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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『毎日がアルツハイマー』関口祐加監督インタビュー

関口祐加監督
関口祐加監督

2012.6.20


関口監督は日本の大学で国際関係論を学んだ後、オーストラリアに渡り、オーストラリア国立大学大学院の太平洋研究所員になった。修士論文を書く過程で、1989年『戦場の女たち』で監督デビュー。ニューギニア戦線を女性の視線で描いたこの作品は、世界各地の映画祭で絶賛され、メルボルン国際映画祭ではグランプリを受賞。その後、2作目の『WHEN MRS. HEGARTY COMES TO JAPAN』(1992年日本未公開)で、アン・リー監督にコメディのセンスを絶賛され、コメディを意識した作品を目指すようになる。前作『THE ダイエット!』(2007年)では、関口監督自身がダイエットに挑戦する姿を公開し、大いに笑わせてくれた。次なる被写体は、お母さん。お父さんを突然亡くしてから10年、お母さんは2010年にアルツハイマー型認知症と診断された。オーストラリアでの29年間の生活に終止符を打ち、横浜の実家に戻り、お母さんとの日常生活を撮り続け、動画サイトYou Tubeで発信してきた。累計数20万ヒット。このほどお母さんの喜怒哀楽の場面を時系列に編集、長編動画『毎日がアルツハイマー』として劇場公開が実現した。

昨年秋に亡くなった私の母も、亡くなる2年程前に典型的なアルツハイマー型認知症と診断されました。介護している身としては、大変なことも多いのですが、毎日、思いがけない行動が飛び出して、もう、これは誰かに言いたい気持ちになるのがよくわかります。笑っては悪いと思いつつ、笑うしかない。(暁)さんも痴呆症の母親の介護中。経験者の私たちふたり、関口監督と大いに話がはずみました。今も毎日お母様の姿を撮り続けている関口監督。いたってポジティブで明るい!楽しいインタビューとなりました。(咲)

シネマジャーナルHP『毎日がアルツハイマー』紹介記事
http://www.cinemajournal.net/review/index.html#maiaru

『毎日がアルツハイマー』(C)2012 NY GALS FILMS 『毎日がアルツハイマー』(C)2012 NY GALS FILMS 『毎日がアルツハイマー』(C)2012 NY GALS FILMS 『毎日がアルツハイマー』(C)2012 NY GALS FILMS
『毎日がアルツハイマー』(C)2012 NY GALS FILMS

「初めまして~」とにこやかに関口監督。監督にはそう言われましたが、東京国際女性映画祭などで監督の姿を何度も拝見していた私たちにとっては、初めてお会いする方というより馴染みの方です。 実は関口監督の初監督作品『戦場の女たち』(1989年)公開の折に(玲)さんがインタビューをしていて、掲載号のシネマジャーナル12号を持参。まずお見せしました。「わ~若い!懐かしい!」と写真を見て歓声をあげる関口監督でした。(こちらにその時の記事があります http://www.cinemajournal.net/bn/12/senjo.html
すでに12号の在庫はなく、掲載記事のコピーを差し上げました。ということで、最初の作品から縁があった関口監督ですが、今回もぜひお話を聞きたいと思い、インタビューさせていただきました。



監督:3月いっぱいには完成させようと思っていたのに、押せ押せになって、音楽が最後の最後になってしまい、完成が4月にこぼれてしまいました。また、欲張りだと知りつつ、「毎アル」の本も出版して頂けることになり、とても嬉しいです!

―最初の作品『戦場の女たち』から関口監督の作品は観ています。もちろん『THE ダイエット!』も観たのですが、You Tubeなどはほとんど観ていないので、監督がこの動画を配信していることを全然知りませんでした。やはりインターネットをしていない人も多いと思うので、映画館で公開されることで初めてこの作品のことを知り、観にいく人も多いと思います。お母様は、『THE ダイエット!』の最後にも出てきましたね。

