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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『僕の帰る場所』藤元明緒監督インタビュー

2018年8月30日 学士会館にて

(写真:宮崎暁美)

藤元明緒(ふじもとあきお)監督プロフィール

1988年大阪府生れ。大学で心理学・家族社会学を学んだ後、大阪のビジュアルアーツ専門学校へ入学。もともとはハリウッド映画が好きでトム・クルーズのファンだった。映像の編集が楽しくてそちらに進もうと思っていたところ、『動くな、死ね、甦れ!』(1989/ソ連/ヴィターリー・カネフスキー監督・脚本)を観て衝撃を受ける。初めて映画に共感し、自分もこんな映像を撮りたい!と思った。在学中にリム・カーワイ監督の「CO2」と『新世界の夜明け』(2011)の現場に参加して、その面白さを体験。卒業制作の短編が不評で奮起する。長編第1作が『僕の帰る場所』。

現在はミャンマーの都市ヤンゴンに在住。ミャンマーのメディア企業「ドリームビジョン(DVC)」で、ミャンマーの伝統格闘技ラウェイのテレビ番組制作に取り組んでいる。

ヤンゴンで開催された第8回ワッタン映画祭で、9月6日と9日に本作品を上映。初めてのミャンマーで大好評を得る。

「CO2」http://co2ex.org/aboutco2/


『僕の帰る場所』

東京のアパートでつましく暮らしているアイセとケイン夫婦はミャンマーから来日し、難民申請中だ。6歳のカウンと3歳のテッは日本育ちで、母国語がほとんど話せない。ある日アイセが入国管理局に捕まってしまい、ケインは必死で子どもたちとの生活を支える。ようやくアイセが戻されてきたが、ケインは不安が嵩じて体調を崩し、子どもたちを連れてミャンマーへ帰っていく。カウンは東京とは何もかも違うミャンマーでの生活に馴染めない。日本に戻りたいカウンは、リュック一つを背負って空港へと向かう。

http://passage-of-life.com/
(C)E.x.N K.K.
2017年/日本・ミャンマー合作/カラー/98分
★ 2018年10月6日(土)ポレポレ東中野ほか全国順次公開



昨年の東京国際映画祭「アジアの未来」部門で作品賞と国際交流基金アジアセンター特別賞の2冠を受賞した作品。10月6日からの公開を前に、藤元監督が移住先のミャンマーから帰国。お話を伺いました。


******

-最初になぜミャンマーだったのか、その家族の映画になったのか、伺えますか?

大もとから話すと、あるテレビプロデューサーの方が、本作の共同プロデューサーのキタガワ(俳優としては來河侑希)さんに「今ミャンマーが盛り上がっているから、俳優兼プロデューサーとしてミャンマーでやったらいいんじゃないか」と言ったんだそうです。それで、初めは「ミャンマーでビジネスマンが成功する」という話、(『僕の帰る場所』とは)全然違うんですけど。
キタガワさんが渡邉プロデューサーにもちかけて「全編ミャンマーで映画を撮れる人」を公募したんです。僕が上京して1年くらいのときの話です。僕は監督になりたかったのでそれを見て「やりたいなぁ」と思って応募しました。

-まあ、監督のオーディションみたいですね。

そうですね(笑)。面接とかしたんですよ。脚本(ロングプロット)を提出して審査されるんです。それが2013年のことです。

-そのプロットはどのようなものだったんですか?

最初は14歳の娼婦とストリートチルドレンの恋愛の話でした。「やりましょう」ということになり、プロットをベースに、2013年の夏みんなでミャンマーに行って、リサーチをしました。それがミャンマーとの初めての出会いですね。それまでどこにあるのかも知らずにいて、地図を見てインドとタイの間とわかりました。ミャンマーだけでなく東南アジアのことも全く知らない状況でした。

-ビジネスマンの話、娼婦とストリートチルドレンの話へと変化して、家族の話に移行したのは?

