このページはJavaScriptが使われています。
女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『石川文洋を旅する』  石川文洋さんに聞く

石川文洋さん (撮影:宮崎暁美)

戦場カメラマンとしてベトナム戦争の現実を世界に伝えた石川文洋さん。従軍取材開始から50年が経ち、75歳になった彼と共に沖縄やベトナムを巡りながら、反戦への思いや、その生き様に迫るドキュメンタリーが完成しました。


(C)大宮映像製作所

公開を前に、石川文洋さんにお話を伺う機会をいただきました。ベトナム戦争をリアルタイムで知る私たち。石川文洋さんにお話を伺う機会をいただいたことを光栄に思いながら取材に臨みました。

取材:宮崎暁美(M)、景山咲子(K)


石川文洋さん

石川文洋さん

1938 年沖縄に生まれ、4歳の時、千葉県船橋市へ。両国高校定時制に通いながら、毎日新聞社で働く。1964年、26歳の時、世界一周無銭旅行をしようと会社を辞め、沖縄からオランダ船に乗り、まず香港へ。米国人経営のファーカス・スタジオに勤め、トンキン湾事件取材のため2度ベトナムへ。その後、ファーカス・スタジオを辞めフリーカメラマンになり、1965年1月から1968年12月までの4年間ベトナムに滞在。南ベトナム政府軍・米軍に従軍し、最前線で撮影する。帰国し、1969年から1984年まで朝日新聞社に勤務。退職後、長野県諏訪に居を移し、故郷沖縄をはじめ、国内外の取材を続けている。

ベトナムのホーチミン市戦争証跡博物館には、石川文洋さんの写真常設展示コーナーが設けられている。


◆世界一周無銭旅行のはずがベトナムに長期滞在

: 先日、試写を拝見して帰宅して、学徒出陣して戦争の時代を経験している父に映画のことを話していましたら、映画に出てきた対馬丸のことがNHKのニュースで流れました。沖縄から学童や教員など一般人の疎開者を乗せて出航した対馬丸が米軍に撃ち沈められた時、海に放り出された遭難者の方たちを助けた方の手記が見つかったという話題でした。遺族の方が手記を見つけたとのことで、ご存命中にお話が聴ければよかったのにと思いました。

石川: そのニュースは私もみましたね。

: 映画では、文洋さんが対馬丸の生存者である平良啓子さんに取材していることが出てきました。平良さんは学童疎開で内地に向かっていたとのことで、戦争では容赦なく子どもも犠牲になることを痛切に感じました。また、戦争経験者がどんどん亡くなられていく中で、当事者の証言を記録しておく大切さを強く感じます。そうした意味で、文洋さんの活動に感服しております。写真が残るし動画が残るし、ほんとうに貴重な活動をされていると思います。

: 高校生だった1968~69年頃、べ平連のデモに参加していました。そんな私にとって、ベトナム戦争の写真はとても心揺り動かされるものがありました。そのことが、のちの自分の人生に大きな影響を与え、写真を始めました。そして、私も戦場に行って写真を撮りたいと思いました。女性でも大石芳野さんや、南条直子さん、古居みずえさんのように戦場に写真を撮りに行った方がいましたが、私はとうとう日本を飛び出す勇気がなく、結局、報道写真家は諦めました。石川さんは、躊躇せず戦場に向ったのでしょうか。そういう思いがあっても行ける人と、行けない人の違いはどこにあるんだろうと思っています。石川さんは、世界一周に出かけて香港のファーカス・スタジオにいたわけですが、そこからベトナムの戦場まで行った思いは? やむにやまれぬ気持なのでしょうか? 勢いで行かれたのでしょうか?