監督:『THEダイエット!』の台所のシーンは、今思うととても象徴的です。なぜなら母が初めて、カメラを向けられて嫌がらなかったからです。思えば、その頃から(認知症)の兆候は、あったんですよね。息子が本好きなので、シドニーによく送ってくれるのですが、送ってくるのが同じ本ばかり。服も同じようなものばかり届くようになって、おかしいなと。そのうち、国際電話がかけられなくなり、電話を憎むようになって、毛布を被せてしまいました。電話はかけるほうの都合、受ける人にとっては“うるさい”と。
『THEダイエット!』のプロモーションで何回か帰国した2009年の時に、色々と日常生活の中で気づきがあったんです。まず、料理をしなくなった。道具を使えなくなり、段取りが出来なくなっているらしい。お風呂が、間遠くなる。昼間に寝ている。今は、すべての行動に理由があることが、分かるようになりましたけれど、当時は、どうしたんだろうって。例えば、なぜ、徘徊?これにも理由がある。もちろん、物を盗ったと言うのも理由があるんですよね。今の状況には、歴史があるんですね。親子だったら、親子の関係の歴史があって、今の介護の現状があるんです。そこを見ないと。今だけの介護のhow toだけでは乗り切るのは、かなり厳しいと思います。

― 認知症フォーラムにパネリストとして登壇されるようになったのもYou Tubeで配信していた縁ですか?

監督:そうだと思います。You Tubeでお医者さんや介護関係者、メディアの人たちもよく見てくれているらしく、お声がかかりました。皆、普通は肉親がアルツハイマーであることを隠したいじゃないですか。でも、私は、母が、被写体として面白いと思ったし、アルツハイマーの母を魅力的だなって思ったんですね。母のことをちっとも恥ずかしいなんて思っていない。実はいわゆる記録映画というスタイルではないドキュメンタリー映画を撮りたいと思うようになったキッカケが、あるんです。それは、『戦場の女たち』の撮影時、ニューギニアの若い世代の女性たちに村に連れていってもらったのですが、日本兵に慰安婦として徴用された方に話しを聞いているうちに、若い世代側が「ジャップ!」と激怒してきて、結局撮影をさせてもらえなくなったことがあります。その時、ただ単に「何か」を記録するというより人間の変容の面白さに興味を持ったんですね。それで、テーマで撮るより、人間を撮りたいと強く思うようになったんです。ですから、私には、ぶれていく人間も面白いんです。たとえば、天皇が嫌いと言いながら、勲章をもらってしまうような人間に興味がわきます。母も被写体として魅力的だから撮りたいんです。アルツハイマーだから撮りたいのじゃなく、アルツハイマーで正直になって、世間体を気にしなくなった母が、スゴイと思って。

― You Tubeを始めたのは?

監督:映画製作だけでは食べられないのでシドニーでも映画学校で教えていましたが、その時、教え子たちがYou Tubeを自由に使っていて、卒業制作の映像とかをアップしていたんです。そして、アップした動画を上手に使って企業から協賛をもらったりしているのを知って、「こんな事できるんだ。じゃ、やってみよう!」と影響されたんです。学生から教えられたんですね。知らないことは知りたい、やってみたい、という好奇心だけで生きてますから(笑)。

― それは、今までの作品を観ていればわかります(笑)。この作品は、監督とお母さんのキャラクターの相乗効果でできていると思います。私たちが撮ってもこんな風にはならないです。

監督:そりゃあ『羅生門』ということですよね。同じ題材で撮っても、人によって全然違うものができます。スチール写真も同じですよね。どこを切り取るかは、人によって全然ちがいますから。

― そうですよね。何が面白いかというと作家の目だと思うから。関口監督の作品で好きなのは、誰も今まで撮影していないような題材と、切り口です。

監督:それは29年間オーストラリアで暮らして、私は常にマイノリティじゃないですか。アジア人、つまり、オーストラリアの人から見ればイエローモンキー、そんな私が、彼らと同じことをやっても浮かばれないんですよ。彼らと違うことをやることで振り返ってもらえる。日本みたいにみんなと同じことをやっててはだめなんです、多民族国家は。その発想や視点は、オーストラリアで29年間鍛えられましたね。大切なのは、いい意味で開き直ること。白人には出来ない、ない視点から発信する。日本でいえば、在日の人とか被差別部落の人と同じ立場だったんですよ、私は。以前、白系ロシア人の人を映画にしようと思い、取材したことがあるのですが、難民としてオーストラリアに渡り、オーストラリア人になりたいとものすごい努力をしてきたけれど、最後までオーストラリア人としてみてくれなかったことが辛いと言っていました。ご自分が、白系ロシア人であることを誇りに思えばいいんですが、移民で行くと大抵その国の人になろうと思うから、開き直るのは難しいんですよね。

― 私は5年くらい長野県白馬村に住んでいたことがあるのですが、大阪から白馬に嫁いできた友人がずっと関西弁でした。他の地方から来ている人は信州弁になっているのに彼女だけは関西弁で通していて、関西人って強いなって思いました。自分は関西人だということをアピールしていたのかなとも思います。それと、他県から移り住んで何十年も住んでいる人が、自分はもうここの人という思いなのに、地元の人からは今でもよそから来た人といわれるというのを聞きました。

