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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『ANPO』
安保をアートで語る

リンダ・ホーグランド
リンダ・ホーグランド監督(提供:アップリンク)

60年安保闘争や基地問題を、写真、絵画、アニメーション、歌、書籍、映像などで発表してきたアーティストたち。熱かったその時代を表現したアーティストたちへのインタビューと作品を通して、あの時代がどういう時代だったのか、人々の思いを伝えてくれるドキュメンタリー。この作品のリンダ・ホーグランド監督にインタビューしました。

2010年9月18日(土)より 渋谷アップリンクほか全国順次公開

プロデューサー・監督 リンダ・ホーグランドさん紹介
京都で生まれ、山口と愛媛で宣教師の娘として育つ。日本の公立小中学校に通った後、神戸のインターナショナルスクール「カナディアン・アカデミー」に進学。17歳でアメリカに。アメリカ、エール大学を卒業。2007年 に日本で公開された映画「TOKKO/特攻」ではプロデューサーを勤め、旧特攻隊員の真相を追求した。黒沢明、宮崎駿、深作欣ニ、大島渚、阪本 順治、是枝弘和、黒沢清、西川美和監督など、日本映画200本以上の英語字幕を制作。

出演・作品:会田誠、朝倉摂、池田龍雄、石内都、石川真生、嬉野京子、風間サチコ、桂川寛、加藤登紀子、串田和美、東松照明、冨沢幸男、中村宏、比嘉豊光、細江英公、山城知佳子、横尾忠則
出演:佐喜眞加代子、ティム・ワイナー、半藤一利、保阪正康、高里鈴代
作品:阿部合成、石井茂雄、井上長三郎、市村司、長濱治、長野重一、浜田知明、濱谷浩、林忠彦、丸木位里、丸木俊、森熊猛、山下菊二
(公式HPより)


横尾忠則さん                石内都さん


中村宏さん
場面写真提供:アップリンク

リンダ・ホーグランド監督 インタビュー

2010年8月20日
インタビュー参加 佐藤、景山、宮崎


リンダ・ホーグランド監督
提供:アップリンク

*アートがあったからアイデアが生まれた

宮崎:『TOKKO 特攻』を観た時に、プロデューサーのリンダ・ホーグランドさんのことを知りました。日本映画の英語字幕をたくさん手がけている方ということを知り、ぜひいつかお話しを伺いたいと思っていました。今回、リンダさんのこの作品でそれが実現しました。

佐藤:昨日、試写を拝見。60年安保当時、高校1年で、国会議事堂隣の日比谷高校に通っていました。まだきちんとした考えを持ててなかったので、デモには参加しなかったけれど、デモの渦をいつも見ていました。日本人じゃない方が、あれだけのものを作ったことに驚きと感謝申しあげます。
今井監督と大学時代に接点があって、その後、今井監督と交流してきたので、リンダさんが小学校6年の時に『橋のない川』をご覧になったのを知って興味を持ちました。

* 佐藤さんは「今井正通信」の発行人でもあります

景山:私は小学校低学年でしたが、60年安保闘争で樺美智子さんが亡くなったときのことはテレビで見て、ショッキングなニュースとしてよく覚えています。

宮崎:当時8歳で、家にはテレビもなかったし、ラジオもその当時はほとんど聞いていなかったので60年安保のことはリアルタイムでは知りませんでした。高校時代の69年ころべ平連のデモに行くようになってから、60年安保闘争のことを知りました。その後、報道写真に興味を持ったので、この作品に出てきた写真家はほとんど知っていたけど、絵で安保を描いた方は知らなかったので、そういうものを発掘されたのが凄いと思いました。中村宏さんの展覧会を見たのがきっかけとのことですが…。

監督:いえ、展覧会ではなく、テレビの日曜美術館で中村宏さんの特集をやっていたのを見たのがきっかけでした。

宮崎:こんなにたくさんのアーティストの作品を発掘したのがすごいし、60年安保をアートを通して語るというアイディアがいいなと思いました。このような構成にしようと思ったきっかけは?