石川: ベトナムに初めて行ったのは、1964年のトンキン湾事件を口実にアメリカが初めてベトナムを爆撃した直後でした。ベトナムに行こうと思ってというより、世界一周無銭旅行をしようと思って、1964年、26歳の時に日本を出たんです。当時はベトナムのことはほとんど知らなくて、戦争をしているとか、お坊さんが焼身自殺したこととか、1963年のクーデターのことくらいしか知りませんでした。当時、香港のプロダクションで仕事をしていて、そこの仕事でベトナムに行くことになったのです。記録映画の仕事でマカオで撮影している時に、ファーカス・スタジオの社長から連絡があって、ベトナムに行く仕事があるけどどうかと。一つでも違う国に行きたいという気持ちがあって、違う国に行けると、すぐに香港に帰りましてね。すぐといっても、当時は香港とマカオを行き来するのに一昼夜かかる時代で、マカオを夜出て香港に朝着くんです。マカオ・インという古いホテルで食事をしていたら、北杜夫さんと奥様が新婚旅行で来ていて、ファンでしたのですぐにわかって声をかけました。一緒にカジノに行ったりしました。当時、日本人が一人で無銭旅行しているのも珍しいですから面白がってくださいました。マカオから香港に帰る時にも一緒で、北さんは精神科のお医者さまでもあるので、当時、兄がノイローゼだったので、そんなことも相談しながら、夜通し北さんと二人でビール飲みながら話をしました。
これまた話は飛ぶけれど、ベトナムから帰って朝日新聞に入って最初の仕事が北杜夫と遠藤周作の対談でした。私を朝日新聞に紹介してくれた秋元啓一という開高健と一緒にベトナムに行った人が写真部のデスクをしていて、一緒に対談の場所へ行ってくれたのですが、北さんと5年ぶりの再会で、喜びました。香港で1964年に会ってから、5年近くの再会でしたね。


◆ジュディ・ガーランドとチークダンスの思い出

: 香港で、写真のプロダクションであるファーカス・スタジオに入られたのは?


石川文洋さん

石川:ファーカス・スタジオは、香港のヒルトンホテルの中にあったアメリカの会社です。紹介してくれた人がいて、私は英語が出来ないけど、浮橋恒彦さんというすごく英語のできる人が一緒に行って通訳をしてくれて社長に面会しました。当時、大女優のジュディ・ガーランドがボーイフレンドと一緒に香港に来ていて、鬱で入院しているのを入社テストがわりにニュースを16mmで撮ってこいと言われました。助手を付けてくれて、浮橋さんと一緒に病院に行って、ジュディ・ガーランド本人には会えなかったけれど、ボーイフレンドに会って話を聞きました。医者が病室に出入りしている姿なども撮影して、それを現像してぱっと繋いでニュースにして出したら、驚いてすぐ明日から来てくれということになって勤めました。まぁ技術を持っていたからなのですけど。
 ジュディが退院してきて、プレジデント・ルーズヴェルト号という豪華客船の広い部屋に宿泊していて、パーティにプロダクションの社長と一緒に行きました。酔った勢いで、しっかり抱き合ってチークダンスしました。証拠写真がないので、誰も信じてくれないのではと残念です。ほんとに今、写真があればいいなぁ~と思うのですが… 私より小柄ですよ。社長が、「無銭旅行で日本から来たヤツ」と彼女に紹介してくれて面白がってくれたようです。写真というのは証拠になるのですよね。

: もともとは映像を撮っていらしたのですね。

石川: 定時制の両国高校に通っていた時、昼間働いていた毎日新聞の子会社の毎日映画社でカメラマン助手になり動画を撮っていました。ベトナムでも最初は映像を取っていました。NHKや日本テレビを手伝ったりしていました。その後、スチールを撮るようになりました。スチールは残りますから。


◆戦闘の激しいベトナム滞在で得た人との縁

: ベトナム時代はフリーだったのですか?  香港の会社から行けといわれたけれど・・・

石川: 1964年8月と10月の2回は、香港の会社からベトナムに取材に行きました。その後、会社を辞めて、1965年1月から1968年末迄の戦争の一番激しかった4年間、フリーでベトナムに滞在しました。全くのフリーは私とあとから来た一ノ瀬泰造さんの二人だけですね。

: 日本からベトナムに取材で行った人は、64年65年ごろはまだ少なかったのですか?