監督:そうですよね。関西の人はたくましいですよね。開き直っていていいなあ、と思います。そういうことが大切なのではないでしょうか。大阪は介護だって面白い、面白い。カイメン(=介護をする男たち)と言って、自分のかぁちゃん、とうちゃんを介護する男たちの会に呼ばれて行ったことが、ありますが、とても明るいです。また、認知症の人たち自身の集まりもあるんですよ。「ワタクシが認知症の関口でございます」みたいな感じでやっていて、みんなで介護家族のことをあれこれ言い合うのですって(笑)。普通逆だよね。家族の集まりでは、介護されている側のことを話すでしょう。ホント、大阪の発想はすごい。それに比べて、関東はダメですね、ええかっこしいで。だから「毎アル」は、介護をオープンにしよう、というのがメッセージなんですよ。

― これが公開されたら、介護が変わってくると思いますよ。実は、勤めていた会社がリハビリ・介護機器を扱ったり、高齢者施設を運営する会社だったんですが、介護のことや痴呆などに関する講演会なども時々あり、オープンが大事、一人で頑張りすぎないこと、家の中に閉じこもっていないで人の手を借りるというようなメッセージを発信していました。私自身は4人で介護をしているので、まだ負担は少ないのですが、ひとりで介護している人は頑張りすぎてしまうんじゃないですかね。

監督:そうです、そうです。カミングアウトが大事です。ゲイもレズビアンもですが、介護もカミングアウトが大事。日本人は一般的に頑張る人が多いですよね。たぶん頑張っている自分も好きなんでしょうか。でも「助けてくれ!」っていうことも大事。30年前は難しい状況だったかもしれないけれど、今はオープンにできる環境にあると思います。

― 介護保険もありますからね。

監督:順天堂大学の新井先生(映画に出演)は、認知症になっても脳は95%正常とおっしゃっていますが、私にとって母は、アルツハイマーになっても母であることには変わりないんです。子供たちもそういう認識ですね。むしろ「おばあちゃん、面白くなっていいじゃん」というノリなので、それは母にも伝播するんですね。そして、そのことが母を楽にしていると思うんです。普通の介護は家族を追い詰めちゃうんでしょうかね。たとえば介護家族の会などに行くと「母が顔を洗うのを忘れちゃうので一生懸命教える。週に4日はデイサービスに行くので毎朝、教えなくちゃいけなくて大変なんです。」とか涙ながらにおっしゃるんですよ。うちの母なんて顔は、洗わないですよ。「どうしてそうまでしても洗わなくちゃいけないんですか?」って思うんですけど。洗わなきゃ洗わないで、顔を拭いてあげるとかじゃだめなのかなって思うんです。

― 発想の転換をしないとだめですね。こういう風にしなければいけないということにしばられていますね。

監督:その発想の転換がけっこう難しいんでしょうか。皆さん、大体まじめ過ぎますよね。実は、最初は、『此岸、彼岸』というタイトルにしていたんですが、その理由は、「此岸(しがん)」、つまりこちら側にいる我々は、煩悩の世界にいて世間のしがらみの中で生きている。でもアルツハイマーになった母は、どんどん人として解放されて彼岸に近づいているんじゃないか。人として自由になっているなあというそんな認識があったので、そのタイトルにしていたんですね。

― そうそう、最初につけたタイトル『此岸、彼岸』について聞いてみようと思っていました。


監督:それなのに、なぜ『毎日がアルツハイマー』に変更したかというと、プロデューサーが「此岸」の「此」が読めないと指摘したこともあるし、編集ラッシュを見ているうちに、これは母だけでなく私たち家族の話なんだな、って思ったんです。母だけでなく、私たちにとっても毎日がアルツハイマーなんだと。それでタイトルを変えようということになりました。『日々是アルツハイマー』とか、『アルツハイマー•ハイ』とか、『アルツハイマー•エクスプレス』など、いろいろと候補があったんですが、最終的にはうちの息子が『毎日がアルツハイマー』がいいと言って決まったんです。

― このタイトル、とてもいいと思いました。『此岸、彼岸』も悪くはないですが、このタイトルだと、何だろうと思って説明を見ないとわからない。でも『毎日がアルツハイマー』なら、ぱっと映画の内容を想像できる。

