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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

岡山映画祭2009 クロージング企画
『円明院~ある95歳の女僧によれば~』
英題 The GateKeeper of Enmyoin
According to a 95-year-old Female Buddhist Priest

(2007 日・米 124分 ドキュメンタリー)
タハラレイコ監督、上杉幸三マックス監督インタビュー

タハラレイコ、上杉幸三マックス

岡山映画祭2009の期間中、11月28、29日に上映
10月30日、ニューヨークブルックリンのご自宅のお二人と電話インタビュー

岡山映画祭2009で日本国内初公開されるドキュメンタリー映画「円明院~ある95歳の女僧によれば~」の共同監督、タハラレイコさんと上杉幸三マックスさんに電話インタビューができました。映画祭にはマックスさんが来日され、レイコさんはご都合でいらっしゃれません。

ストーリー
日本では数少ない女性住職、小川貞純さんは、ある夏、帰省していたニューヨーク在住の日本人映画制作者夫婦に自分の人生を語ることを決意する。が、彼女は女性としての思いを問うと言葉を濁す。一年後、貞純さんは他界し、若い女性が後を継いでいた。製作者夫婦は再び寺を訪れ、老尼僧が語りたがらなかった女性としての思いを知ろうと模索し始めるのだが……。

監督のプロフィール
タハラレイコ
91年イリノイ大学同窓会奨学生として渡米。95年ニューヨークのニュースクール大学メディア学部修士課程修了。96年卒業制作の16ミリ短編映画『レムナンツ残片』が全米各地の映画祭で上映、それがもとで映画制作者として永住権取得。97年出産。94年より上杉監督とコンビで制作を続ける。現在は制作の傍ら、ニューヨークのニュースクール大学やフィラデルフィアのテンプル大学で非常勤講師としてドキュメンタリー史/理論、また日本映画のコースを教えている。

上杉幸三マックス
92年、7年勤めた大阪の黒人音楽輸入レコード店を辞め、渡米。93年、ニュースクールメディア学部修士課程入学。95―97年まで20数本の映画にオリジナル楽曲を提供。ラジオ・エッセーも手がけ、ニューヨークのラジオ局などで放送される。97年以降は、自分達の作品制作の傍ら、日米のテレビや自主制作のドキュメンタリー・クルーとして全米はもとよりインド、イルラエル、南米、アフリカなど世界中を旅行。

作品ウェブサイト:http://mrex.org/(英語/日本語、DVD販売)


Q:こんにちは。いま日本では女性たちに仏女ブームのようなことが起きており、仏教や仏像への興味が高まっています。タイムリーなのですが、いつごろからこの映画の撮影をはじめたのですか?

レイコ:タイムレスと思っていた題材が今なぜかタイムリーになったんですね。実は最初に主人公の尼僧さん(小川貞純さん、おじゅっさん)を撮り始めたのは98年、もう10年以上前になるんです……。時代を先取りして癒しを求めていたんでしょうねえ(笑)。

マックス:映画の中で言ってる通り最初は20―30分の「テレビ番組用ポートレイト」を作ろうという事でした。当時撮影の仕事でディスカバリーやPBSとかの制作現場に入り込んでたので。アメリカでの神秘的Zen仏教ブームを見てて、あまりにも自分の知ってる土着の仏教とはかけ離れていたので「違うだろ」という感覚で作り始めたのが正直な所じゃないでしょうか。

Q:自主制作とのことですが、資金はどうされたのですか。全部自分たちの持ち出しですか。

レイコ:最初の撮影は、新型だったソニーの3チップSDカメラを買って、張り切って撮ったんですが、その後、あっさり手持ちのマックのプロセッサーでは長編の編集はキツいことが発覚。当時私は子供をハイハイさせながら家で16ミリ映画のネガ編集をしながら生きていて、マックスが仕事に出てくれているので一家で飢え死にはしないけれども私は何をやっているんだろう、何のために留学後もニューヨークに残ったんだろう、と悶々としていました。インターネットが一般化し始めた頃で、ふと思いついて助成金のリサーチをインターネットで検索し始めたら、結構応募できるところがあると気付き、そうだ、アメリカの方が助成金があるからこっちに残ったんだったと思い出し、脳を呼び起こして申請書を書き始めたんです。それで数年かけてアメリカの政府や私立財団などから全部で10万ドルほど集めて、残りの撮影と編集をやりました。ある時期は申請書ばかり書いている自分に気付き、今度はそれで何をやっているんだろう、と悩んだこともありました。

マックス:撮影段階では不足していた撮影機材の調達もフィルムメーカーやってる友達からかき集められさえすれば、後は自分達でどうにかなると思ってました。日系の助成金は、数が少ない上、全く興味を持ってもらえなかった。レイコがアメリカの助成金を持って来てくれたので、テレビでやってる出稼ぎ仕事を放って、しばらく制作に専念出来ました。でもそれも長くは続かず編集段階では常時資金不足で、予備知識のないアメリカでの子育てもあったりで、時間がかかりました。結局、音楽の方には資金を回す余裕も残らなかったし。