石川:カメラマンでは、岡村昭彦さんが一番早くてPANA通信社の契約特派員として63年から入ってました。彼は65年には引き揚げました。64年に東京オリンピックが終って、日本の目がオリンピックで皆の目が海外に向いていたのが終って、次はさぁベトナムだという感じで、65年から各社の支局がどんどん出来てきましてね。
65年3月に沖縄から海兵隊の戦闘部隊が直接入ってきて、ベトナムの戦闘が激しくなっていきました。それまでは南の政府軍が作戦を立てていたのですけど、落下傘部隊だとかアメリカ軍が直接作戦を立てて、それはもう凄いですからね。
65年11月に行った時には、読売新聞の日野啓三と共同通信の林雄一郎が同じ建物の事務所にいて、親しくなりました。64年11月に、開高健と秋元啓一の二人が朝日新聞社の特派員として入りました。長期にはいたけど駐在ではなくて特派員としてです。それこそ、連日一緒に飲んでました。開高健の奥様の牧羊子さんが私と同じ沖縄出身ということで仲良くなって、開高さんに可愛がっていただいたということもあります。秋元さんは、後に私を朝日新聞に紹介してくれた人ですが、酒が好き、女性が好きという人で、人生で会った中で、こんな素敵な男がいるかと思うほどの人物でしたね。

: 戦場カメラマンというと、ほかの方は豪傑なイメージで主張が強いような気がするのですが、石川さんは穏やかな感じの方。すごく対照的な感じを持っていました。ライバル意識はあったのでしょうか?

石川: 最初、岡村さん、次に私、その後、65年に沢田教一さんがベトナムに入ってきて、沢田さんはすぐに翌年ピューリッツァー賞を取ったけど、全くうらやましいとか嫉妬心とかなかったですね。私はカメラマンというよりも、世界一周無銭放浪者という感じでベトナムにもいましたからね。そこでムービー撮ってドキュメンタリーを作ろうという気もなかったです。要するに、ベトナムは次の国に行く足掛かりという気持ちで最初はいましたからね。 

: たまたま香港にいてファーカス・スタジオに入ってなければ、ベトナムには行かなかった可能性もあるのですか?

石川: はい、行かなかった可能性あります。次はバンコクに行くつもりでしたからね。当時、無銭旅行が流行ったのですよ。香港に居る時に、最初YMCAに居たら、日本から二人来ましたね。

: YMCAは、当時もペニンシュラホテルの隣でしたか?

石川: そうです。建替えましたけどね。当時は九広鉄道の執着駅が目の前にあって、YMCAも低い建物でした。

: 64年当時にも高層ビルはあったのですか?


石川文洋さん

石川:今ほどじゃないけど、すごいなと。当時としては、日本より進んでましたね。その後も、九龍側に住んで、ヒルトンホテルのある香港島にフェリーで通勤してました。お酒を飲んでフェリーがなくなると、ワラワラという小さな渡し舟で帰りましたね。
で、最初YMCAに泊まっていた時に来た日本人二人ですが、当時中国には陸路では入れませんから、次に行くには飛行機しかないわけです。YMCAで会ったうちの一人はJALから切符を借りて日本に帰りました。
私は沖縄からの最後の移民船のオランダ船に乗って、まず香港に行きました。沖縄では船は岸壁につけなくて、海に停泊していて、渡船で行くのですけど、見送りにきた人たちが、頑張って来いよと手を振ってくれましてね。香港に着いて、リュックを背負って、登山靴を履いていたら、子どもたちが珍しがってぞろぞろ着いて来る。リュックは今のような縦長じゃなくて、横長のキスリングザックでした。

: 私も若い頃、北海道に横長のリュックを背負って行きましたが、カニ族と呼ばれてましたね。

石川: 領事館に行ったら、若い書記官が二人いて、珍しがって、そのうちの一人が俺もリュックに入れてもらって一緒に行きたいなと言われました。二人とはその後も付合いがあって、一人はその後インド大使になった谷野作太郎さん、もう一人はベトナム総領事になった久保田真司さん。この方には後々すごくお世話になりました。

(と、ここで石川さんの携帯に電話が入る)

石川: 今の電話、杉本泰一さんといって、ベトナムにいた時に居候させてもらった方からでした。足を負傷して、すごく太くなって切断しなくてはいけないと言われて、這ってベトナムの日本大使館にのぼったんです。ちょうどこの杉本さんともう一人の澤口徹行さんがいて、こりゃ大変だと病院に連れていってくれました。手術して、その後一人では大変だから家に来いよと杉本さんが言ってくださって、居候したんです。次に居候していたのがベトナムでバナナを作っていた澤口さん。明日会いますが・・・ 当時バナナは非常に貴重なもので、私より若い2人がメコンデルタの島を借りて、日本に輸出しようとしていました。 その島に開高さんを案内していったこともあります。

