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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

(1)[泥沼化するパレスチナ情勢・・・今ぜひ見て欲しい!『プロミス』作品紹介]
(2)[5月28日 プロミス特別試写会 監督トークショー レポート]
(3)[5月30日 監督インタビュー レポート]

『プロミス』特集

映画『プロミス』 共同監督 B.Z.ゴールドパーグ氏とカルロス・ボラド氏に
シネマジャーナルが直撃インタビュー!

インタビュー取材の会場に入るとB.Z.ゴールドパーグ氏(以下BZ、写真:左)カルロス・ボラド氏(以下カルロス、写真:右)両監督はリラックスした雰囲気でにこやかにの私たちを迎えてくれました。シネマジャーナル(以下シネジャ)のバックナンバーを監督2人に渡すと、まずはCINEMA JOURNALのロゴのCの文字の三日月のデザインに興味を示した2人。
「”女が作る映画誌”なんですよ。」という説明に「女性は月、男性は太陽って例えられる国が多いけど日本でもそうなんだね・・」そんな会話からはじまって、そろそろ本題に入ろうかという時には取材班の用意したカセットテープレコーダーのマイクの位置を直してくれて二人のやさしい心遣いある一面を垣間見ました。

ー BZさんと、カルロスさんそしてジャスティーンさんの3人が『プロミス』プロジェクトを共同監督することになったいきさつを簡単に教えていただきたいのですが、まずはBZさんとジャスティーンさんはどのようにして知り合われたのですか?またこのドキュメンタリー映画を作ろうということになったいきさつについてもお話ください。

BZ: かつてジャスティーンのお母さんと僕は同じ会社に勤めてて、ジャスティーンの妹と僕がつきあってたことからジャスティーンとは1994年に知り合ったんだ。そして、その後、ジャスティーンと僕とは何かドキュメンタリー映画を作りたいなって話になったんだ。それで、どんな題材をとりあげようかっていうのを探し始めた。ジャスティーンも僕もユダヤ人だし、ジャスティーンはTV番組”LONELY PLANET”の仕事でイスラエルに取材に行ったことがあって、パレスチナ人やパレスチナの子どもたちに関わる経験があった。それに僕は特にこどもの頃イスラエルで育ったってこともあったし、その後、ジャーナリストとしてイスラエルで過ごしたこともあった。それで、イスラエル・パレスチナの地で映画を作ろうってことになっていったんだ。実を言うと、映画を作れば容易にお金を稼げるかなって思ったのがこの映画を作ることにしたひとつの理由でもあった。だけど、映画を作り始めて、思ってたよりそんなに簡単なものじゃなくて僕らの考えは浅はかだったって気づかされたよ。実際映画作りには時間がかかった。ドキュメンタリー映画作家にとっては特にその題材が情熱を傾けられるような意味深いテーマ性を持つものである必要があると思うな。映画を長期間にわたって製作していると資金的な支援が止まることもあるし、さまざまな障害が生じることもある。そんな危機に直面した時も強い情熱を傾けられる題材であればそれを乗り越えることもできると思った。いろいろとテーマを考えた中でイスラエル・パレスチナの子どもたちの問題が僕らにとって一番情熱をもって取り込める題材だったんだ。

B.Z.ゴールドパーグ
B.Z.ゴールドパーグ 撮影:かげやまさきこ

ー カルロスさんはユダヤ人ではないということである意味部外者であることから、ジャスティーンさんの意向でメキシコ人であるカルロスさんに『プロミス』の共同監督として声を掛けられたのでしょうか?

カルロス: 部外者だから客観的な意見をもてたっていうのは確かだね。それと実は僕は政治的に第三世界の社会主義者、無政府的社会主義者の立場でもあるんだ。イスラエルにはあるとき招待を受けて訪れる機会があって、その時に何か自分にできることはないかと思った。そして、その後、このドキュメンタリー映画『プロミス』の製作の仕事に携わるようになって、僕の見解もいろいろと映画作りのプロセスの中で述べていったし、数年に渡ってイスラエル・パレスチナの地を撮影のために訪れるうちにだんだん深くこのイスラエル・パレスチナの子どもたちの問題に深く関わることになっていったんだ。それと実は『プロミス』の撮影期間中にジャスティーンと僕は婚約し、結婚してずっと一緒にいることになったしね。

BZ: そう、ジャスティーンとカルロスは結婚してるんだよ。

ー あら〜、そうだったんですか。

BZ: ジャスティーンはカルロスにこんな風に言ったんだよ・・・「ねえ、カルロス、イスラエルに私といっしょに一緒に来ることはできないかしら?」

カルロス: そして僕は、「え〜〜っ、そんなこと言われても、わかんないよ。」って言ったんだけど・・・。

BZ: すると、ジャスティーンが、「お願いだからいっしょに来て映画作りを手伝ってよぉ〜、カルロス」って頼んだんだ。それでもカルロスが「いやぁ、わかんないよ〜」っていうとさらにジャスティーンの「カルロス、そんなこといってもだめ。あなたはいっしょに来るのよ。」っていうひとことでカルロスのイスラエル行きが決まったんだ。

ー カルロスさんとジャスティーンさんは、もともとどういうきっかけで知り合われたんですか?

