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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

<~ビキニ事件、第五福竜丸以外の被災船と
被災漁民について考える~>トークショー

ビキニ事件、第五福竜丸以外の被災船と被災漁民について考える
『放射線を浴びた[X年後]』公開に先立って、8月22日(水)、夢の島公園内にある都立第五福竜丸展示館内で行われたトークショーに行ってきました。 (一般に「第五福竜丸」とされていますが、船体には「第五福龍丸」と書かれていました)
放射線を浴びた[年後]』ストーリー 公式HPより http://x311.info/

映画チラシ

1954年アメリカが行ったビキニ水爆実験。当時、多くの日本の漁船が同じ海で操業していた。にもかかわらず、第五福龍丸以外の「被ばく」は、人々の記憶、そして歴史からもなぜか消し去られていった。闇に葬られようとしていたその重大事件に光をあてたのは、高知県の港町で地道な調査を続けた教師や高校生たちだった。その足跡を丹念にたどったあるローカル局のTVマンの8年にわたる長期取材のなかで、次々に明らかになっていく船員たちの衝撃的なその後…。そして、ついにたどり着いた、 "機密文書"…そこには、日本にも及んだ深刻な汚染の記録があった―

南海放送(愛媛県松山市)では約8年にわたり、これまであまり知られることのなかった「もうひとつのビキニ事件」の実態を描いてきた。地元の被災漁民に聞き取りをする高知県の調査団との出会いがきっかけだった。制作した番組は「地方の時代映像祭 グランプリ」「民間放送連盟賞 優秀賞」「早稲田ジャーナリズム大賞 大賞」など、多数受賞。2012年1月に「NNNドキュメント」(日本テレビ系列)で全国放送され反響を呼んだ『放射線を浴びたX年後』に新たな映像を加えた映画化。

●伊東英朗監督プロフィール (プレスシートより)

1960年愛媛県生まれ。16年間公立幼稚園で先生を経験後、テレビの世界に入る。東京で番組制作を経験した後、2002年から地元ローカル放送局 南海放送で情報番組などの制作の傍ら、地域に根ざしたテーマでドキュメント制作を始める。2004年ビキニ事件に出会い、以来、8年に渡り取材を続ける。



<~ビキニ事件、第五福竜丸以外の被災船と被災漁民について考える~>トークショー

講師 安田和也(第五福竜丸展示館主任学芸員)
   伊東英朗(映画『放射線を浴びた[X年後]』監督)


左 安田和也さん(第五福竜丸展示館主任学芸員)   
右 伊東英朗さん(『~放射線を浴びた~X年後』監督)

ビキニ水爆実験とは


安田和也さん(第五福竜丸展示館主任学芸員)

 安田さん:米国は1954年3月1日から5月まで、中部太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁などで6回の水爆実験を行った(アメリカの太平洋での核実験は、トータルでは1946年から58年まで23回に及ぶ)。キャッスル作戦と名付けられ、3月1日に爆発させた「ブラボー」という実験は、広島に落とされた原爆の1000倍もの破壊力があるという。実験場の160km東方で操業中のマグロ漁船、第五福龍丸(乗組員23人)が被曝。しかし、被曝した事がわかったのは3月16日だった。そして、同年9月、無線長の久保山愛吉さんが死亡した。また、この水爆実験での被曝について、第五福龍丸ばかりが話題になるが、日本では992隻の魚船が汚染魚を獲っていたという。しかし、一番象徴的だったのが第五福龍丸であることは事実で、3月1日の水爆実験当日から症状が出ていた。
 放射能で汚染された海流は、広まるのではなく塊で流れて行き、魚は1~2ヵ月は外部被曝、それ以降は内臓などの内部被曝へと広がっていった。被曝の症状は広い範囲に及んだが、主に魚についての検査を行い大量の魚が廃棄された。しかし、人間に対する検査はあまりしていなかった。急性症状がある人、放射能汚染がひどかった船の船員について行った。
 被曝した漁船のうち、1/3が高知船籍ということを知った、高知の高校の山下正寿先生が1983年に始めた幡多高校生ゼミナールでは、マグロ漁船に乗った漁師さんたちに体験の聞き取りをしている。今日まで山下さんが中心になって聞き取りを続けてきた。被災船などの映像も撮影し、『ビキニの海は忘れない』(1990年製作 森康行監督)という映画にもなっている。


山下正寿先生 写真提供:南海放送             水爆実験映画のワンシーン 


太平洋の広い海が放射能で汚染された               危険区域      

伊東英朗さん(『~放射線を浴びた~X年後』監督)