2014年の2月3月ころにその企画になりました。なぜかというと、最初に持っていった企画はミャンマー国内の検閲を通らなかった。ダークな題材は絶対ダメで。当時民政化して、これからと言う時期にそんなことやらないでくれと、検閲の一番偉い人から言われました。物理的にも無理だということで、企画は頓挫しました。
空中分解して次どうするかも決まっていないし、心残りだったし、ミャンマーをもっと知りたいなと、一人で高田馬場にあるミャンマーのお店に初めて行きました。「おいしい」とかちょっとだけミャンマー語も覚えていました。東京にこんなにミャンマーの人がいるのも全然知らなかったんですよ。
みんながとても良くしてくれて、飲み会に誘ってくれたのが難民申請中の方でした。それからよく申請の愚痴とか聞くようになりまして、そういう世界があるんだと興味を持ったんです。それともう一つ。日本人で難民申請を手伝っている個人ボランティアの方にも話を聞きました。品川の入国管理局に行くボランティアに同行して、そこでモデルになる家族の方と出会ったんです。


2017年 第30回東京国際映画祭授賞式(写真:宮崎暁美)

そのお父さんがカメラマン志望で写真を勉強していて「映像の仕事をやっているのか。教えてくれ」と。凄く仲良くなりまして、よく2人で遊ぶようになりました。そこで、奥さんが前の年に子どもを連れてミャンマーに帰ってしまった。ミャンマー生まれだけどずっと日本で育った子どもが、お母さんに反発していて大変なんだと聞きました。子どもに対して惹かれるものがあったので、会わせてほしいと頼みました。
2014年の4月に会いに行ったら、子どもが成長して、聞いている話よりはミャンマーに馴染んでいたんです。塞ぎこんで家から全く出ないで、友だちもいないと聞いていたのが、自分から話しかけようと努力していて。
最初はドキュメンタリーを撮るつもりでしたが、子どもが成長していたので、この子やお母さんがどうやって乗り越えたのか? それを再現して自分が見たいと思いました。いろいろ話を聞いたその家族に出てもらいたかったけれど、顔出しはダメということで出演者を探した、というのがこの映画の成り立ちです。

-子どもたちの6歳と3歳という年齢はモデルの方そのままなんですね。この子どもたちが映画を引っ張っていました。お母さんと子ども2人は実の親子だけれど、お父さん役の方が他人だと後で知って「えーっ!」と驚いたくらい、本当の家族のようでした。子どもが懐くのには時間がかかると思いますが、それはどのように?

ワークショップというほど大掛かりではないですが、撮影が始まる前に「家族の関係性作り」に時間をかけました。1ヶ月くらいこのアパートを借りたので、そこへ子どもたちが遊びに来たり、近くの公園でサッカーしたり、と一緒の時間を過ごしました。
2014年の11月から12月末まで日本・東京とミャンマー・ヤンゴンで撮影しました。10月にアイセさん(父役)にきてもらいました。アイセさんはカチン州のリス民族という超少数民族の方なんです。前は宝石発掘の仕事をしていたようです。

-カチン州の宝石採掘といえば、昨年(2017)、山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された『翡翠の城』で発掘の様子が描かれていましたが、ここですか?

監督:まさにそこですが、今は堀りつくされてしまいました。
ミャンマーは民族がすごく多くて135もあるんです。ほんとはもっとあるようですが、公式では。ビルマ族が一番多くて70~80%。あとは少数民族で言語も全部違うんです。


(C)E.x.N K.K.

-日本のテレビ番組で「はじめてのおつかい」というのがあります。街中で子どもの撮影をするときは、ああいう風に目立たないように撮られたんですか?カメラの存在を全く感じません。

そうです。あのシーンに関わらず、子どものシーンは家の中でも僕と撮影だけです。カメラがアイフォンくらいの大きさ。フィルムカメラの時代と違って機材がとても小さくなっているのも助かります。ワイドレンズを使って、そばに寄って撮るんです。テッくんは普通の写真を撮るカメラだと思っていました。飽きちゃって「写真終わった?」と言ってましたね。

-お母さんやお父さんの実家のロケは? 

お母さんの実家はわりと街中です。ヤンゴンの町はあまり大きくなくて、賑やかなところがそんなに広くありません。初めてミャンマーに行ったときに、ずっと案内してくれたタクシードライバーと仲良くなりまして、家にも何回か呼ばれました。実はその家をお借りしたんです(笑)。
ドライバーの方がお母さんのケインとちょっと似ているので、お兄さん役になってもらって、親戚もそのまま(親戚役になってもらった)。家の間取り的にもよかったですし。

-俳優さんと家がセットで手に入ったんですね。(笑)

お父さんの実家は少し離れていますが、さすがにカチンではありません。地方で撮りたかったんですけど、(経費が)すごく高くつくんです。厳密にいうと地方によって家の建て方や樹木が違います。カチンのような山はないけれど、少数民族の家の作りなどは(ミャンマーの人が観ても)違和感なく見えるようにしました。

-日本でも北海道と九州では樹木も家も違いますものね。ミャンマーのことは「ビルマの竪琴」やアウンサンスーチーさん、ロヒンギャ問題をニュースで耳にしていたくらいで、ちゃんと知ったのは私も最近です。面積は日本の1,8倍もありますし、広いですね(人口は約半分)。映画観ながら勉強になります。

僕は撮りながら勉強です。(笑)

-そういう(民族的な)考証やロケの手配をされる方は?

