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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『壊された5つのカメラ-パレスチナ・ビリンの叫び』
イマード・ブルナート監督&ガイ・ダビディ監督インタビュー

ガイ・ダビディ監督(左)とイマード・ブルナート監督

2012年8月31日(金)


イマード・ブルナート監督は、イスラエルが町の真ん中に分離壁を作ってしまったビリン村の住民。2005年2月、ちょうど4男ジブリールが生まれた時に1台目のカメラを手に入れ、4男の成長と共に村での出来事を撮り始めた。その後、何度もカメラを壊されながらも撮り続けている。そして、ガイ・ダビディ監督は、映像作家として、ビリン村を訪れていたイスラエル人。二人が共同で作り上げた『壊された5つのカメラ-パレスチナ・ビリンの叫び』の日本での公開が決まり、二人そろって来日され、お話を聞く機会をいただきました。


★映画は、2012年9月22日(土)よりシアター・イメージフォーラムにて公開中
公式 HP >> http://www.urayasu-doc.com/5cameras/
作品紹介→ http://www.cinemajournal.net/review/index.html#5cameras


前のインタビューが終わり、部屋の隅でお祈りをするイマードさん。お祈りを終えるのを待つ間、ガイさんに『いのちのこども』シュロミー・エルダール監督にインタビューした記事を見せます。もちろんご存じでした。二人そろったところで、インタビューを開始しました。


◆伝え聞くイスラエル建国以前のこと

―イマードさんが撮った映像には、そこに住む人だからこその思いがあふれていました。1991年5月にイスラエルを旅したことがあります。オスロ合意前の一瞬平穏な頃でした。その後、落ち着くどころか、混迷をきわめている状況を悲しく思っています。この映画で一番印象的だったのは、フィールがイスラエル兵に、イスラエル人と俺たちは親戚みたいなものじゃないかと、訴えていたシーンです。1947年のイスラエル建国以前には、ユダヤ人もパレスチナ人も、ユダヤ教キリスト教イスラーム教と宗教や人種が違っても、長年共存して暮らしてきた歴史があると思います。お二人は、お祖父さんたちから、建国以前の共存して暮らしていた時代を聞かされて育った世代だと思いますが、お二人それぞれ、お祖父さん世代がイスラエル建国前にどこで暮らしていたのか、また建国以前のユダヤ人とパレスチナ人の関係について、伝え聞いたことがありましたらお聞かせください。

イマード: イスラエル建国以前の状況として、ヨーロッパなどから来たユダヤ人の難民の方たちがグループごとに小さなコミュニティーをあちこちに作って住んでいて、小奇麗で素晴らしい生活をしていたこと、そして、周りのパレスチナ人との関係は良好だったということを聞いています。母方の祖父はテルアビブに住んでいて、近郊に広い土地を持っていて農業をしていたのですが、建国後、1948年にヨルダン川西岸に移りました。
私は今、41歳です。私はヤッハやアッカなどの地域には住んだ経験がありません。それらの地域に住んでいたパレスチナ人の多くは、土地を失い、家を壊されて、今や難民としての苦しい生活を強いられています。私はヨルダン川西岸で生まれました。私の知っているのは既にイスラエル軍の占領下となったパレスチナ。1967年以前の占領前の記憶はありません。ですので、すべてを失った人たちと同じ感覚ではありません。でも、もしあなたがそのような目にあったとしたら、どうでしょう? 私は特にパレスチナ人なので、彼らが怒りを胸のうちに持っていることが想像できます。
パレスチナ人の私自身は、自分の家に住み、自分の土地も持っていますが、1948年以前を知る人とは違う怒りを持っています。イスラエル軍は毎日、毎月、毎年、私が子供のころからずっとコントロールしてきました。土地もどんどん失いました。でも、まだ自分たちの家に住んでいます。イスラエル軍に抵抗運動をして、私たちの次の世代には、いい生活ができるよう、平和に暮らせるよう、そう願って頑張っています。