監督:今、インターネットで『毎アル』と言われているんですよ。これは「毎日アルコールを飲んでると、毎日がアルツハイマーになるよ」という意味でもあるって!(笑)

― 今、家族の物語とおっしゃられたけど、関口さんと息子さん、関口さんと別れた夫とか、亡くなったお父さんとか、それらを含めての物語ですね。

監督:そうですね。別れた夫とは、壮絶な闘いがありました。元夫は、ハーグ国際条約に則り、息子をウォッチ•リストに記載したため、3年ぐらい日本に帰ってこれなかった時期があります。でも、今は、家庭裁判所であんなに争った仲なのに、映画にも出てくれたりして。それは、私たち元夫婦の感情は別にして、彼は、息子の父親であり続けるわけなので、両親という立ち位置でしっかりとおつきあいしようということです。息子がいなかったらつきあわないでしょうね(笑)。

― オーストラリアから帰ってきてどのくらいですか。

監督:2010年1月30日に帰ってきたので、2年5ヶ月ちょっとですね。

― 息子さんは、向こうではお父さんのところにいるのですか?

監督:はい。息子はお父さんと暮らしています。今週の土曜日にくるんですよ。ちょうど、冬休みなので。

― 今の状態だと、息子さんがこっちに来て住んでもいいことになっているんですか?


監督:いや、(映画の中に、住む場所について迷うシーンがある)息子自身に選ばせて、息子も悩んだ結果、学校とか友人のこととかを考えてオーストラリアに戻ったんですね。今、ちょっと反抗期で、大人に「可愛いね」とか言われると「お世辞ですか」って言うんです。それで言われた相手がちょっと困って「お母さんにも似ているんじゃない」とか言うと、「それ、侮辱ですか」って言い返すんです(笑)。どういうこと!(笑)。ああ、やっぱり私の息子って感じですよね(笑)。
関口家では笑いをとってなんぼ、なんです。いい学校に行ったり、いい会社に行くより大切なんですよ。母もどんな大人になるのか楽しみにしています。妹の末娘の「ことこ」が中1になって、「塾に行きたい」と言い出したんですが、家族全員で「どうした大丈夫か、塾なんか行って普通すぎないか」と(笑)。本人「大丈夫、大丈夫。塾に行っても普通にならないから」って(笑)。うちはそういうノリですね。

― あの子もいい子ですよね。お母さんは生真面目だったってパンフに書いてあったけど、『THE ダイエット!』で出演したのしか観ていませんが、私はお母さんもそのようなキャラクターのような気がします。

監督:うちは父が自由人だったし、娘2人も全然言うことを聞かない個性だし、母が一番普通で、目立たなかった。母は実は、家族をまとめる扇の要みたいな役をしてきたんだと思う。その役目が終わって本人の真のキャラクターが出てきたのかも。最近、私が、出かける時には、ハイタッチやピースをしてくれるようになった。いい感じでボケてきていますよ。
薬が馴染んできたのか、最近ブチ切れなくなってきましたし、今は落ち着いて、本当にいい感じです。

― この映画が公開されたら、四角四面にこうしなくてはいけないと思っていた人が、そうじゃなくていいんだと思ってくれるといいなと思います。

監督:そう、それが一番うれしいです。介護は、60点ぐらいでいいんですよね。ただねえ、日本人はみんな100点取りたいんではないでしょうか。

― 自分が疲れちゃうから、私なんか結構いい加減です。

監督:いい加減=ええ加減にすることが、介護ではどれだけ大切かってことですよね。仕事もやめなくていい。大変だったらいろいろな制度を利用する。介護する人の精神が病んではいけないと思うんです。
母は、お風呂に1年以上入っていないんですけど、清潔を保つために訪問看護をお願いするというやり方です。そんなに焦って煮詰まる必要は全くないと思うんですよね。さっきの顔を洗ってくれないという人の話ではないですが、言うことを聞いてくれないと思うからいらいらするわけですよね。「顔、拭いちゃだめなのか」とか、「顔、洗わないといけないのか」って考えてみる。うちなんか母は、外に行かないので、ま、洗わなくてもいいかって。そんな風に考えちゃいます(笑)。