監督:調べだしたら、あまりにも膨大でびっくりしました。写真はかろうじて皆さん知っていましたが、濱谷浩さんの写真はずっと眠っていました。絵画、写真、映画、歌やアニメーションなど、全部含めてアートとして括りました。

宮崎:斬新なアイディアでしたね。

監督:というか、アートがあったからアイディアが生まれました。60年安保闘争を普通のドキュメンタリーでやろうという気持はなかったですね。ナレーションもないし、典型的なナレーションのついたドキュメンタリーからはそんなに学んでないし、あまり興味もない。

宮崎:今まで多くの日本映画の字幕を作ったり、通訳をしたりしていろいろな方と知り合い、身に着けた日本に関することがこの映画に詰まっていると感じました。あまりの博識に日本人が教えられます。

監督:構成などは、心情的には一部、深作欣二監督の『軍旗はためく下に』を参考にしました。「まずは人の悪いところばかり見せておいて、最後に実はこの人もわけありで、こういうことをやったんだから、この人も人間だよ」という心情的な構成にインスパイアされていますね。日本映画の中で好きな3作の一つです。順位はないけど、ほかには、『上意討ち 拝領妻始末』、阪本順治監督の『顔』が好きな作品です。


* 沖縄に来たら安保が見える

宮崎:この映画の中で一番印象に残ったのは、佐喜眞加代子さんの「沖縄に来たら安保が見える」と修学旅行の生徒に語っている場面でした。あの言葉はほんとにそうだなと思いました。東京にいると安保は見えないけど、米軍基地がたくさんある(日本の米軍基地の75%が沖縄にある)沖縄では実感できると思います。あの修学旅行生たちは本土から来たのですか?

監督:あれはたまたま広島から来ていた高校生。

宮崎:沖縄に修学旅行に来て、普天間基地が見える場所に行ったということは、少しは調べて行っていると思いますが、現地に行って実感するという体験は大きいですよね。佐喜眞さんのような活動をしている方がいるということを知り、沖縄に行ったら、ぜひあの佐喜眞美術館に行ってみたいです。比嘉豊光さんの写真展を目当てに行ったのですか?

監督:あそこ(佐喜眞美術館)は普天間基地が俯瞰で撮れるというので行ったら、たまたま比嘉さんの写真展をやっていて、たまたま佐喜眞さんが修学旅行生に普天間基地の説明をしていたのです。

宮崎:グッドタイミングでしたね。普天間基地への移転が問題になっているので、この作品が話題になってくれるといいなと思います。私たちの世代にも発見がたくさんある作品でしたが、若い人に是非観てほしい。60年安保があって、今の日本がある。それがよくわかる作品でした。それを日本人でなく、アメリカ人であるリンダさんが描いたのが嬉しくもあり、なぜ日本人が描けなかったのかと悔しくもあります。
『TOKKO 特攻』の時にも感じたのですが、資料映像がとても効果的に使われていたと思います。『TOKKO特攻』の時は、プロデューサーでしたが、そういう資料映像探しもしたのですか?

監督:『TOKKO 特攻』では6ヶ月編集に立ち会ったので、普通のプロデューサーとは違うと思います。編集者は日本語がわからなかったし、監督も日本語がたどたどしかったので、つきっ切りでした。ナレーションを書いたのも私。構成も私です。

宮崎:プロデューサーとはいえ、共同製作者だったのですね。そういう資料映像は、それまでもいろいろ資料映像を探したりしたことがあったのですか?

監督:専門的にしたことはなかったです。『TOKKO 特攻』の中では、アーカイブ素材を多く使いましたが、今回は米軍の資料映像は1分半も使ってない。戦時中の映像は使っていないし、なるべくアートを中心にしました。ほんの一部だけ日本のニュース映像を使いました。あの国会の中に500人も警官が入って議員を半分も逮捕したというシーンはさすがにアートでは描けないので、ニュース映像が必要だったけど、それ以外は極力使いませんでした。
米軍の資料映像も、ほかでは捨てるようなカットを使っています。米兵が日本人女性の顔をしつこく撫でている場面とか、立川基地の映像では米兵は立っているだけで、戦死した兵士の担架を下ろしたりする作業をしているのは日本人。死体処理しているのも日本人だったのです。
9.11以降、兵士は英雄扱い。でも、「行きはよいよい帰りは怖いで、死んで帰ってきたら、死体の処理もしてくれないよ、アメリカ人は」というのを表わしました。アメリカ人には知られないようにしている面があります。
戦争は人殺しを正当化するための、巨大な神話じゃないですか。あの手、この手と、あらゆる手段を講じています。その大きな嘘を暴きやすいのは基地の周り。あるいは基地で働いている人たちの体験が、一番よく見えると思います。