:バナナといえば、当時は学校でも金持ちの子しか食べれなかったですね・・・

石川: ベトナムに行ってすぐマラリアに罹ったのですが、その後、フリーになってラオスに取材に行ったら、また熱が出ました。香港にいた久保田さんがその時にはラオスの日本大使館にいて、熱を出してうなっていたら、お医者さんに連れていってくれたり、奥様がおかゆを作ってくれたりしました。無銭旅行で貧乏していましたから、皆が親切にしてくれました。無銭旅行の話になると、話が尽きませんね・・・・


◆自由に撮れた最前線  躊躇なく撮った惨い場面が戦争の現実を伝える

: いい出会いがたくさんありましたね・・・ 少し、別の質問をさせてください。
戦場で、目をそむけたくような場面も躊躇なく撮られていますが、そのような写真こそが、戦争がいかにむごいものかを知らしめてくれます。そのような写真に対して、加害者である兵士の人たちはどんな反応をされましたか? 
今なら、デジカメでその場で見せられますが、当時は被写体になった本人に写真を見せる機会もなかなかなかったと思います。 カメラを向けた時に、兵士側に撮られることへの躊躇はなかったのでしょうか?

石川: もう、戦場ですからね。死体をぶらさげている人も、悪いことをしたと思っていないのです。撮るなと言われたことは全くないですね。 

:そういう意味では自由に撮れたのですね。

石川:はい、自由に撮れました。もう一つは、私たちも南ベトナム政府軍・米軍の従軍カメラマンとして軍服を着ていて、銃は持ってないけど、兵士と同じ危険にさらされていますので、兵士たちも私たちに仲間意識を持っていました。拷問していても、戦争ですので彼らは悪いことをしているとは思っていません。第3者の私たちはひどいことをするなぁと思っても、やめろとは言えない。向うは向うなりの論理があって闘っているわけですから、あちこちで殺し合いです。飛び回って止めるのはジャーナリストの仕事じゃない。そういう状況を撮って伝えるのが仕事です。でも、見ていて辛いですけどね。拷問されるのは解放戦線側。私はむしろ解放戦線支持でしたからね。

: 侵している側の米軍に同行しての取材には複雑な思いがあったと映画で描かれていましたが、従軍したからこそ、撮れたものもあるのでしょうか?

石川: 従軍したからこそでなく、従軍してなければ撮れません。戦争の記録として、私が撮ったというより、写真の記録としてずっと残ることが大事。残念ながら日本の戦争は日本側が記録したものがないわけですから。

: 今でもベトナム戦争の写真は、人に訴える写真が多いので、写真の力はすごいなと思います。

石川: ベトナム戦争だけですよ。最前線まで行って自由に撮影できたのは。その前にも後にもありません。でも、戦争は皆同じです。殺し合いになって、民間の人も犠牲になる。おおげさに言えば、ベトナム戦争ですべての戦争が理解できるといえるのではないかと思います。



若かりし頃の石川文洋さん ベトナムの戦場で
(提供=石川文洋)

◆記録映画にしてくれたことを光栄に思う

: 今、きな臭い状況があります。憲法9条を変えようという動きの中で、この映画に出ようと思ったきっかけは? これまで大宮監督が撮ってきたものが、介護とかダンサーのなどのドキュメンタリーでしたので、石川文洋さんに結びつかなかったのですが・・・

石川:私は全く知らなかったのです。突然、記録映画を作りたいと言われました。

: 出版社の編集の担当者の方からですか? 企画自体が監督から直接というよりは・・

石川: 岩波書店の編集の方と監督と同時にお話がありました。

: やはり、戦争の記録として残しておきたいという意向だったのでしょうか?