―― 映画の作りについてはどうですか。

監督:何を目指したかというと、非常に生意気と思われるかもしれませんが、今村監督が、お得意だった重喜劇です。私は喜劇が大好きで、喜劇は自分の身体の中に持っていると自覚しています。で、母を撮っているうちに抱腹絶倒しつつ、やっぱりせつないなあ、と。そこらあたりを意識して制作しました。チャップリンの言葉なんですけど、「人生はクローズアップで見ると悲劇なことが多いけど、ロングで観れば喜劇だ」。つまり、悲劇と喜劇は表裏一体なんですよね。

― これを重苦しく作ってしまったら映画が面白くない。やっぱり監督のキャラクターで表現しているから、その両方が伝わってくるんですよ。

監督:動画として撮ってYouTubeにアップしている時には、老いていく親をさらしてという非難はありました。なぜか男の人から多かったですが、きっとご自分も介護している親御さんを抱えている人なのかなあ、と思ったりしました。

― ある種、勇気なんじゃないですか。

監督:そうですね、それは勇気というか、逆にそれができなければプロとして面白い映画は作れないと考えます。自分を常に追い込んでいかないと。とにかく、人間の深遠を覗いてみたいという好奇心です。そこに踏み込んでいけるかどうかですよね。ただ、難しいのはドキュメンタリーって倫理の問題があるじゃないですか。踏み込むことで倫理上よろしくないということはあるわけで、それを知りつつ踏み込めるのか。その絶妙なバランスをとりつつ作品に臨まないと、面白くないと思うんです。

― お母さんはどのように見ていますか?

監督:2作目の『When Mrs. Hegarty Comes To Japan』(日本未公開)で初めて家族を撮っているんですが、母にカメラを向けた時は完全な拒否反応でした。でも、3作目『THE ダイエット!』での最後の台所のシーンは、2m近いオーストラリア人のカメラマンが、撮ったんですが、その時初めて嫌がらず撮らせてくれたんです。実は、私たちの間にどんなわだかまりがあったかというと、母は、私がオーストラリアに行ったのは、国際関係論を勉強して、オセアニアの研究者になるためだと思っていたんですね。そして、修士をとって、2年で日本に帰ると言っていたのに、それが29年も滞在して、映画監督になってしまった。がっかりして失望感が強かったんですね。だから、『THE ダイエット!』のあのシーンで、「帰ってきてほしい」って正直に言ってくれた時に、初めて私が映画監督になったことを受け入れてくれたんだなって思ったんです。時々、気分によっては、日常生活の中で撮られたくないというのはあったんですが、でもあんなに反対していた母が私の史上最強の被写体になってくれたのは、最高のプレゼントだなって思いました。ですから、ゆるぎなく母のことを撮ってやるぞ!」みたいな決意は、あったんですよね。そこまでプッシュしても大丈夫っていう自信が今回は、ありました。ただ母の迫力のスゴさに時々、ビビッていますけどね(笑)。私のロングショットはカメラマンが言うカッコいいロングショットではなく、ただ母親にビビッて近づけないっていう情けないロングショット。それでもカメラを向けて、母が怒ってカメラを叩いたのは1回だけ。息子がオーストラリアに帰った時にがっかりしていて、「カメラを向けるんじゃない」っていう怒りはありましたが、基本的には受け入れてくれているな、と感じていました。
 最近は、ちょっとからかって「私、なんだと思う?」と聞くと、「映画監督」ってキチンと言うんですよ。素晴らしい! 以前は「翻訳者かな?」とか、言っていたんですけど。

― お母さんとの関係も変わってきたんですね。

監督:29年間のギャップというのが、ありますからね。母親は厳しくて、叱られてばかりいたのであまり好きじゃなかったんです。今、大学で教えているんですが、若い学生たちが親に叱られたことがない、親とは、お酒を飲みに行ったり、カラオケに行ったりしていると聞くとびっくりします。私には親と一緒にカラオケに行くなんて考えられない。親は友だちとは違いますから。
昭和一桁の母とは、大きな壁があったんですね。こんな厳しい母とはいたくないと、19で家を出ました。私は母とは、違う道に行くと粋がっていたと思います。でも今振り返ると、その壁が良かったんですね。それに何も言わずに私を見守ってくれたことに感謝。20、30じゃわからないことです。50歳代になって初めてわかる親の有難みです。母の見守りがなければ今の自分はないと思います。そういう意味で恩返ししたい。母が大変な時に一緒にいたいと強く思いました。

― オーストラリアに29年いて、帰ってくるときの決断は?

