このページはJavaScriptが使われています。
女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『あぜみちジャンピンッ!』西川文恵監督インタビュー

西川文恵監督プロフィール
1978年生まれ。2002年、ロンドン・カレッジ・オブ ・プリンティング(現ロンドン・カレッジ・オブ・コミュニケーション)卒業。
脚本・撮影・プロデュースを努めた卒業制作『While you sleep』(2002)を第59回ヴェネツィア国際映画祭に出品。
2006年『あのころ…Summer Memories(主演/山川恵里佳)で劇場公開デビュー。
2007年『soeur スール 』(出演/宝生舞・田中実・小倉優子ほか)を発表した。
2009年『あぜみちジャンピンッ!』シカゴ国際児童映画祭、ロサンジェルス日本映画祭、インドネシアKids Festa映画祭で受賞。

『あぜみちジャンピンッ!』(C) アイマックス

―この映画を作ることになったいきさつを教えていただけますか。

チャームキッズというタレント事務所から「所属している女の子たちのための映画」を作りたいと、企画書の募集があって応募しました。商業映画として誰にでも受け入れられる内容であることが大切です。障害のある女の子が、その困難を克服していく。家族の話であり、聞こえない子、聞こえる子との、異文化コミュケーションをと考えました。タレント事務所が行っていた湯沢でのダンス合宿で、自然の中で、芸能という目標に向かって一生懸命な子たちを見て、ダンスに打ち込んで汗を流している女の子たちを撮りたかったんです。

―ああ、それでたくさん出てくる女の子たちがみんな可愛いんですね。もっと普通の子がまじってもいいんじゃないかと思っていたのです(笑)。
チームの子、ろう学校の子とたくさんの子どもたちがいるので、学校の先生みたいじゃなかったですか?

14歳くらいを中心に何10人もいましたので、ほんとに先生みたいでした。先生ってたいへんですね。

―撮影はどこで、どれくらいかかりましたか?

2008年の8月の10日間、新潟県の魚沼市、南魚沼市、新潟市で撮影しました。山も田んぼも綺麗でしたが、お天気が不安定で苦労しました。
私たちスタッフは撮影現場の近くの民宿に泊まりました。お米の産地なのでロケ弁がとっても美味しかったです。出演の子たちは合宿をしていた湯沢で。
ダンスの先生がそのまま映画でも振り付け、指導をしてくださいました。


―主人公の優紀を耳が聞こえないという設定にしたのはなぜですか?
身近に耳の聞こえない方がいないので、踊るとき、いったいどうするのか想像がつきませんでした。

実は私の母がずっと以前から手話で歌を表現する、というのをしていました。
それを見てきて、手話とダンスって身体を使って気持ちを表現するところがとても似ていると思ったのです。
手話監修をしてくださっている大橋ひろえさんは、生まれつき耳が聞こえない方なのですが、唇の動きを読む口話ができ、声を出す訓練をしてきたので他の人と変わりありません。しかもダンサーであり俳優でもあるので、映画の中での手話やダンスのこと、なんでも伺えてとてもありがたかったです。コンテストの場面で客席に座ってオーディエンスになっていただいています。

―優紀があこがれるリップガールズはプロの方たちですか?

はい、役名と同じリップガールズという実在のダンスチームで、ダブルダッチ(2本の縄を使ってのパフォーマンス)で有名な方たちです。

―キャスティングなどは希望通りでしたか?

私はまだ経験が浅いので、思い通りの作品を作るのはもっと先になると思うんです。でも今回予算をいただいて、チャームキッズの中からキャストにぴったりの子を選べましたし、限られた中で最高のものができたつもりです。大場はるかさん、普天間みさきさんはじめ、初めて映画に出演する子たちがとても頑張ってくれました。この3年の間に、この出演者の中でももう在籍していない子がいますので、記念の作品になりました。

―ベタベタしない優紀のお母さんもよかったですね。お父さんは?

優紀の両親は若いうちに結婚して、お母さんは自分が成熟する前に耳の聞こえない優紀を産み、お父さんは事故で亡くなったという設定なんです。画面には出てこない設定も詳しく考えて俳優さんに説明するほうです。あの小さな町では若い母親が働く場所が少なくて、農作業か、一つだけある商業施設くらい。いろいろ考える余裕もなく、ファミレスで遅くまで働いて娘を育てている。お互いに眠っているところに帰ってきて、すれ違い親子なのですけど寝顔をなでたり、ちょっとさわったりのスキンシップはある、という関係です。そういうお母さんを演じてくれた渡辺真起子さんは大好きな女優さんです。

―今回の一般公開まで時間がかかっていますね。

出来上がったのは2009年の春です。それまでにリーマンショックがあり、予定していた配給・宣伝に使える予算がなくなってしまいました。2007年の年末に企画が立ち上がってから3,4年かけての公開になりました。 監督って作品を作るのが仕事のような気がしていましたが、作って終わりではありません。公開ができない間、これまでに80以上の映画祭に応募してきました。手書きで申請書を作ったり、映像を送ったりしました。この地震後の状態を見ても、映画の作り方や監督の役割はこれから変わっていくような気がします。

―公開できて、子どもを送り出すような感じでしょうか?

今観ると稚拙なところもありますが、それもその時の真実で大切な部分です。やっと世の中に出ることになって、ほんとに子どもを送るような気持ちです。新潟で先行上映をしたとき、舞台挨拶で主演の大場はるかさんが泣きまして、こんなに待たせて悪かったなぁと思いました。
映画祭などで上映する前にいつも「優紀、頑張って!」と心の中で言うんです。同じ作品なのに、上映するたびに違うような気がすることがあって、それで観客の反応も違うんじゃないかと思ったりして、おかしいんですけど(笑)。

―これからご覧になる方へ一言。

『あぜみちジャンピンッ!』は青臭いけど、そのときの一生懸命さ、純粋さがいっぱいつまっている映画です。

―今までに印象に残っている映画、目標としている監督は?

中学生のときに観た『エドワード II 』(1991/イギリス/デレク・ジャーマン監督)、最近では『風に吹かれて キャメラマン李屏賓[リー・ピンビン]の肖像』(2009年/台湾/監督・撮影・編集:關本良[クワン・プンリョン]、姜秀瓊[チアン・シウチュン])です。今自分が映画に関わっているからかもしれないですが、観終わった後涙が止まらなくて。
目標としているのはアンドレイ・タルコフスキー監督です。『鏡』(1975年)『ノスタルジア』(1983年)『サクリファイス』(1986年)など、どの作品も観終わった後、自然や周りにあるものが大切に思えます。テーマが別のものであっても、生活や自然を丁寧に描いていて「生きているっていいことなんだ」と感じられるんです。そういう作品を作りたいです。ヴィクトル・エリセ監督『マルメロの陽光』(1992年)は、時間をテーマとした作品…として、私もいつかこれくらいの歳月をかけて映画を撮ってみたいと思っているので、目標としている作品です!



作品紹介はこちら

return to top

(取材・写真:白石映子)
本誌「シネマジャーナル」及びバックナンバーの問い合わせ:
order@cinemajournal.net
このHPに関するご意見など: info@cinemajournal.net
このサイトの画像・記事等の無断転載・無断使用はご遠慮下さい。
掲載画像・元写真の使用を希望される場合はご連絡下さい。