現地のコーディネイション管理をしてくれたのが、アウン・コー・ラットさんというミャンマーの有名な監督の方です。検閲の許可とかロケ地の交渉とかもしてくれました。2014年に「首長族」の長編フィクション映画を作った方。日本語がすごく上手な人です。(暁:観たことあります)

“Kayan beauties” https://www.youtube.com/watch?v=Aq7-faO_QmY

-子どもたちへの演出はどのようにされたんでしょうか?テッくんは「反応」ですか?

テッくんの場合は、台本どおりにいくように、周りを固めてこちらの思ったような形に「もっていく」。たとえばお母さんが入院しているところも、何も状況を知らせずに、お父さんが「お母さん用事があるんだって」と言って病室につれていく。初めてベッドにいるお母さんを見る。恐らくこういう反応をするだろうというのを想像して準備します。「用意、はい!」も言ってないです。お風呂もそうです。お母さんが準備してから、「お父さんとお風呂」って。
カウン(お兄ちゃん)の場合は、「ここでこういうシーンがあるから、テッくんがこうなったら頼むよ」と、細かく言って、動きをポイントでこうやってほしいと伝えて。その理解力が凄まじかったですよ。

-ああ~、天性なんでしょうか?

ほんとに天性ですね。あれは一回しかできないですね。

-テッくんの反応が想定外ってことはなかったんですか?

ありました! すごい想定外があって“ラストシーンで大泣きする”あれが想定外。ほんとはホンワカしたシーンのはずだったんです。脚本は最後の日本人学校に入学して終わってるんです。その前のシーンで、お父さんに「学校に行くね」と言うところで、想定外にテッくんが泣き出してしまってそれが結果的に良かった。

-そういうところドキュメンタリーですね。かえって良いシーンになって。だから編集に時間がかかったんですね。

そういうシーンばっかりなんです。全部入れたくなっちゃって。こんなシーン普通撮れないだろうと。でも全部入れると破綻するんですね。泣く泣く削りました・・・。

-最初の編集では5時間くらいになったとあります。もとはその何倍もあるわけですよね。削って削って98分。よく縮めましたねぇ。最初の長編作品は特に思い入れが強いので、監督さんはよく「2時間以内にするのが苦しかった」とおっしゃいます。

そうなんです。その沼に嵌りました。なかなか捨て切れなくて。この映画を作る前に15分くらいの台本どおりのすっきりしたダイジェスト版を作ったんです。それを横浜かどこかで上映したときに、「これだな、初期に戻そう」となって、短くしたのを東京国際映画祭に応募しました。

-じゃあ芯の15分に足していった感じですか? 捨てていったのも観たいですねえ。DVDになるときはぜひ未公開シーンを編集して特別映像に。

そうです、そうです。足していった。自分の声も入ったりして観ていて面白いです。(特別映像の件)採用させていただきます(笑)。

-スピンオフみたいに別のがもう1本できそうな感じもします。子どもたちにも、とてもいい記録になりましたよね。お母さんも一緒ですし。このお母さんがまた素敵で、女優さんかと思いました。

そのときのリアルな子どもたちの映像ですからね。お母さんは僕も最初そんな印象でした。あの子どもたちの出演許可をもらいにいって、お母さんに会ったら雰囲気のあるひとで、すごい素敵だなと思って。それで「ぜひ一緒にお願いします」と。


(C)E.x.N K.K.

-ほんとにもう「出逢い」って感じですね。監督はミャンマーの方と結婚までしちゃいましたし。ミャンマーに関わらないと奥様に出逢わないわけですから。

そうです。縁ですね! ミャンマーとの出逢いもそうですし、人生何があるかわかりませんねー。(笑)

-監督がミャンマーに軸足を定められたのは、これからここで映画を作っていこう、ということだったんですか?

映画製作をというのもあるんですけど、向こうでの仕事に誘われたんです。NHKとクールジャパンが立ち上げた放送局のプロジェクトに参加してほしいということで。そのスケジュールが月1本納期。出張じゃなく、住まないとわからないことが多いですし、奥さんもしばらく地元に帰っていないので住みたいと。いろいろな条件が重なって、4月から住むようになりました。

-ミャンマーの映画事情を伺いたいのですが、のぼり調子ですか?

