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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『愛しきソナ』ヤン・ヨンヒ(梁 英姫)監督インタビュー

*プロフィール* 映像作家。大阪生まれの在日2世。教師、劇団女優を経て、ラジオパーソナリティーとして活躍。
1995年、30代になってからビデオカメラで家族の映像を撮り始める。同時に、アジアのいろいろな国を訪ねてニュース映像や、在日をテーマにしたテレビドキュメンタリーなどを作ってきた。2005年、北朝鮮に住む家族との絆を描いた初の長編ドキュメンタリー『ディア・ピョンヤン』がベルリン映画祭などで受賞。2006年に一般公開され、会場は涙と笑いに包まれた。『愛しきソナ』は5年ぶりの第2弾となる。


夏には初のフィクション作品も手がけるというヤン・ヨンヒ監督にお話を伺うことができた。

――この作品は第1作の『ディア・ピョンヤン』と同じ時期に撮られた映像を、今回は姪のソナちゃんにフォーカスをあてて編集したのですね。

そうです。『ディア・ピョンヤン』は主に2001年のピョンヤンでの映像、『愛しきソナ』は2005年のソナの映像が主で、そこに両親の姿が入っています。
初めてビデオカメラを持ってピョンヤンに行くようになったきっかけがソナなんです。『ディア・ピョンヤン』を作っているときに、次はソナで作りたい、と考えていました。

――ソナちゃんがおばちゃん大好きで尊敬しているのがわかります。

甥や姪の子どもの感覚でいいますと、私が「昔結婚もしたらしいけど、今は独身だし、来るたびに面白いビデオカメラを持ってくるし、いろんな国に行って好き放題生きてる」ように見えてとても面白いんでしょうね。彼らにとって叔母の私は「インフォメーションの塊」なんですね。特にソナは一緒にいると私のイヤリングを触ったり、髪や手の匂いをかいだりします。「日本の石鹸のいい匂いがする」というんです。ハンドクリームの匂いじゃないかと思うんですけど。
ソナと私はお互い不思議がりながら、親近感があって愛おしいけど距離も保っている。「こういうことは聞いちゃいけないかも」っていうたくさんの暗黙の了解もあります。そんな中で友情を育んでいる姪と叔母です。カメラが回っていないときはぶっちゃけ話もして、そっちのほうが断然面白いんですけど。

――入国禁止になったというのは?

入国申請が拒否されました。母と一緒にもう一度家族に会いに行きたいと申請したら、母が呼び出され「お母さんはいいですが娘さんは入れません」と言われました。理由はわかるでしょ、っていう感じでした。『ディア・ピョンヤン』で撮った映像と、私のナレーションが原因でしょう。謝罪文を書くよう言われたら、母が「うちの娘は書かないと思います」と言ったらしいんです。私としては謝罪文を書く代わりに、「私は家族の話はやめません」ともう1本作った。
家族がやめてと言ったのではないですし、日本で暮らしている私が言いたいことを言わなかったりするのはちょっと違うんじゃないかと。私は何か反政府活動しているわけでも、戦っているわけでもなく、私はただ家族の話をして、自分が表現したいことを表現しているだけのことなので、早く「あんなこともあったわね」という昔話になってほしいなと思います。

入国禁止になったことでピョンヤンの家族は心配ですし、寂しいですけど、逆に私もしっかり覚悟を決めて、これからももっと正直に、そして素直に作品を作っていこうと思っています。正直であるということはよく摩擦を起こしますが、それはどの家庭でもどこの社会でもありますから、しょうがないなぁと。会えなくても家族は家族ですし。ソナから手紙が来るのですが、そのたびに英語の単語が増えていて、それを見ると、ああ勉強してるんだなとか、単語が増えたように背が高くなって体重も増えているんだろうなとか思います。