宮崎:「米兵の死体処理を日本人がやっている」という話が出てきましたが、ベトナム戦争当時、べ平連のデモに行った時、やはり米兵の死体処理を日本人がやっているということを知りました。これを見て、朝鮮戦争の時もベトナム戦争の時も同じだったんだなと思いました。

景山:というか、負の部分は知らせないようにしていますよね。

宮崎:もちろんこういうことは普通は知らない。デモに行ったから知ったくらいだから。

監督:アメリカ人ももちろん知らないですよ。死体処理をアメリカ兵にやらせると、戦争に行きたくなくなる。また、日本人のバイトにやらせた方が安く済むということでしょう。今回、いろんな発見がありましたが、この事実の発見は、かなりショックでした。


* 基地闘争や安保を描いたアートは倉庫に

佐藤:朝倉摂さん始め、いろんな方が出ていて興味深く拝見しました。横尾忠則さんがファッショナブルな格好でデモに行ったと語っていたことが新鮮でした。砂川闘争の絵を描かれた方の絵を見て駆けつけたというのがすごいなと思いました。

監督:中村宏さんですね。

佐藤:私もいろいろ知りましたが、知っているようで知らないものが出てきて、日本人として知るべきことがいっぱいあると教えてくれた作品でした。
私たちの世代から上の世代は、誰もが安保体験を共有しているので、安保の意味が痛感できますが、ほんの少し下の世代の方(リンダ監督を含めた世代の方々)が、そのことを知らなかったということを知って、そのことに驚きました。60年安保のことは、別に封印されていたわけではなかったのではないと思いますが、積極的に安保闘争の歴史を伝える努力をしてこなかったのかもしれませんね

監督:そうではないです。アートの扱い方をみると、50~60年代の基地闘争のことを伏せています。だから知られていないんですよ。隠している。だから、たまたま知らないんじゃないことがよくわかります。画壇から無視されているから、これらの絵は知られてこなかったんです。だからこの絵画作品たちは、日本中の倉庫から引っ張り出してきたんです。見せてないっていうことです。

宮崎:そこを聞きたかった。多くの作品が倉庫から出して撮っているのですね。ほとんど人の目に触れられてこなかったということですね。

監督:ずっとね。だから(中村宏さんの話の)最後に「どうして、こんな立派な国立現代美術館に、ああ、飾っていなかったか、倉庫にしまっていたか」という部分を入れたんですよ。

宮崎:そのシーンを見て、そうだったのかと思いました。個人所有で持っていたのかと思っていたけど、あんな大きな作品を個人でもっているのは難しいですよね。

監督:中村宏さんは例外で、あの人天才的だから、彼の絵だけは日本中の美術館の倉庫に入っているんですよ。石井茂雄さんの絵は、ずっと遺族が預かっていて、80年代に、ある学芸員が発見して、少しづつ日本の美術館に納品されたけど、まだ全部じゃないし、紛失しているものもあります。山下菊二さんの場合は、一番大切な作品は画廊が預かっています。あの箱から出てくるところは、画廊のものです。

宮崎:あの中で印象的だったのは、鈴木モータースの倉庫?から絵を運び出して車に乗せるシーンでした。そのシーンを入れているというのは、そういう状態で保存されているということを象徴するものだったんですね。



リンダ・ホーグランド監督
提供:アップリンク

* 映画の作り、出演者たちへの思い

監督:ナレーションは絶対いやだと最初から決めていました。ナレーションを入れると、なんでもできてしまうので、そういう風には作りたくなかった。だからいろいろ工夫しなくてはいけなかった。

宮崎:「死んだ男の残したものは」は、70年安保世代にとっては、高石友也さんが歌ってよく知られていて、あの頃よく歌われていた歌だったのです。武満徹さんが作曲したとは知らなかったので、それも発見でした。だから、最初にこの曲が流れたとき嬉しかったです。

監督:そうだったんですか。武満さんも含め日本のアーティストたちは、60年安保もべ平連も、元々は日本の戦争体験から始まっていると思います。私が言うのもなんですが、国内、国外を含め、悲惨なものだったということが根本にあると思います。
2000年に『日本鬼子(リーベングイズ)』の字幕をボランティアで、1ヶ月かけて書きました。「日本鬼子」が、日本の戦争のやり方だったんですね。あの人たちは異常じゃなくて、山下菊二さんも同じような体験をしているわけですよ。補給ラインのない兵隊を海外に派遣するということは、地元調達しかないんですよ。だから、略奪という方法しかなかった。
国内では空襲のこととかもちろんありますが、小熊英二さんの「民主と愛国」を読むと、集団疎開がいかに生き地獄だったか、隣組の脅威とか、もちろん焼夷弾とか原爆とか、全部含めて日本はたぶん近代戦争では、究極の破壊を体験してきている。軍部に国を任せると、とんでもないことになると映画監督も含め、日本のアーティストは発信し続けてきたと思います。