のぼり調子とは言い難いんですが、熱量に関してはすごい。意欲と機材の恩恵も受けています。政府からの援助はありません。
業界のことで日本と圧倒的に違うのは、インデペンデント映画がたくさん出ていること。日本だとヒットして回収できるまでいかないです。ミャンマーでは今それが起きています。ワッタン映画祭出身の監督のインデペンデント映画がシネコンにかかって大ヒットする。
今誰でもいけるような状態なんです。なぜならこっちでいうミニシアターがなくて、全部同じ場所でやるので、お客さんもわからない(区別しない)。どの作品にもチャンスがあるっていうのは良い状態じゃないかと思います。

-観客は多いのでしょうか?ジャンルはなんでもありですか?

土日はぱんぱんです。映画館の周りにダフ屋さんがいます。解放前はわからないですが、今だけ見ると。ハリウッド映画は年に何本しか入ってきません。自国の映画を守るために制限しています。ハリウッド映画は面白いので、負けちゃうから。(笑)圧倒的にコメディ映画が人気です。ミャンマーだけじゃないと思いますが。

-検閲は厳しいですか?

スーチーさんになってから、そこまで厳しくないです。タブーは、ロヒンギャのこと、宗教的なこと、ベッドシーンとか、NDGP、政府批判。

-家族の問題は撮りやすいですね。今回の背景に移民のことがあります。私もどうしてこんなにミャンマーの人が増えているのか、よく知らなかったのです。あまりはっきり描かれないほうがいいんでしょうか?

そこに関しては今ほとんど大丈夫。政府がだれだれをどうしたとかいう具体的な表現でなければ。

-「こういう映画を作って行きたい」という目標は?

ジャンルは決まってないんですけども、ミャンマーから見る世界大戦の話を考えています。日本人視点の戦争映画はありますが、現地の人からみた戦争の話は全く聞いたことがないです。すごく知りたくて。
日本兵の遺骨が埋まっているところがあって、その地域の民族の方々が管理してくれています。そこへお話を聞きに行ったんです。日本人は加害者、その人たちは被害者なんです。どんな思いで関わっておられるのか…。まだドキュメンタリーにするか、劇映画にするか決めていないんですけど。

-日本兵が行ってたわけですよね。(学校の授業で近代史は時間切れではしょられ、映画や本で知りました。1942年~1945年日本軍はビルマに駐留。民間人が多数死亡しています)

初めてミャンマーに行ったときは、戦争の話とか何の知識もなかったんです。たまたま町で出会ったおばあちゃんが僕を見て「日本人!」って。「昔、村に残留兵が来て、妹が槍で殺されたんだよ。私は山に逃げたので大丈夫だった。日本人を見たのはそれ以来だ」って言われました。僕はそんな生の声というのも聞いたことがなかったので衝撃でした。
僕が「映画を作っている」と言ったら「うまくいきますように」とお祈りしてくれて、それが忘れられなくて。こういう出逢いや思いを誰かと共有したい。次はそのことについてやろうと思いました。

-まあ、それは地方のロケでのことですか?

ヤンゴン。ヤンゴンの駅で食材を売っているおばあちゃん。たまたまです。「日本人は変わったね」って言われて。

-嫌な思いをいっぱいしたのに、無事を祈ってくださった?

そうじゃない人ももちろんいると思うんですけど、そういうのって、日本にいたらわからないでしょう。テキストではあるかもしれませんが、声とか音とか映像では、ない。これは今しか撮れないんですよ。

-日本でも戦争体験した方々がどんどん減っていますものね。ぜひ作ってください。

ミャンマーの人って寿命が短くて50後半から60とか。ちょっとのびてはいるんですが、80代の方なんてかなり少ない。90代までいくと異次元。

-え、そうなんですかー!ミャンマーは紛争などで、若い人が亡くなっているからでしょうか?日本はずっと戦争がなかったので、寿命が長いです。ミャンマーはまだ国境地帯に地雷が埋まっていて、それで負傷する人も多いそうですね。そういうことではなくてですか?