Q:ニューヨークのブルックリンにお住まいですね。主人公というか追っている人物は岡山県に寺をもつ尼僧さんです。ただでさえ大変なのに、日本とアメリカでは撮影や資料調べが大変だったのではないですか。

マックス:親や家族が田舎に居たので可能だったのだろうと思います。それがあったから円明院以外の寺の方や、檀家さん、清純さん(貞純さんの後継の方)、色んな人が好意的に協力してくれました。誰も知らないところでやってたら自分達が行くしかないし、そんなに協力的であるはずもなかったと思います。

レイコ:でも、もちろん距離の制限がありますから、調べ尽くしたとはとても言えません。またそれが目的でもなかった、とも言えます。探していたのは事実ではなくておじゅっさんの気持ち。真実を伝えようというのじゃなく、制限がある中で“真実”を探す苦労を作品を見てくれる人達と共有できたら、という思いで作品の構成を2人で考えました。結果、皆さんを私達と一緒に撮影旅行に連れて行き、答えが見つからずにブルックリンに戻った後も苦しむという経験を、時間軸をなるべく変えずに映画の構成にする手法をとりました。とにかく、自分達の未完全さを前面に出す、という新しい手法とも言えますでしょうか。

Q:9年にわたる取材で、カメラも8ミリから16ミリ映画、デジタルビデオまでいろいろ使用されていますね。いろいろなテープがあると編集もご苦労されたのでないですか。どのくらい編集に日数がかかりましたか。

レイコ:色々なフォーマットを使ったのは、時が経ってテクノロジーが変わったからではなく、それぞれの質感を物語に利用したかったからです。おじゅっさんの日常やインタビューなど物語の幹となる現代の“ドキュメント”は現実感の濃いビデオで撮り、7歳の彼女のイメージ映像やナレーターが思索に入る箇所の絵などは8ミリで、また時を超えてそこにある円明院の建物は16ミリで撮る、というような計画で進めました。その通りには行きませんでしたが。編集のある段階で自分たちの過去映像を入れようと決めた時、8ミリで撮りためていたのがあって、ノスタルジックな意味合がぴったり来たのでそのまま混ぜ込んで使いました。
編集に時間がかかったのは、他にも理由があります。集めた資金は編集途中でなくなり、後は働きながらなわけで……また2人とも初めての長編でしたから、部分部分を細かく編集しすぎて全体の流れが悪くなったり、少ない資金でソフトウェア、ハードウェア的にも無理無理ななか、ファイルが音楽担当の彼と、編集をしていた私のマシーンを行き来するのも技術的に苦労が多く、それらの試行錯誤で時間がかかったんだと思います。落ち込んだりケンカしながら、でも2人でまた元気を出してやる、の繰り返しで、それこそ修行のような日々でした(笑)。編集しながら追加撮影したり、謎解きのリサーチを続けていたので、撮影に何年,編集に何年とははっきり言えないのですね。人生のこの時点の私たちには、こうするより他はなかったと思います。大満足ということはないし反省もある、でも後悔もなく、やれることをやれる方法で精一杯やったという気持ちです。ただ、長くかかると陥る落とし穴は沢山体験させてもらったので、この経験をバネに今後はもう少し早く一作品を仕上げて行きたいと思ってます。

Q:日ごろ当たり前のように、というか、お葬式のときだけ見かける御坊さんの暮らしや寺を守るためのご苦労、修行などが出てきます。特に尼僧さんの学校や、女性が僧侶になることの差別や苦労など、初めて知ることが多かったのですが、よく撮らせてくださいましたね。体当たりで取材したんですか。

マックス:今から振り返ってみると、“ニューヨーク”から来ていたという事が取材される方達に微妙に作用していたのかも知れません。言い換えると、取材される側の人たちに、ある意味「よくわからないけど、何か外国で流れるそうだから」という感覚をもたらして、仮に日本のメディアの取材だったら警戒して断られていたかも知れない事や、日頃思っている事でも心の中に収めて言わない、あるいは言えないような事もあっさり言ってくれたというか。でも私達は「日本では絶対に流れませんから」なんて、そんなわかりもしない事なんて一言も言ってないんですけどね、実際は。今思うと恐らく少なからずの人がそういう風に解釈してたのだと言う気がしますし、よく考えれば無理もない話だとも思います。私の中では只々一生懸命に聞いてカメラを回してただけで、彼らの背後にあるその感覚は、実際に現場でわかってなかった。「そんなことまで言っちゃっていいの」とこちらが心配するぐらいだったですが、制作者としては願ってもない事だったです。だから、こっちが色々無理を押して入り込んだなんて感覚はなかったです。