宮崎:字幕とか通訳の仕事を通して、日本にそういう作品がたくさんあることを海外に知らしてくださりありがとうございます。それと、高里鈴代さん(「沖縄のおんなたち 女性の人権と基地・軍隊」などの著書がある那覇市議会議員)とか嬉野京子(報道写真家)さんなど、日本では一般にはなかなか知られていない方も出演していて、彼女たちにも話しを聞いているんだと嬉しかったです。また、石内都(写真家)さんのところで出てきた、横須賀の歓楽街ドブ板通りの話(石内さんが学生の頃、米兵たちの行くドブ板通りに行くと強姦されるから行くなと言われていた)など、女性ならではの視点が入っていると思いました。

監督:嬉野京子さんの写真(1965年米軍支配下の沖縄で、米軍のトラックが沖縄の幼い女の子をひき殺した現場を撮影)を知ったのは、「日本現代写真」というような名前の分厚い写真集の中でした。あの写真を撮った人が生きていて健在だということを知り、取材しました。命がけで(当時、沖縄はカメラの持込も禁止されていた)撮ったいきさつを聞いて、絶対入れたいと思いました。
高里鈴代さんは、ニューヨークに公演に来た時に興味を持って聞きに行きました。沖縄の現状を語っていたのですが、非常に冷静で人生をかけて抵抗している方。信頼できる人が自分の人生を語るという感じでフェアな方だと思いました。

宮崎:ポール・ロブソン(アメリカの歌手、公民権運動家)が好きだったので、朝倉さんのポール・ロブソンを描いた絵があるというのも驚きでした。

監督:ねえ、驚きですよね。あれも国立現代美術館の倉庫にあるんですよ。朝倉さんの話の中でポール・ロブソンの絵を描いたという話しを聞いて調べたんです。幸い日本の法律では、著作権は描いた人にあるので、著作権者がOKすれば撮影することができるんです。でも、ポール・ロブソンの絵は実物を撮ったのではなくて、カタログに入っていたものをスキャンしました。
最近高度なスキャンが可能なんです。朝鮮戦争のシーンで出てきた「死の商人」という絵は、15cm×15cmくらいのものをスキャンしたものなんです。全然わからないでしょう。
この映画はネットとデジタルがなければ、もっともっと作りにくかった。インターネットで「アート」と「安保」で検索すると何百と出てきました。それからいうと、全然使いきれていないんです。何を切って、何を入れるかという選択が難しかったんですよ。


* 映画原体験について

佐藤:今井正監督の『橋のない川』を観たのが原体験で、大きな影響を受けたということですが『橋のない川』は2部作ですが、両方観たのですか?

監督:覚えていない。

佐藤:たぶん、最初の作品だったのでしょう。今井監督の作品は他にどんな作品を観ましたか。

監督:わからない。観ているかもしれないけど、全部記憶してはいないので。

宮崎:『キクとイサム』は観ましたか?

監督:ああ、それは観ましたね。

佐藤:『橋のない川』より、『キクとイサム』の方が、ご自身の体験にあっているのではないかと思うのですが、そうでもないですか?

監督:そんなに感じませんでした。

宮崎:『橋のない川』を小学校6年生の時に観たというのがすごいですね。

監督:そうですね。やはり小さいときに観ると衝撃的ですよ。

佐藤:映画は、ご両親と映画館にいかれたのですか?

監督:学校からクラス全員で映画館に行って観ました。

景山:自主的にみんなが行こうと行って観に行ったのですか。

監督:いえ、学校のポリシーで、学校で連れて行く映画しか観ることができない。年に2,3本もなかったかな。

佐藤:私が子供の頃は、よくそういう上映会があったけど、リンダさんくらいの世代だと、日教組がそういうことをしなくなったと思うんだけど、まだ、そういうことが、その時代にあったんですね。

監督:地方でしたからね。

佐藤:どこだったんですか。

監督:山口県の防府です。


* 日本語について

宮崎:京都で生まれて、山口と愛媛で暮らし、17歳まで日本にいたとのことですが、愛媛にはいくつの時にいたのですか?