 伊東さん:南海放送という愛媛のローカル局で、ビキニ事件を8年追いかけて撮っている。これだけの大事件が知られていないのはメディアにも問題がある。この事件を追う中で山下先生を知り、高知に訪ねた。
ビキニ事件がきっかけで原水爆禁止の運動が広がり、1994年12月に被爆者援護法が制定されたが、広島、長崎の原爆被爆者と認定されれば被爆者手帳が交付されるが、ビキニ被曝者は対象外である。
 ビキニ事件のことは現在あまり知られていないが、ビキニ事件のことを検証することが福島のためにもなると思う。日本大学の野口先生に、ビキニの水爆実験6回で被曝した人はトータルでどのくらい被曝したことになるのか計算してもらったら(映画の中で出てきます)、とてつもない数値になったが、公文書には残っていない。しかし、当時の新聞に頭髪から1500カウントというような記事があった。
 芋づる式にマグロ漁船に乗った人を紹介してもらって証言を記録したが、たくさんの人がすでに亡くなっていた。胃癌、すい臓癌など、癌でなくなった人が多かった。被曝した新生丸の乗組員19人を調べたら生存者はふたりだけだった。60~63歳くらいで亡くなった人が多かったが、甲板に上がって働いていた人は50代で亡くなっていたり、亡くなった人の骨が被曝していない人と較べて、骨が脆くなっていて大きい骨が残っていなかったりというような話を聞くことができた。
 3,4回も水爆を見たという人もいた。ある船の漁労長は、帽子をかぶってカッパを着て作業をしていた人は長生きし、まともに放射線を浴びた人は早死にしていると語っていた。2004年から取材しているが、水爆実験から58年もたち証言できる人が少なくなっている。被曝した人は、同世代より早く亡くなっていると感じるが、実感ではなくデータとして形に残ればと思う。でも、何もわかっていない。この事件の解明は、まだまだされていない。TVで放送すると反響はあるが、思っているアクションに繋がらない。でも「この取材をやめたらあかんのや」と山下先生に励まされ続けている。個人レベルの調査が多い。50年以上も経っているが、もっと20年くらい前に調べなきゃ生きている人が少ない。第五福龍丸の生存者は8名だけど、話をしてくれた人はひとりだけ。
 アメリカからの補償金より、政府は第五福竜丸以外に193人の治療費を出しているが、被曝している人の数はそんなものではない。映画が公開されることで、被曝した人たちの情報がもっと集まるといい。この被曝は、魚や漁場が問題になっているが、人間の被曝について問題になってこなかった。


日本全土が放射性降下物で覆われていた
(アメリカ原子力委員会の機密文書より)
映画のワンシーン
 1954年3月1日に行われた「ブラボー」という水爆実験の放射能は1週間でアメリカに達している。アメリカは水爆実験の前に放射能の観測点を設置していることが公開された情報によってわかったが、日本では三沢、東京、広島、長崎など5ヶ所、調査ポイントがあった。
それによると、1954年5月15日日本列島は放射能に覆いつくされていた。そういうことが全然知られていない。
「被曝マグロ」は1954年12月末までに457トンが捨てられたが、1954年末、アメリカから「完全な解決」を条件に、慰謝料として200万ドル(当時、日本円にして7億2000万円)が日本政府に支払われ、被曝した魚は人体に影響を及ぼすものではないとして、放射線の検査をすべて打ち切った。そして翌日からは、すべての魚が水揚げされた。慰謝料の3/4が、魚の廃棄や魚価が下がったことによる損害に、残りは第五福龍丸乗組員の治療費などにあてることが閣議決定された。
『放射線を浴びた[X年後]』は8年に渡って取材したもの。TVで放映したものの総集編。映画『ビキニの海は忘れない』『荒海に生きる』などの映像が残っていたことで、より一層ビキニ事件の実相に迫ることが出来た。


ふたりの話の後、長年ビキニ事件を取材してきたカメラマン、豊崎博光さんと島田興生さんも登場し、ビキニ事件のことについて話してくれた。



豊崎博光さん

豊崎さん:ロンゲラップには死の灰を浴びたたくさんの人たちがいた。死の灰を浴び被曝したことで、甲状腺障害や癌などで亡くなった人が多かった。1972年、マーシャル諸島・ロンゲラップ環礁の村長(ジョン・アンジャインさん)が、ヒバクシャとして広島の原水禁の大会に来たこともあります。被バクに関していえば、日本人が最初の被バク者ではありません。ウラン採掘に従事したアメリカの先住民ホピ族が最初の被バク者です。

