また、チベット族の作曲家で成熟した方はまだいません。今回の作曲家のチャン・チエンイーは、朝鮮族。高山病にかかり1週間で帰されてしまいましたが、素晴らしい曲を作ってくれました。歌詞をツァンヤンギャツォ(ダライラマ6世)の書いた愛情詩の中から選んで、ラサ南方の農業地域のメロディーをベースに作曲してくれました。ツァンヤンギャツォの愛情詩は、チベット文学における宝です。24歳までしか生きませんでしたが、人々に愛される詩を残しています。もっとツァンヤンギャツォの歌を取り入れたかったのですが、1曲しか取り入れられませんでした。ツァンヤンギャツォの歌は普通のチベット人が好んでいただけでなく、今のダライラマ14世がヒマラヤを越えるときにも、この歌を歌いながら越えたものなのです。

-- チベット語でチベット人の立場に立って、この映画を撮られていますが、ほかにも、『草原の愛—モンゴリアン・テール』(1995年)など、中央と隔絶された辺境にこだわって撮っていらっしゃる意図をお聞かせください。

確かにそのような現象は見られると思います。日頃の仕事は映画学院で教えているので、経済的な束縛や思想的な制限を受けることなく、自分の撮りたいものを撮ることができます。小説も自分で選んでいます。
我々世代はすべて文革の災難を被っていて、思想心情に影響を受けています。社会主義・共産主義を信じていたわけですが、文革でそのような社会は幻覚であるということも知るに至ったわけです。なぜそれが幻であったかも、我々としても反省をしています。そしてまた、中国の過去2千年の封建制度が今なお中国の人に与えているマイナス面に考えがおよぶわけです。初期の作品はそのような観点から取材して取った作品なのです。
今も言いましたとおり、中国人は封建制度の毒を被っています。時間が経つと自分が受けた苦しみを次の世代に与えてしまっています。古い思想上の毒からどうやって抜けていくかを考えていかなければなりません。
一方、興味が少数民族に移ってきて、少数民族の古い伝統的生活と、近代化の中で起きている問題を考えてみたいと思うようになってきました。伝統的なものの中にある良さが、徐々に失われてきているのではないかと思います。そういう考え方に立って、伝統に対する自分の考え方を映画に表してきたのです。
最近は映画事情が悪くなってきたので、この1年くらい、テレビドラマを撮るようになりました。今、テレビドラマの2本目を撮っています。香港の大金持ちの遺産相続を巡る問題を扱ったものです。残念ながら、チベットのようなところを舞台にしたものは撮れません。学校の学生からコマーシャリズムに降参したのかと言われています。

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番外編:私のチベット

チベットの女 イシの生涯』は、思いもかけず飛行機が成都を飛び立つところから始まりました。主人公イシの孫娘ダワが北京から帰省する場面なのですが、それは私が平成元年5月にチベットに行ったときのことを一気に思い出させてくれました。ラサの天候が悪く、ようやく3日ぶりに飛んだフライトは、3日分の乗客の争奪戦。旅行会社がにぎらせた100ドル札のおかげで、私たちはようやく乗ることができたのですが、あぶれた乗客の目に触れないようにと空港の外から滑走路に向かうという裏技。
成都から1時間程で着いたラサの空港。空はあくまで青く、乾いた土地が広がり、漢民族の中国とは別世界。見るものすべてが想像していたチベットそのものでした。でも、それはラサの町に入ると少し打ち砕かれました。文革時代に破壊されたお寺の修復が進んでいる一方で、漢民族文化がだんだん押し寄せている気配が感じられたのです。でも、14年前の当時は、まだまだ漢字の看板も少なかったのですが、新疆ウィグルのウルムチやカシュガルに漢字があふれているのと同様、チベットも今ではどうなのでしょう?

今回、監督のインタビューの中で、年老いたイシ夫妻が住むラサの家の場面は、ポタラ宮が背景に映る場所にある、人の住まなくなった住居をロケに使ったとのお話がありました。このことを聞いて数ヶ月前、テレビの映像でポタラ宮の麓が、綺麗に整地された広場になっているのを見てがっかりしたことを思い出しました。 監督に確認してみたら、この映画の撮影の後この地域の家々は取り壊されたとのことでした。雑然としながらも伝統的なチベットの庶民の家が並ぶ風情のある住宅街も、中国政府の近代化政策で消えてしまったようです。この風景を映画に残してくださった監督に感謝したい気持ちです。

監督は、少数民族の伝統文化への関心が深く、前作の『草原の愛−モンゴリアン・テール』で内モンゴルを取り上げたのも、伝統文化がだんだん失われていくことへの思いからだったそうです。ウィグルを取り上げるご予定は? との私の問いに、実はすでに1970年代に 『向導』というタイトルで、 ウィグルを舞台にしたヨーロッパとロシアの探検家の話を撮ったことがあるけれど、自分の納得のいく出来ではないとのお答えでした。

 さて、海抜3500メートル以上の高地にあるチベットは、監督のお話の中でも、空気が薄く高山病に苦しんだスタッフがいたとのことでしたが、下界から上がった人間には、ほんとに大変なところです。なにしろ、ホテルも先着順で下の階にチェックインできるというほど。飴の入った袋などもパンパンに膨れ上がっていて、自分の頭の中の血管も膨れ上がっているのかしら? とぞっとしたものです。同行の人たちが頭痛や吐き気に悩む中、幸いなことに私自身は2時間程横になっていたら、またたくまに順応して、実に体が軽やかになった気分でした。逆に、成都に戻ったときに、肩に空気がずっしりとのしかかってくる感じでした。空気が重いからと授賞式に降りてこなかったオンドゥさんの気持ちが “わかる!わかる!”という次第。

 こんな私のチベットの旅を思い出しながら観た『チベットの女 イシの生涯』は、チベットの雄大な風景や、伝統的建造物を存分に楽しませてくれた一方、人ひとりひとりの人生が色々な時代背景や出会う人によって翻弄させられることをつくづくと感じさせてくれました。ぜひ多くの人に観て欲しい一作です。(景山咲子)

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(取材: 宮崎暁美、景山咲子)
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