食生活とか、衛生状態が良くないので小さな子のうちに亡くなることも結構あるんです。ヤンゴンだけ見ると、発展していますけど、地方に行くと圧倒的な貧困があります。アセアンでもかなり下のほうなんです。

-そういえば映画の中でカウンくんが「汚い」と言っていましたね。東京に住んでいた目でみればそうなんでしょうけど。

あれは、カウンが「汚いって言いたくない」って言ってた台詞です。彼も両親が休みのときに何度も来たことがあって、ミャンマーが好きなんです。

-カウンくんが家出中に2人の男の子に会いますね。日本語で話しかけるので、とっても気になっていたんです。僥倖のような出逢いだと思うのですが。

カウン一人だけの問題にしたくなかったんです。自分は日本人だと思っていたのに、ミャンマーにきてウジウジしている。でもほかの世界もあるんだよ、とカウンに知ってほしかった。嫌いだと思ったミャンマーの町で楽しく遊んだらどうだろうか、と2人の存在は、カウンと出会わせたくて僕が考えたんです。これは沖縄の「キジムナー」(伝承の生きもので人間と共存。ガジュマルの木の下に住んでいる精霊)みたいなものと思ってください。(笑)

-困っているときになにげなく助けてくれたあの子たちがいないと家にも帰れませんでしたね(この後もっと詳しく伺ったのですが、ネタバレのため割愛)。

書いてもいいのかな?(と監督が渡邉プロデューサーへ。「それはパンフレットに書く予定です」とのお返事。お楽しみに)

-モデルのご家族は、今どうしていらっしゃいますか?

去年の東京国際映画祭のころ、お父さんも帰ったんです。結局申請がダメでした。去年から急に厳しくなりまして。ロヒンギャの方か、かなりの特別な事例でないかぎり通らなくて、どんどん帰っていった時期です。

-じゃあ家族4人が一緒に暮らしているんですね。申請が通らないのは残念ですが、なんだかちょっと安心しました。
ミャンマーでそろって観ていただけますね。長時間ありがとうございました。


左から渡邉プロデューサー、藤元監督、吉田プロデューサー(写真:宮崎暁美)


=インタビューを終えて=

◆去年、東京国際映画祭で観た時、何も情報なしに観たので、最初ドキュメンタリー作品かと思った。途中からやっと、これはドキュメンタリー作品ではないと気がついたくらい、子供たちの姿が自然だった。そしてほんとの親子かと思うくらいお父さんとのシーンも自然だった。そして何よりも、日本で生まれて育って、ミャンマーの言葉も話せず、自分がミャンマー人ではなく日本人だと思い込んでいた子供たちの姿が胸を打った。ミャンマーに行って、その後、どのようにミャンマーに溶け込んでいくのか、希望を見いだせそうな展開でほっとした。

今年、9月始めにあいち国際女性映画祭に行った時、ミャンマーの女性監督チー・ピュー・シンが監督した『マイ・カントリー マイ・ホーム』という作品を観た。これも日本在住のミャンマー人女子高校生が日本国籍かミャンマー国籍かで葛藤する作品で、やはりミャンマー人としてのアイデンティティを描いた作品だった。この作品に藤元監督も協力しているという。この作品の製作記者会見が去年日本で行われたが、冒頭で、チー・ピュー・シン監督は「サポートしてくださっている日本の関係者の方にお礼を」と述べている。その記者会見の模様を景山がレポートしているので、ぜひごらんください。この作品も、ぜひ日本公開してほしい作品です。話題の森崎ウィン君も本人を彷彿とさせるスターの役で出演しています。(宮崎暁美)



◆昨年8月の『My Country My Home』製作発表記者会見のミャンマー側主催者MNTVの社長は貫禄ある女性でした。私が40年程前に半年間、机を並べていたミャンマー(当時はビルマ)の女性も、帰国してビジネスの世界で采配を奮っていることを藤元監督にお話したら、「ミャンマーでは女性が優秀で働き者」とおっしゃいました。藤元監督が仕事を通じて知り合ってご結婚されたミャンマー女性も、きっと仕事をさりげなくこなす素敵な方なのだろうなと想像しました。

今年のアジアフォーカス・福岡国際映画祭で『僕の帰る場所』が上映され、監督にまたお会いできると思ったら、9月初めにミャンマーでのお披露目上映があるので、ミャンマーに飛んで帰らなくてはならなくて、福岡には来られませんでした。9月の上映会でのミャンマーの観客の方たちの反応はどうだったのか気になります。(景山咲子)



◆今年はいろいろとミャンマーに縁があります。始まりは森崎ウィンくんだったというのが、ミーハーおばさんの面目躍如です。それまでは国の場所さえ定かでなかったのに。「ミャンマー」という言葉に誘われて、本や映像作品をたくさん見る機会がありました。藤元監督と同じく、次は高田馬場へ?その次は現地に行くことになるでしょうか。ボランティアの方々にも知り合って、自分にも何かできることがありそうな気がしてきました。こちらのスタッフ日記もご覧ください。(白石映子)

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