監督:愛媛で10~14歳を過ごし、その後、神戸のインターナショナルスクール「カナディアン・アカデミー」に行きました。

宮崎:関西弁、全然出ませんね。

監督:直しました。タレントじゃないんで(笑)。でも、東京にいても関西弁を話す人とおしゃべりすると、自然に関西弁が出ます。

宮崎:アメリカに行って、日本語をあまり使わなくなったら、日本語を忘れてしまったということはないんですか?

監督:アメリカに戻ってから、大学時代にはあまり日本語を使ってなかったけど、卒業後テレビ局に入って日本語を使う仕事につきました。

宮崎:この間、『冬の小鳥』という映画を観たのですが、これは韓国で生まれて、9歳でフランスに養子に行った(ウニ・ルコント)監督の自伝的作品です。監督は40代前半かなと思うのですが、韓国語は忘れてしまったそうです。(東京国際映画祭の授賞式、記者会見では)フランス語で話していました。やはり、使わないと忘れてしまうんだなと思いました。やはり10数歳と9歳では、覚えている度合いの差が大きいですね。

監督:そうですね。

宮崎:バイリンガルで、言葉というのは突然に切り替わるものですか?

監督:そうみたいです。

宮崎:日本語と英語、チャンポンに出てくるということはないですか?

監督:う~ん、兄弟と話すときは、チャンポンになりますね。話してもわかる相手だから。
でも、自分で言葉を選んでます。自由に話してもいいから混ぜていますね。

宮崎:3人姉妹で、皆さん日本の学校に入られたということですが、他の方も、日本語を使うような仕事をしているのですか?

監督:全然違いますね。


* 子供の頃の体験

宮崎:姉妹も、日本の学校に通ったそうですが、リンダさんと同じような思い、疎外感のようなものを持っていたのですか? 姉妹で、そういう話をしたことはないですか?

監督:ちょっと違うみたいですね。妹は最初から開き直っていて、「私は、アメリカに帰るんだから」っていう感じでした。

景山:小学生の頃、原爆の話を教室でされた後、同級生たちが「アメリカ人は悪者だ」という目で自分を見ているように感じたとプレス資料に書いてありました。アメリカが原爆を落としたから戦争に勝って、結果的に、こういう平和な日本になっているとアメリカでは教えられているようですが…

監督:アメリカが勝ったという意識は私にはなかったですね。

景山:原爆を落とした当事国のアメリカ人であるということで居心地が悪くて、罪悪感のようなものを感じたのでしょうか?

監督:そうですね。

宮崎:その時は、「悪いのは戦争であってリンダさんではない」というような、先生のフォローはなかったのですか? 子供は残酷だから、すぐ、いじめとかになるじゃないですか。

監督:いじめられはしなかったですね。ただ、毎日ガイジンだガイジンだの連続だったから、精神的には辛かったです。

景山:小さい頃、テレビをつけるとアメリカのドラマをやっていて、アメリカの文化がどっと入ってきて、生活がアメリカナイズしてきたのですが、ある時から、何かおかしい、戦争に負けて、日本の文化がアメリカにつぶされたんじゃないかという思いを、何年もの間、強く思っていました。元々の伝統文化の大切さを、戦争を経てきた大人ですら忘れているんじゃないかという思いがありました。今回『ANPO』を観て、いろいろな思いがふつふつとわいてきたので、大勢の人に観てもらいたいと思いました。答えを出すというより、リンダさん自身も、日本人とか外国人に対しても、考えてほしいということを発信したのですね。

監督:そうですね。

佐藤:ジョン・ダウアーさんが参加しています。彼の著作「敗北を抱きしめて」は、私自身ずいぶん前に読みましたが、この作品は、その考え方を基にしているのですか?

監督:そんなことはないです。「敗北を抱きしめて」は関係ないんです。彼が日本の近代史の権威なので、歴史的に間違っていないか検証のためにアドバイサーとして入ってもらったんです。彼は、写真はある程度知っていましたが、このアートは一切知りませんでした。

宮崎:この映画では、こういう安保や基地闘争に関する絵画があるということを表に出して知らせてくれたということが大きいですね。いろいろな人に、ぜひ観てもらいたいと思います。

