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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

(2003.11.28掲載)

『TAIZO』記者会見

11月25日 特派員協会にて

司会は協会長、記者側にも数人の外国の方が見え、少し年配の男性通訳が同席。 中島多圭子監督、奥山和由プロデューサーと並んで 佐賀県武雄市から上京された一ノ瀬信子さんが着席。

英語で司会者挨拶 壇上の3人と映画の主人公、一ノ瀬泰造のプロフィールを紹介。

一ノ瀬信子さんご挨拶

 泰造の母です。初めての経験なので、胸がドキドキして満足に話せないかもしれません。 どうかよろしくお願いいたします。

 泰造といえば少年時代のことが忘れられません。まだ幼稚園に入る前、 姉の園児服を着て畳の縁を線路に見立てて汽車ごっこなどして遊んでいたときでした。外で姉2人が男の子に追いかけられて泣いているのが聞こえました。泰造ははだしで外へ走り出て、 自分よりも大きなその男の子につかみかかって行きました。6年生くらいだったのでしょうか、 泰造が見上げるようなその大きな子に投げられてはまた向かって行き、手をつかんで離しません。 姉たちが危機に瀕したとき、男の子として守ろうとの意識が強かったのでしょうか。 私が大きな声で言ってもきかず、相手の子がポロッと涙をこぼしたのを見てやっと離れました。 その時この子は将来手強い子になるな、とドキリといたしました。

 泰造は2面性があるというのか、そんな風なやんちゃ坊主だったかと思えば、坊ちゃまのようにおすましして先生にご挨拶したりというところもありました。

小中高と様々な逸話を残して、大学は念願の写真学科に進みました。 4年間写真一筋にまい進したのは残されたフィルムが如実に物語っています。 本当に大変な生活だったと思います。 3年のときに帰宅して、私に言ったことが 「人間というものは、夢に向かって命を賭けられるか、勇気を持ち続けられるか、 人を差別なく愛し続けられるかどうかが大事なんだ」ということでした。 たくさんの方々から泰造の話を伺いました。泰造は「自分の思ったとおりに生きぬいた」 と言っている気がします。彼の一生については「えらかったねぇ」と、小さな子供みたいですが、 言ってあげたい、そんな風に思っております。

 カンボジアに入ってからは、アンコールワットを目指しての泰造の苦心の跡が見えます。 最初は名誉と金と、やってやろうという気でいたと思います。ベトナムに行っても、 アンコールワットを撮りたいとそればかりでした。綴ってきた手紙を見ますと、 メコン川を2度目に渡る頃には肉体的にも精神的にも成長したのが見てとれます。 写真も成長著しく、人間対人間の心のこもったものとなっています。

 日記もいただいてから幾度も読み返しました。泰造の心にあったのは、村人に会い、 クメール・ルージュに会い、アンコールワットの壮大さ、素晴らしさ、 平和についても話しあいたいという思いだったろう。 「テンオックネァ、タウプティヤ(もうみんな家に帰ろー)!」 と声を大にして言いたかっただろうと信じています。泰造が26歳で亡くなって30年になりますが、 全国の皆様からの激励のお言葉ありがたく、嬉しく思っています。私共を「お父さん、お母さん」 と呼んでいただきました。有難うございました。

ここより質疑応答

会場から声が上がらず、 司会者「質問がないくらい信子さんが全てお話してくださったということでしょうか」

Q これまでの映画と今日の映画の違いは?

監督 :今まで2本作られ、これが3本目です。映画には全く素人の人間が初めて監督をすることになりました。 とにかく、泰造の思いを伝えたかった。命がけでアンコールワットの一番乗りを狙ったその理由は何だったのか? 沢田教一のように社会的に認められた人は既にいました。 泰造はそういった意味でのヒーローではありません。今も世界中で争いがあります。 職業ジャーナリストとしての泰造より、1人の人間として違いを認識することを大切にした、 クメール・ルージュともコミニュケートしたいと思った、泰造の人間に対する愛情をこの映画で伝えたいと思いました。

Q カンボジアではひどい虐殺が行われました。その記録を残したいという動きがありますが、 監督は政府と何らかの交渉をされましたか?