石川: 私からすると、私が記録映画の対象になって大丈夫かなと思いました。

: 私たちからすると、こういうご体験談は記録に残してほしいなと思います。

石川: 記録にするのは大事ですが、お金を出して撮ってくださいと言っても、撮りたくないものは撮ってくれない。光栄だなぁと思います。

: ベトナム戦争も映像でたくさんドキュメンタリーができていますが、石川文洋さんという生き方が映像になったので、また一つ、素敵なドキュメンタリーができたと思いました。

石川:ありがたいことです。自分ではよくわからないですが・・・


◆フィルムにはこだわらない

: 石川さんの写真集はいくつか持っているのですが、図書館で借りたこの本(「カラー版 ベトナム 戦争と平和」岩波新書)は、カラー写真が多くて珍しいと思いました。ベトナム戦争というと、ほかの方も含めてあまりカラーで撮った写真を見たことがなかったので。

石川: 私の撮ったものの85%はモノクロです。その本はカラーなので、その本の為に、カラーで撮ったものを選びました。戦争中の写真でカラーのものは10%もないと思います。その後、カラー時代になりました。朝日新聞の最初の頃はモノクロで、だんだんカラーも増えました。メディアが全体的にカラー化してきたのでニーズに合わせました。

: だんだんデジタル化してきたので合わせたのでしょうか?

石川: デジタルカメラはつい最近です。2003年のアフガニスタンは、まだすべてフィルムです。2004年 日本縦断もフィルム。2006年の四国遍路の途中からデジタルを使うようになりました。フィルムは持つのがかなり重いですから。ただ、私はパソコンが全く出来なくて触ったこともないので、デジタルで撮ったものを見るのが不便。かみさんにやってもらって見るんです。かみさんは塾の講師で、写真に関心がない。パソコンはトリミングも簡単にできるし、非常に便利ですけど、自分ではできないですね。日本縦断の時もフィルムをたくさんリュックに入れて、途中何本も補充しながら何百本も撮ったのですけど、重いですからね。デジタルは軽くて便利ですね。

: 今でもフィルムにこだわっている方もいますが、石川さんもやはりフィルムへのこだわりがありますか?

石川: フィルムへのこだわりはないです。カメラは全く磨かないし、だらしない。フィルムもどこのメーカーとこだわりがない。写っていればいいって感じで。

: 道具として使えればいい?

石川: 当時はズームもないし、露出は、モノクロはいいとして、カラーは微妙で、現像してみないとわからないし、失敗した写真もいっぱいあります。


(C)大宮映像製作所

◆山が好きで諏訪に住むことに

: ベトナムから帰った後、沖縄を撮っていたということで、朝日新聞退職後、沖縄に住んでいらっしゃると思ったのですが、諏訪に住んでいるとのこと。沖縄に住んで撮っていたわけではないのですか? 諏訪には何年くらい暮らしているのですか? 山がお好きというとのことですが、ここに住もうと思ったきっかけは?

石川: 諏訪に住んでもう20年になります。1986年、46歳の時に朝日新聞を辞めて、沖縄に帰ろうと思ったけど、生れた首里にはもう土地も家もない。本部半島の先に土地を買いましたが、海のそばでとてもいいところなのですが、年金もないので働かなくてはいけない。失業保険が半年と思ったら8ヶ月貰ったけど、その後は働かないといけない。考えればわかることだったのですけど。定年になって住むにはとてもいいところだけど、働くには本部では不便。車も運転できませんし。沖縄から出てきてずっと千葉に住んでいたので、千葉からは離れたいなぁ~と。沖縄に行けば海はあるので、山がいいなと。それも中央沿線がいいと。昔、よく行ってたんですよ。若い頃、リクレーションといえば山。土曜の夜、新宿23時55分発の夜行列車に乗って山に行って、日曜日に帰ってくる。駅は長蛇の列で、誰か先に行って並んでいても座れなくて、床に寝て行ったりしましたね。

: 私も信州が好きで10年間で60回くらい行って、その後、白馬村に5年くらい住みました。山が好きで、諏訪に住んでいらっしゃるとプレスにあったので、もしかしてそうかなと思いました。

石川: 中央沿線の八ヶ岳や安曇野などあちこち探して、諏訪の町を見下ろすところに決めました。30年以上前に建てた中古の家を買って建て替えてないので、我が家だけおんぼろ。周りは、前に買った人たちが定年になって退職金で家を建て替えて綺麗なのですけど。

: 私も山に憧れて白馬に5年程住んだことがあるので、お気持ちわかります。20年以上そこにいらっしゃるということは、そこから取材に出かけたりしていらっしゃるのですね。