ガイ:父方の祖父母はルーマニアにいたのですが、ルーマニアでは多くのユダヤ人がホロコーストの犠牲になりました。それを生き延びてイスラエルにやってきました。母方の祖父はモロッコのカサブランカから1950年代に移民してきました。モロッコでイスラーム教徒との関係はよかったと聞いています。父方、母方、それぞれの移民前の状況は違いますが、いずれもイスラエル移民を促す動きに導かれてイスラエルにやってきました。そういう次第で父方も母方もいずれもイスラエル建国以前のパレスチナの状況は知りません。
ユダヤ人とアラブ人の関係は、いい時期もあったし、悪い時期もあったと思います。今は政治的には悪い時期ですが、今、こうして日本にパレスチナ人のイマードと一緒にいることはとても素敵なことだと思います。だって、パレスチナ人がイスラエル人の僕をみたら、村をめちゃくちゃにしたり、家を壊したりした同じイスラエルの奴だから、殺したいと思うのもありえることだと思うから。


◆イスラエル人としてパレスチナ人を支援

― ガイさんがパレスチナ人を支援する活動をするようになったのは、どんなことがきっかけだったのでしょうか?

ガイ:長い経緯があるのですが、できるだけ短くお話しましょう。2003年の初頭、パレスチナのいくつかの村を訪れて、ビデオレポートでパレスチナのあちこちで動きが起こっていることをインターネットで発信していました。その後パリに行っていくつかの短編を作りましたが、ヨルダン川西岸で何が起こっているのかに興味を持ち、自分の目で確認して理解したいと思ってイスラエルに戻ってきました。私はフィルムメーカーです。ビデオであちこちの地域を撮影してきました。パレスチナ人の友人もできて、ヨルダン川西岸で何が起こっているかも彼らを通じて自分が今まで知らなかったことを肌で感じることができました。そして、自分が軍に所属して、私自身が武器となることを避けたいと思いました。でも、政治的な意図はありません。グリーンラインの向こうで何が起こっているのか?という好奇心です。2005年、ビリン村の中に分離壁が出来ることをビリン村の人たちが知って、直接イスラエル軍に対して抵抗運動を始めたことを知りました。抵抗運動をサポートする国際組織やイスラエル人がいることも知りました。

― ビリン村の住民たちの闘争を支援しているISM(International Solidarity Movemnent=国際連帯運動)のメンバーに、欧米の活動家だけでなく、イスラエル人活動家も多いと聞きました。そうすると、ガイさんもそのお一人ですか?

ガイ:私は組織に入って活動するのはあまり好きじゃないので、関係は持ちながらも個人で動いています。ホスピタリティがあって、心を開いてくれるビリン村の人たちに惹かれて、もっとここにいて彼らのことを知りたいと思いました。そして、30分程の短編を作りました。その後、水の権利を巡る長編も作りました。2~3か月ずっと村で暮らして、水がどんな意味を持つのかも深く理解しました。イスラエル兵がどのように向かってくるのかも捉えました。子供たちまでをも捕えたりする姿を見ました。そのような状況で子供たちが心にどんな影響を受けるかも見てきました。こうした中でイマード一家とも知り合いました。ですが、イマードが撮りためた映像をまとめて映画にしたいと私に相談してきたのは、何年かしてからのことでした。私が抵抗運動の様子を撮っているイスラエル人だと知ってのことです。イスラエル人と共に映画を作ることが意味を持つとイマードは思ったのです。

― イスラエル兵は、カメラを構えている人がイスラエル人なのかパレスチナ人なのかは、見た目ですぐにわかるのでしょうか?

イマード:ガイは兵士にヘブライ語で話しかけるからわかる!

―イマードさんの奥様はブラジル育ちですが、ブラジルの国旗をカメラや家のドアに掲げていたのは、それで多少イスラエル兵からの銃撃を避けることができるからでしょうか?

イマード&ガイ:(顔を見合わせて笑って)あれは、子供たちがブラジルのサッカーチームが好きだから! もちろん奥さんがブラジルと関係があるからだけど。アメリカの国旗もいいかもね。

(奥様がナクバでご両親がパレスチナからブラジルに逃れた方なのかも確認したかったのですが、しそこねました。)


◆カメラを壊されても撮り続けている

―ビリン村には、外国人ジャーナリストも大勢取材にきていますが、イマードさんが何度もカメラを壊される経験をしているのはイマードさんがパレスチナ人だからなのでしょうか?

イマード:私がパレスチナ人というより、毎日、長時間撮影していたので、イスラエル兵に私が村に住んでいることを知って目を付けられました。カメラを銃で撃ったり私を逮捕したりしました。イスラエル兵はカメラで撮られることをとにかく嫌っていました。

― イマードさんの2台目のカメラをイスラエル人の友人から入手したとありました。1台目は自分で買われたのですか?