監督 :スタッフもなく、私1人でしたので全く観光客の1人のようでした。政府との交渉もありません。 カメラを持って現地の人と話し、取材をしました。 話を聞いてみると、誰かがポル・ポト政権時代の犠牲になっていました。 当時隣人からも密告の恐れがあったのが、今でも不信感に繋がっているという人もいました。 泰造はクメールの犠牲になった1人ですが、彼が信じていた愛や希望は消えていないと思います。

Q お母さまはカンボジア、アンコールワットには行かれましたか?

一ノ瀬 :1979年にポル・ポトが追放され、その後に泰造の墓があるとの話がちらちらとありました。 私たちは絶対に死んでいない、と信じていましたが、82年1月〜2月にカンボジアを訪れ、 泰造の遺骨と対面いたしました。私は遺骨に覆い被さって、 誰の目にも触れさせたくない思いもありましたが、泰造が 「父さん、母さん、俺の死に様を見てくれたかい」 とカンボジアの輝く日の光を浴びながら言っているような気がしました。 アンコールワットが西日を受けて黄金のように輝いて美しく、 そのそばに眠ることができて泰造は幸せだと思います。

Q (お母さまへ)没後30年にこのような映画ができた率直なご感想をお聞かせください

一ノ瀬 :夫と二人で泰造の写真集を作ろうと言っていたのに先立たれて気を落としていたときに、 中島さんがたびたび訪れて励ましてくださいました。「お母さんは写真を焼いて下さい、 私はそれを撮ります」と言われ、私は私、中島さんは中島さんと互いに勝手にやってて出来ました。 今思えばもうちょっと服をちゃんとすれば良かった、とか思いますがやり直しはききません。 年々身体が衰えているので、良い記念になり、我が家の宝となっています。

Q (奥山氏へ)前作も確かプロデュースされましたが、 2作目は何故新人の中島監督を起用したのですか

奥山 :中島さんを初めて知ったのは、キャスターを辞めて泰造の足跡を追っているころです。 私はドキュメンタリーの監督の条件は二つあると思っています。
1 対象に鋭い興味を持っていること
2 対象に強い愛情を持っていること
彼女にはこの二つを感じました。金の無いわが社でありますので、今回監督はノーギャラです。 幸いなことに撮影中に結婚して、生活は支えられることになりました(笑)。監督の粘り強さ、 ゆるぎのなさに感心しています。唯一の欠点は見てくれが良すぎること。 美人過ぎて監督に見えません。現場では見違えるように汚い格好をしていたようですが。 今回映画を撮るにあたり、(泰造の)お母さんと寝食を共にし、お風呂洗いまでやったそうです。

司会 素晴らしいお話をたくさん有難うございました。

  *   *   *   *   *

 お母さまの信子さんは既に80を過ぎ、二人の娘さん、 お孫さんにつきそわれて車椅子で登場されました。 映画の中より一回りも小さくなられた感じがしました。撮影を始めてから2年余り経っています。 初めこそ緊張したご様子でしたが、受け答えがすばらしいのは読んでのとおりです。 最愛の息子を送り出してから幾度も幾度も考えたこと、 感じていたことがことばになってあふれているようでした。

 無鉄砲とも言える泰造の行動ですが、夢を持てないでいる人の多いこのごろ、 その熱さが私たちをひきつけてやみません。また一方、 胸がつぶれる思いで息子の無事を祈る家族がいたことを忘れないで、と映画は語っている気がします。 エンドロールに思いがけず、泰造の歌が流れました。 遺品の中からお母さまが見つけたテープだそうです。いつどんなときに吹き込んだのか、 まっすぐに遠くを見つめる若い泰造の姿が見えるようでした。

書簡、写真集など

『地雷を踏んだらサヨウナラ』一ノ瀬泰造 講談社文庫(1985.3)
『もうみんな家に帰ろー!』一ノ瀬信子編 窓社(2003.6)

http://www.teamokuyama.com/taizo/index.html
映画『TAIZO』の上映地域アンケートあり

『TAIZO』チラシ
『TAIZO』
制作・配給 チームオクヤマ
©2003映画『TAIZO』製作委員会

『TAIZO』作品紹介

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(取材:阿媽)
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