――ハードがずいぶん変わりましたね。撮ってきた膨大な映像はどんな風に管理されているのでしょう。編集するときご苦労だったのではないですか。


ヤン・ヨンヒ(梁 英姫)監督

『愛しきソナ』の中に、ピョンヤンで3歳のソナがアイスクリームを食べているシーンがあるのですが、それを撮った1995年がソナと初対面した時です。
持って行ったのはHi8(ハイエイト)でした。フィルムは劣化してしまいますので、しばらくたってデジタル化しました。後はデジタルカメラでみなハードディスクに保存してあります。私は記憶力の良いほうではなくて、最近は名前も出てこなかったり、老化現象が始まったのかと思うくらいなんですが、撮った画に関しては、それがいつのものなのかすぐにわかります。そしてそれは、編集の人がわかりやすいように整理しています。
『ディア・ピョンヤン』は日本人スタッフで作り、『愛しきソナ』のほうは韓国人スタッフ。初めてソウルで作業をしました。釜山映画祭がきっかけですね。
『愛しきソナ』のときは無理を言ってありえないほどぎりぎりまで待っていただいて編集しました。徹夜徹夜で80時間も編集室にいて、ソファもなかったので椅子で仮眠して、顔洗ったっけ?という状態で、女を捨てていました(笑)。編集マンは私が帰ってから1週間寝込んだそうです。ヤンさんってこんなにタフだったのと驚かれました。

――作り始めた時と今とでは何か変わった点はありますか?

素直に作りたいものを作るという、考え方は変わっていません。
ただ、ドキュメンタリーは撮ったもので作りますよね。次作はフィクション映画を作りますが、そちらではもっとどういう風に「作り上げる」か、「作りこんでいく」かを、考えていかなくてはならないですね。
アメリカの大学院ではメディア・スタディーズで理論を学びました。自分が何を作りたいのか何を作りたくないのか、それを確立したかったんです。機械オンチなので、技術について勉強するとは思わなかったです。そっちは優秀なスタッフを集められればいいかなと。私は自分が撮りたいものをしっかり把握して、後の作業はプロの方、この言い方はおかしいかな?その方たちに任せたいと思いました。ほんとはハードにも強いというのがいいんでしょうけれど。

――お母さんがこまめに作る愛情のこもった荷物に感激しました。血縁だけでなく同胞にも援助するというのはなかなかできないことだと思います。

日本のお金にしてみたら、2、3万円はそんなに大きな金額ではありません。でも、あちらでは違います。
ソナは両親の愛情と、私の母が送り続けた支援物資で育ったようなものです。
両親は国の仕事をしてきたほか、特に商売をやっているというわけではなく、もうずいぶん前から自分たちが旅行に行ったり、外食したりしていません。
2人の唯一の楽しみだった喫茶店でモーニングを食べることも、いつのまにかなくなっていました。近所との助け合いもありますが、母は節約上手な主婦なんです。

――映画を製作する作業の中で好きなことは?

全工程が過酷ですが、う~ん…。一番楽しいのは上映後にある観客とのQ&Aです。いろいろな感想を伺えるので。
映画を観て、クスッとでも笑っていただくとすごく嬉しい。泣いていただくより笑っていただけると嬉しいです。大阪人だからかしら?

――ドキュメンタリーは特に登場人物の魅力に負うところが大きいと思いますが、明るくて楽しいご両親、愛くるしいソナちゃん、と監督はすばらしいキャラクターに恵まれましたね。

そうですねぇ。母も大阪生まれですし、在日というより「大阪のおばちゃん」ですね。今80歳ですが、元気で大阪で一人暮らしています。

――影響を受けた映画、好きな映画は何ですか?

好きなのは『ククーシュカ ラップランドの妖精』(2002年/ロシア/アレクサンドル・ロゴシュキン監督)です。
韓国のパク・チャヌク監督の大ファンです。
ドキュメンタリーでは、アメリカでの授業の中で観たクリス・マルケル監督の『サン・ソレイユ』(1982年/フランス)。
家族の映画を撮ろうとして悩んでいたときにこれを観て、私も好きなように作ろう!と思った作品です。この監督のものはどれも大好きです。

取材・監督写真撮影:白石映子

作品紹介はこちら




『愛しきソナ』場面写真

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