監督:決めるのは早いんですよ。2週間で片づけて帰ってきました。何たって、猪突猛進だから。
2010年の1月末に帰ってきましたが、その前の年の12月~1月に息子と日本に里帰りしていて、クリスマスを祝った晩に、カレンダーに書いてある「クリスマスケーキを忘れないで」という息子のメモを見て、「どうしよう。クリスマスケーキ忘れちゃった」と母が、言ったんですね。その時の母の眼に、自分の身に何が起こっているんだろうという恐怖が見えたんです。その眼を見て、もうこれは、一人にしておけない、帰ってこようと決心したんです。子供は父親に預けて、2週間でシドニーのアパートをたたんで帰ってきたんです。ちょうど映画学校の契約が12月に切れて、更新するかどうかという時期だったので、タイミングもよかったんです。

― 向こうの生活があったのに、すぐ切り替えられて、間が良かったんですね。

監督:そうですね。私は、人生において、あんまり迷わないんです。結婚もそうだし、離婚も、子供の超高齢出産もそうだし、とにかく決断が早いんです。だから奈落の底に落ちるのも早いのかも(笑)。
離婚の時は、ほんとに奈落の底に落ちましたね。先ほども言いましたが、3年間オーストラリアから出られなかったんですが、母が色々と詰めて送ってくれた段ボール箱の内側に「陽は必ず上る」って書いてくれたんです。そういう励ましがとても嬉しかったし、ありがたかった。絶対にあんな男と結婚してとか言わないんです。時間はかかりましたが陽は、上りましたね。そんな思いをしても、だいたい能天気なんで、いいように、いいように考える。でも、じっと辛抱することも学びました。

― 日本では、大学の仕事も入ってきたんですね。

監督:そうなんです。でもいろいろな方の力添えです。これはすごいです。オーストラリアではありえない。だって、面接もなく大学で教えることが決まるなんて、びっくりしましたよ。

― やはり、監督の実績があるからじゃないですか。
この映画が公開されたら、アルツハイマーの方を抱えている人の励みになると思います。

監督:特に頑張っている女性たちのためになればいいなと思っています。日本の女性は犠牲になるのが好きでは、ないです?そんな頑張らなくていいというメッセージが伝わればと思います。

― 私は、毎日友人に「こんなことがあった」って発散していました。これを言わずにどうするって感じです。

監督:あはは、私は、facebookで世界に発信している(笑)。

― 母はアルツハイマーになったらどうしようって言っていたんですが、なっちゃったら、もうわからないんですよ。「過去は忘れた!」とか言って。

監督:幸せ。幸せ。本当にボケ勝ちですよね(笑)。


取材 景山咲子、宮崎暁美(撮影・まとめ)

インタビューを終えて


● 監督は豪快に笑う、明るい人でした。

関口監督を初めて見たのは、1作目の『戦場の女たち』(1989年)が高円寺の集会室のようなところで上映された時。監督もオーストラリアから来て、トークがありました。映画の内容はパプアニューギニア戦線の話で、現地の男性や、女性たちに取材したもの。従軍慰安婦について描いたものでした。
その後の『THE ダイエット!』の時は東京国際女性映画祭や、公開された時にも監督のトークを聞くことができました。映画自体が抱腹絶倒ものでしたが、監督はほんとに話が面白い人です。
そして、この『毎日がアルツハイマー』では、完成披露試写会とインタビューでお会いすることができました。
この『毎日がアルツハイマー』は、アルツハイマーになってしまった監督の母親の日常を切り取ったものですが、内容自体はいたって明るくて、監督のキャラクターが反映された作品に仕上がっています。でも明るいだけではありません。監督も語っているように重喜劇です。アルツハイマーになっても脳の95%は正常だということを知り、驚きました。ほんとにそうなのかな?という気もしますが…。私の母は脳梗塞からの痴呆です。痴呆としては軽かったのですが、車いすの生活になってしまいました。5月にはくも膜下出血で倒れてしまい、もう2ヶ月近く意識不明状態です。痴呆状態でもいいから、笑ったり、話したりできていた時のように回復しないかと回復を祈っています。この『毎日がアルツハイマー』を観て、母がまだ元気なうちに、私も動画を撮っておけばよかったと思いました。写真はけっこう撮っているのですが、動画までは考えてもみませんでした。なので、この作品を観て目からうろこでした。 (暁)


公開情報

2012年7月14日(土)より ポレポレ東中野、銀座シネパトス、横浜ニューテアトルにて夏休みモーニング・ロードショー中! 7月28日よりヒューマントラストシネマ渋谷にて上映決定!
『毎日がアルツハイマー』公式HP http://www.maiaru.com/

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