レイコ:街頭インタビュー以外はすべて、アポを取って、映画の主旨と質問の概要、それとまずはアメリカで放映だろうがその後のことは未定、ということを事前に電話か文書で伝えた上での取材でした。例外は尼僧学院の先生達のインタビューで、結果的に隠しカメラ撮りになった部分に関しては、何年も使うべきか否か迷いました。でも色々考えた上、残すことを選びました。被写体/作り手の構図が表面上抜けた一瞬の隙に、ある本質が現れていたと判断したから。彼女たちとは連絡を取っており、快くは思われていませんが、納得はしてくださっています。今回の作品では、被写体との関係の複雑さを思い知らされました……誠実にやっているつもりでも、メディアには力がありますから公平ではありませんし、かと言って被写体を喜ばすために作品を作っているのでもなく、何のために,誰のために,何の権利で、というのは絶えず考えているし、これからも考え続けると思います。

Q:監督として、お客様にここを観ていただきたい、このことを知ってもらいたいということがありましたら教えてください。

レイコ:作品に表れていなくて見た人が不思議に思われる点として、2人でやっているのに私の女性としての視点が前面に現れていることなどがあると思うんですけど、これは今回はマックスが作品のためにはその方がいいと判断して、音楽以外の部分では私に自由に表現するように励ましてくれたからできたことです。これじゃあ言いたいことが伝わっていないよ、という感じで、理解者である彼が共同監督/観客/作曲者という帽子をその都度かぶり替えてアドバイスしてくれました。作品によって適した視点というのがあるはずだし、それを2人が協力して、また他の映画仲間の力も借りて作るという映画作りができたことは、ありがたいことだなあ、と思ってます。

マックス:人それぞれが好きなように感じてもらえばそれでいいのですが、敢えて「これを感じてほしい」といことを言わせてもらえば、尼僧さんとか仏教とか特別な世界のこととしてだけ捕えるのでなく、貞純さんの生き様を見て、それぞれのオーディエンスの方が、性別、職業、環境、を越えた所で「自分が存在する空間で自分らしく幸せに生きる」ということが自分にとってはどうなのか?を考えるきっかけになってくれればいいなと思います。もう一つ、これは言わないとわからない様な事なので大きな声で言いたいですが(笑)、この映画の音楽(注 共同監督であるご本人が音楽も担当)は、通常のドキュメンタリーに限らずフィクションの映画でもよく見られるような、“後付け感情移入盛り上げ役、雰囲気作りのお化粧役“に徹したモノではなく、撮影段階から撮影時の原体験で得た作品の内在的テーマを音的にテーマ化するという作業をして、編集段階でも積極的にストーリー・テリングにからめる、というアプローチを取っています。私自身のマックスという名の由来でもあるエンニオ・モリコーネ(作曲家)、セルジオ・レオーネ(監督)コンビの「Once upon a time in America」などの音、映像、ストーリーの総合芸術としての映画作り(脚本を書いてる時から同時にテーマ音楽を作り、時にはその音楽に合わせてシーンを撮影する等)と言うものに非常に影響を受けてるので、「ドキュメンタリー」というところで形態は違えど、基本的には同様な気持ちでトライしてみたかった……今回の映画の“音楽”である貞純さんのお経や他の人達によるお経、様々な背景と個性を持つお経がこの映画の音楽的基盤になっているので、それを基にして現場での僕自身の撮影体験を入れ込んで独自の旋律を決めていきました。それをレイコの言語と映像によるストーリテリングに、時には同調したり、時には反発したりしながら、あちこちに散りばめていった。思想背景的に違う音楽テーマ(旋律だったり)が物語の進行具合によってくっついたり離れたりというところが、実はいろいろあるのですよ。映画を見るために必ずしも知っておく必要のない事ですが、気付いてくれれば嬉しいなと思います。まあ、2回目とか3回目に見る時があれば(笑)、今言葉で説明しているわかりずらい事がハッと聞こえて来ます、きっと。

Q:最後にこの映画の日本での公開予定と、監督の次回作の予定がありましたらわかる範囲でおしえてください。

レイコ:11月28、29日に岡山映画祭のクロージング企画として岡山デジタルミュージアムで上映されます。その後の展開は、劇場配給を手伝ってくださりそうな方とも今相談中なのですが、できれば来年私たちが日本にいられる時に合わせて、予定を立てて色々な地域で見ていただけるように頑張って行こうと思っています。DVDは私たちのサイトの他、ビデオアクト(http://www.videoact.jp/)、アムキー(http://amky.org/)でも配給されています。
次回作は、今度はマックスがメイン・ストーリー・テラーで、日本人の私たち皆にとってものすごく大切な題材です。2年前に彼の両親の家を掃除している時に、13年前に亡くなった彼のお父さんが、東京裁判で「スパイ学校」と言及された、少数精鋭の青少年のための特別南方アジア言語訓練学校を日米開戦直前に卒業し、何らかの目的でアジアに派遣されていたことがわかったのです。その学校、またその設立者である大川周明博士という人物を調べるうちに、私たちが戦後平和教育で習わずに過ごして来た近代日本史の驚くべき片鱗が見えてきました。作品では、彼のお父さんの語られなかった軌跡を追いながら、戦後日本人のアイデンティティに大きく関わるテーマを掘り下げます。

Q:次回作、お話をきくだけでもすごく興味がわいてきます。これからもお二人の息のあったコラボレーションを期待しています。

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(取材:泉)
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