イマード:ある人がお土産として持ってきてくれたものです。カメラを壊されるたび、なんとか次のカメラを入手してきました。

― イマードさんはイスラエル人の活動家と相談して非暴力デモを始めたとも語っておられました。パレスチナを支援するイスラエルの人たちがいることがなかなか世界に知られていないと思います。

イマード:確かに2005年にビリン村で抵抗運動が始まった時には、多くのイスラエル人が村に来て支援してくれたのですが、だんだん少なくなっています。

ガイ:2008年ガザが襲撃された時にもデモしたイスラエル人たちがいたけれど、それほど大規模のものじゃないです。テルアビブで結構大規模なデモも行われたけど、結局何の影響もなかった。大勢がデモしても、何も変わらなければ意味がない。デモの質が大事。

― カメラを回し始めたころに、仲間が銃弾に倒れて死んでしまうことや、ご自身や兄弟や仲間が逮捕されることを想像されていましたか?

イマード:友達のフィールが殺されたり自分が逮捕されることなど、もちろんそれが起こるまで考えたこともありませんでした。イスラエル兵に積極的に発言していたアディールのことはいつかやられるんじゃないかと思っていたのですが。彼は逮捕されて18カ月以上刑務所に入ってました。殺されたフィールはとてもいい人柄で、とても平和的な人物。誰とも友達になれる人でした。子供だけでなく兵士にまで人気がありました。なので、撃たれた時にはびっくりしました。


◆イスラエルの軍に入る前の青少年に観てもらいたい

―よく、長年のユダヤとアラブの対立、ユダヤとイスラームという宗教の対立にすりかえて報道されますが、土地と水の権利を巡る争いだということが伝わってくる作品でした。 イスラエルのユダヤ人たち、とくに権力者に観てほしいと思いました。観ていただくことはできたのでしょうか? 反応は?

ガイ:イスラエル・シネマ・ファンドに友人がいて、あちこちで上映できるよう働きかけてくれたのですが、イスラエル国内では一般の劇場での上映はなかなか難しいです。また、政府機関の人にも観てもらいたいと掛け合いましたが、却下されました。でも、映画祭や、プライベートな場所で上映されたり、テレビでも取り上げられたりもしています。

イマード:アメリカの映画祭で観てくれたユダヤ人から、とても心を動かされ、ひどいことが起こっていることを理解したと話しかけられました。その人の息子が、イスラエル政府がアメリカにいるユダヤ人の若者たちにイスラエルを見せるために組んだプログラムで、イスラエルに行くと言っていて、入植地の様子も見学することになっているけれど、この映画を観たら、考え直すのじゃないかと言ってました。

―「息子にさせてあげることができるのは、何でも自分の目で確かめること」との言葉がありました。イマードさんの4人の息子さんたちは、この映画を観て、どんな感想を持たれましたか?

イマード: 今はまだ小さいので、あ~自分が映っているというような反応ですが、大きくなって観たら、自分の村で何が起こったかをよく理解してもらえると思います。

― ガイさんもお子さんに観てもらったのでしょうか?

ガイ: 僕にはまだ子供がいないのですが、イスラエルの人たちは自分の子どもがいずれ徴兵されるので、できれば軍隊の現状がわかるような映像を見せたくないのです。(ここで、イマードさんが、「だから君は結婚しないの?」と言葉を挟みます)。逆に親たちは子どもたちに現実から学んでほしいという思いも抱えているので、教育の現場で映画を観て貰えればいいなと思って、教育関係の役所の友人に働きかけています。

― 実現するといいですね。そういうことが平和への一歩に繋がると思います。映画の中で、「We want to sleep!」 とデモする姿がありました。願いは、お互い平穏に暮らしたいだけだということをイスラエルの人たちにも感じてもらえるのではないかと思います。

イマード:平和に暮らせるよう、これからも働きます。


わが子を見守るような二人の監督

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それぞれが答えるのを、じっとお互いそばで聞いている二人。ガイさんが、ユダヤ人とパレスチナ人の間にはいろいろな感情があるけれど、今こうして二人で日本に来ていることが幸せと語る姿が印象的でした。二人の思いの籠った映画が平和への一歩に繋がることを願ってやみません。

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(取材:景山咲子)
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