石川: 東京に日帰りできるところと、今のところを選びました。車の運転ができないのでバスと徒歩で動けるところを考えました。バスが最終が7時なのでその後はタクシーに乗りますけど。

: 『LIFE!』という映画が今公開されているのですが、写真の整理係が主人公で、LIFEの休刊前後をコメディや荒唐無稽な話も含めて描いている映画です。最後は、LIFEに関わった人、写真に関わっている人には感動的な話です。(最終刊の表紙に使う写真のネガを亡くした主人公が、世界のあちこち捜し歩き、最後にやっとみつけるのですが、その表紙写真には写真整理係への感謝が込められていた)

石川: 私の写真もLIFEに掲載されたことがありますので、興味深いですね。

(ここで、時間が来てしまいました。)

:ジュディ・ガーランドのお話は必ず載せますね。

石川: 写真はないけどね。私はもともと映画評論家になりたかったのですよ。両国高校の定時制で新聞部の部長をしていました。ジュディ・ガーランドも大好きで、『オズの魔法使』など、映画評もいっぱい書きました。当時、両国日活という日活封切館があって、封切館は高いんですけど、広告を新聞に載せると、映画の切符を何枚かタダでくれて、よく観にいきました。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『我が青春のマリアンヌ』(1955年)とか『陽気なドン・カミロ』(1953年)とか好きでしたね。 もっと話をしたいけど・・・・ (と、話し足りなくて残念そうな石川文洋さんでした。)


石川文洋さん

*****

*取材を終えて*

アフガニスタンでも撮影されている文洋さん。お会いして、最初に、長年イランに関わっていて、アフガニスタンにも興味があると申し上げたら、「イランといえばキアロスタミ監督の映画はいいですねぇ」と、さっそく話が脱線しました。本題に入って、ベトナムに行った経緯をお伺いしたら、その前に滞在していた香港からなかなか抜け出せませんでした。香港好きの私たちにとって、1960年代の香港の話はわくわくするものでした。楽しそうに語る文洋さんでしたが、戦場の話になると、語気を強められました。 話があちこちに脱線しましたが、そのままをここにお届けしました。
映画で取り上げられていた沖縄出身の日系アメリカ兵のことや、対馬丸生き残りの方の沖縄での取材の話など、もっともっとお話をお聞きしたいと思っていたのですが、時間切れでとても残念です。(咲)


ベトナム戦争の反戦運動に参加したことが、自分の生き方に大きな影響を受けた私にとって、石川文洋さんにお話しを聞けたのは大感激でした。ベトナムで写真を撮っていた日本人は何人もいたけど、石川さんの写真の中で一番印象に残っているのは、「飛び散った兵士」の写真。米軍の砲弾が当たり、飛び散ったベトナム解放戦線兵士の身体の一部分を米軍兵士が持ち上げている写真です。残酷な写真ですが、非情な戦争の姿を伝えてくれました。私が写真を始めたのは、そんな写真の数々を見たことがきっかけでした。優しそうな石川さんが、どうしてこういう写真を撮れたのだろうと思いましたが、戦争に対する憤りだったのでしょう。
ベトナムでの生活とか、サイゴンの街のこと、ベトナムの人々のことももっと聞きたかったのですが、ついつい話が脱線してしまい、時間が足りなくなってしまいました。(暁)


『石川文洋を旅する』

企画・製作・監督 : 大宮浩一(『ただいま それぞれの居場所』『季節、めぐり それぞれの居場所』『長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ』)
  大宮浩一氏プロフィール → http://www.tabi-bunyo.com/cast-staff/
出演:石川文洋
配給:東風
助成:文化芸術振興費補助金
製作:大宮映像製作所
2014年/日本/109分/カラー
公式サイト: http://tabi-bunyo.com/
シネマジャーナル作品紹介ブログ http://cinemajournal-review.seesaa.net/article/399665962.html

★6月21日(土)より、東京・ポレポレ東中野、沖縄・桜坂劇場 ほか全国順次ロードショー


(C)大宮映像製作所

return to top

本誌「シネマジャーナル」及びバックナンバーの問い合わせ: order@cinemajournal.net
このHPに関するご意見など: info@cinemajournal.net
このサイトの画像・記事等の無断転載・無断使用はご遠慮下さい。
掲載画像・元写真の使用を希望される場合はご連絡下さい。