(豊崎博光さんプロフィール 核問題を中心に活動するフォトジャーナリスト
著書 「グッドバイ ロンゲラップ―放射能におおわれた島(1986年)」「サワダ―遺された30,000枚のネガから 青森・ベトナム・カンボジア 」他)


島田興生さん

島田さん:マーシャルの取材は、延べ6年半住んで撮影しました。
第五福竜丸展示館で10月から始まる企画展「マーシャルは、いま ー故郷への道」の展示の監修をしています(島田さんの40年に渡る取材、撮影した写真の展示があります)。ロンゲラップ島の帰島が進められていますが、残留放射能の問題がとても大きい。40年に渡る取材の中から島民の核に対する非暴力の戦い、新しい繋がりなどを展示します。11月3日に私のスライドトークもあります(来年3月まで展示があります)。福島の今後に、役立てて行けたらと思います。

(島田興生さんプロフィール フォトジャーナリスト
1974年に初めてビキニを訪れて以来、ビキニ被災の状況を世界に広める活動をしている。
著書 「ビキニ マーシャル人被爆者の証言1977年)」「舟がぼくの家」他)

★ トークショーに参加して

 20数年ぶりに夢の島公園内にある第五福竜丸展示館に行った。夕方6時半からだったので、5時半ころ夢の島公園に行ったら人がほとんどいなかった。それもそのはず、第五福竜丸展示館も、隣りにある夢の島熱帯植物館も終わっていた。でもせっかく来たので、その周辺を歩いてみた。セミの鳴き声がものすごく大きかったので近くの木を見たら、なんとひとつの木に10匹以上とまっている!! 木がうっそうと茂っているので、何万というセミがその近辺にいるのだろう。どうりでうるさいほど大きい鳴き声だっだわけだ。


すごい数のアブラゼミ           木が生い茂っている           夢の島熱帯植物館       

 第五福龍丸はビキニ水爆実験のことを忘れないために、1976年(昭和51年)第五福竜丸展示館が作られた。6時半ころには、けっこうたくさんの人が集まり、ふたりの話が始まった。

 自分ではビキニの水爆実験について、いろいろ知っていたつもりだったけど、こんなにもたくさんの船、人が放射能を浴びていたのだということを知らなかった。それに、被曝した人たちへの補償がほとんどなかったということにもびっくりした。

『放射線を浴びた[X年後]』を観ると、漁船に乗っていた人たちが50~60代で亡くなっていて、しかも、その被害について、風評被害のこともあって口に出せなかったということが描かれていたけど、彼らの死を無駄にしてはならないと思った。

 そして何よりも驚いたのは、被曝したのは太平洋に出漁した船や人たちだけでなく、日本列島も1954年5月15日には放射性降下物で覆われていたということがアメリカ原子力委員会の機密文書の公開によりわかったこと。

 福島の原発事故のあと、「ただちに人体に影響はない」というような政府高官の発言が何度もTVで流れていたけど、何年もたってから身体への影響が出てくるということは、広島、長崎、ビキニでも、亡くなった人が証明している。「ただちに人体に影響はない」発言は意味のないことだとつくづく思った。


         展示コーナー         久保山愛吉さんの展示コーナー    新藤監督自筆   

第五福竜丸船尾部分         第五福竜丸船首部分

 展示館内を歩きまわっていたら、船首の先の窓のところに、新藤兼人監督自筆の「第五福竜丸は生きている」という紙がぶら下げてあるのをみつけた。新藤兼人監督は1956年に『第五福竜丸』という映画を撮っている。この作品は観たことがないので、機会があったらぜひ観てみたいと思った。


(左)島田興生著 ビキニ マーシャル人被爆者の証言
(右)豊崎博光著 グッドバイロンゲラップ     

 家に帰ってから、そういえばビキニの写真集を持っていたなと思い本棚を探してみたら、島田興生さんの「ビキニ マーシャル人被爆者の証言1977年)」と、豊崎博光さんの「グッドバイ ロンゲラップ―放射能におおわれた島(1986年)」が出てきた。その当時買ったものだけど、久しぶりに見てみた。今も、このことを追い続け、長い間取材を続けてきたお二人の行動に敬意を表したい。





(宮崎暁美)



放射線を浴びた[X年後]』公開情報  公式サイト http://x311.info/
●東京都 ポレポレ東中野9月15日(土)~10月中旬(終了未定)
 HP:http://www.mmjp.or.jp/pole2/

●愛媛県 シネマルナティック 9月15日(土)~28日(金)
HP:http://movie.geocities.jp/cine_luna/

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