監督:日本の近代、現代アートの位置づけをちょっと変えるだけの質と量だったと思うんですけどね。

宮崎:私たちのまわりの人たちにも、知らせていきたいと思います。


インタビュー後記

生まれてから17歳まで日本で過ごしたリンダさん。日本の文化を世界に紹介する仕事に就きましたが、ただ言葉がわかるだけではなく、日本の心を体得した人でもあります。映画だけでなく、たくさんの日本人アーティストとの出会いが、幅広い人脈を作り上げたのではないでしょうか。これまでの経験が、この作品に最大限に生かされていると感じました。それにしても、こんなにもたくさんの絵画を発掘したのは、経験と人脈以外の何者でもないと思いました。
お会いしたリンダさんは、さっぱりとした江戸っ子のような性格の人のように感じました。


参考資料  (公式HPより)

『ANPO』
監督・プロデューサー: リンダ・ホーグランド
撮影: 山崎裕
音楽: 武石聡、永井晶子
編集: スコット・バージェス
2010年 製作
上映時間: 89分
配給: アップリンク
公式HP http://www.uplink.co.jp/anpo/

プレス資料より

リンダ・ホーグランド監督の言葉

映画『ANPO』は、1960年の濱谷浩の『怒りと悲しみの記録』という写真集と、画家、中村宏の東京都現代美術館の回顧展との出合いから始まりました。彼らの写真や絵画には私がアメリカ人として育って、知っていたつもりの“日本"や“日本人"からは想像できない表情や表現があり、日本人と、そして日本のアーティストがこんなに燃えた時代があったことに大変驚きました。

私は本来、1960年の安保闘争について知る術も映像表現する資格もない、アメリカ人です。しかし、宣教師の娘として、山口県と愛媛県で育ち、地元の小学校や中学校へ通ったので、日本の戦争体験について、日本人の立場から学びました。特に日本人の子供達と一緒にアメリカが広島に落とした原爆について授業で教えられた時の記憶は鮮明です。先生が原爆の悲惨さを話し終わったら、小学校4年生のクラスメート達は一斉に唯一金髪で青い目のアメリカ人を振り返り、いったいどんな野蛮な国の人達がこんな無惨なことをしたのだろう、という眼差しで見られた記憶があります。その瞬間、私も自分の国がもたらした行為の酷さに、子供なりの罪悪感で胸を痛め、とにかくその場所から逃げ出したかったことを覚えています。私はその体験に対するこだわりから、大人になってからも、日本人とアメリカ人の狭間であの戦争と、そして今日までの日米関係について様々な視点から考えることとなりました。

日本で育ったもう一つのこだわりに、日本映画がありました。日本の素晴らしい映画の数々を見ながら、その映画の英語字幕を書くことに憧れ、やがては深作欣二、黒澤明や宮崎駿監督等の映画の、英語の字幕翻訳者になりました。そして、過去の邦画の傑作を見たり、字幕を書いたりしている中で、1960年に、日本に国民的なトラウマがあったことに気がつきました。大島渚監督は1960年に過激な時代を描いた映画を3本も作りました。今村昌平監督は1959年に、希望に満ちたエンディングの『にあんちゃん』を作ったのに、1961年には横須賀の米軍基地を舞台に、とことんニヒルな『豚と軍艦』を作りました。娯楽映画を100本近く遺した成瀬巳喜男監督の作品ですら、1960年を境に映画のトーンが暗くなったと感じました。1960年に日本で一体何があったのか、私の大きな疑問となりました。

そこで出会ったのが、濱谷さんの写真と中村さんの絵画でした。彼らの作品を通して、60年安保闘争がいかに国民的な運動であり、どれほどの人達の希望と熱意をかき立て、究極的にはどれほどの人達の絶望と挫折を呼んだのかも解り始めました。濱谷さんや中村さんのようなアーティストが他にもいるだろうと探し始めたら、映画監督を含め、何十人も見つかり、彼らの何百もの作品の迫力と美しさに目を見張りました。これらの作品を通して、60年安保闘争とは何だったのか、彼らを闘争に掻き立てたのは何だったのか、そして、その後遺症として未だに日本に残る米軍基地が日本にどういう影響を及ぼしているのか等を映画という形で表現することに決めました。

世界的に日本の近代アートは映画を含めて高く評価されていますが、露骨に戦争の記憶や米軍基地問題と向き合った作品は殆ど知られていません。そして、世界にこの素晴らしい「文化遺産」を紹介したいと思ったと同時に、日本の若い人にも知って欲しいと思いました。日本にも「抵抗」の歴史があることと同時に、その「抵抗」を世界級のアートとして表現し続けているアーティスト達は輝かしい存在ですし、彼らの作品や言葉には大変刺激されます。

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