BZ: さっき話し忘れたんだけど、ジャスティーンは実はハリウッド女優だったんだ。10年間もね。女優としてもだんだん成功していい映画に出演するようになり、いい役もついてきたんだけど、彼女はハリウッドの映画業界ってところがどうも好きになれなかったんだな。監督が彼女の役柄への演技に対してあれこれ言ってきて、彼女自身の考えをなかなか通してもらえないっていうのにも嫌気がさしてきていたんだ。そして、彼女は女優をやめることにし、「私はロスを離れて、ドキュメンタリー映画を作りたいの。」って言うようになったんだ。そして、サンフランシスコに引っ越し、ドキュメンタリー映画を作り始めた。

カルロス: ジャスティーンはサンフランシスコのベイエリアに引っ越して、ドキュメンタリー映画を作る勉強のためにいくつかの授業を受けたんだ。そして、別のドキュメンタリーのためのリサーチャーの仕事を始めた。そして、同時に、TV番組LONELY PLANETの仕事も始めた。でも、彼女は今度は女優としてっていうんじゃなく、番組の中でインタビューしたり、さまざまな場所のことを紹介する立場で出演することになった。

ー カルロスさんは、ジャスティーンさんが女優をやめてドキュメンタリー映画を作り始められたときに知り合われたってことですね。

カルロス: TV番組LONELY PLANETの仕事でジャスティーンがエクアドルで取材したときにそのプロデューサーの1人が僕の友達で、LONELY PLANETのエクアドル取材の番組製作を手伝ってくれないかって僕に頼んできたんだ。それで1994年にエクアドルに行く事になった。ちょうど彼女が女優を辞め、サンフランシスコに引っ越し、ドキュメンタリー映画を作り始めた時期だったね。

BZ: ジャスティーンとカルロスはLONELY PLANETの番組の中のガラパゴス諸島での取材で、他の取材班のメンバーといっしょに小さな船に乗ってたんだよ。そしたら、ジャスティーンとカルロスの2人だけが船酔いしちゃってその船のキャプテンが、船の屋根裏部屋のようなところに2人を連れて行ったんだ。そして、扉を閉めた。そう、小部屋にジャスティーンとカルロスが2人っきりになっちゃったんだよ。

カルロス: そうなると、僕はメキシコ人だからその血が騒いじゃったんだ。(笑)

ー 目の前にいるジャスティーンがすごく美しかったからかしら?

カルロス: そうだよ。僕はもうすぐに愛の歌を歌いだしちゃったね。”Oh、ミ アモール♪”って感じでね。(笑)

ー イスラエル・パレスチナ問題の部外者であるメキシコ人のカルロスさんが、共同監督の2人ということで、特別にそういう第三者的な見方をできる方を探されたのかなって思ってそのいきさつをお聞きしたんですけれど、意外にもカルロスさんとジャスティーンさんのラブロマンスの始まるきっかけまでお聞きしちゃうことになりましたねぇ。いやいやそういうことだったんですかぁ。

カルロス・ボラド
カルロス・ボラド 撮影:もうりなちこ

ーー ところで『プロミス』を撮影するときに共同監督の3人がそれぞれ何か特別の役割をもったってことはなかったんでしょうか?

カルロス: それは特になかったよ。

BZ: 僕等はいつも一緒に行動してたんだ。違いといえば僕がヘブライ語を話せたってことくらいかな。

カルロス: カメラで撮影したり、インタビューしたり、音楽を入れたり、車を運転したり、3人とも同じ役割でその時々に担当してたよ。

ー 子どもたちに接する時には心理的に何か特別なアプローチの仕方を使ったりしたんですか?

BZ: それはなかったね。人として自然に接しただけさ。先生みたいに・・・とか特別な心理的アプローチの手法なんて使ったら、子どもたちにはすぐわかっちゃうし、そういうのは子どもたちは嫌うからね。

ー お互いを知ることが平和共存への糸口というメッセージを映画から感じましたが、ファラジと双子の兄弟ヤルコとダニエルの交流は、撮影していくうちに偶発的に実現したものなのか、それとも仕組んだものだったのでしょうか?

カルロス: いやいや、仕組んでなんてとんでもない。自然にそうなったんだ。

BZ: まさにあの映画のとおりにね。子どもたちが子どもらしさをそのまま出してくれた中であんな流れになったんだよ。

カルロス: ”シネマ・ヴェリテ”っていうドキュメンタリー映画の手法ってわかるかな?1960年代にフランスの映画監督によって生み出されたんだ。

BZ: 映画『プロミス』はこの”シネマ・ヴェリテ”の手法を使って作ったから、より劇的で、エキサイティングで、話の先が予測できないドキュメンタリーになったんだ。観客をあっと驚かせるような素晴らしい展開が起こったんだよ。ホントに自然のままに子どもたちを追っていったら彼らが実際に会って交流することになったのさ。

ー 共同監督の3人のみなさんはそういう展開になることを期待していたんじゃないですか?

BZ: 違うよ。期待はしてなかったね。作り手がそういう風に期待したりすべきじゃないな。もちろん彼らが直接会って交流するってことが起こったら、おもしろいし、劇的だしすごいよなぁとは思わないこともなかったけど、ふつうはパレスチナの子どもとイスラエルのユダヤ人の子どもが会って一緒に遊ぶなんてことは絶対にないことだからね。僕等が作ってるドキュメンタリー映画っていうのは”ハリウッド映画”じゃないんだからそういう実際に有り得ないようなことを映画にしようなんて思ってなかったよ。よりリアリティある映画を作りたいって思ってたから、そういう”期待”っていうのは持たなかったね。

B.Z.ゴールドパーグ B.Z.ゴールドパーグ
B.Z.ゴールドパーグ 撮影:もうりなちこ

ー イスラエルのユダヤ人とパレスチナ人では言葉がお互いに通じないから交流が難しいってことがあると思うんです。私が聞いた話ではユダヤ人はアラビア語を学ぼうとする人はほとんどいないってことらしいんですが。BZさんはヘブライ語だけでなくアラビア語も流暢にお話になりますよね。両方ができたからこそ、双方の取材が可能だったと思いますが、BZさんは、アラビア語をどういうきっかけで、いつ、どこで学んだのでしょうか?

BZ: ユダヤ人もアラビア語を学ぼうとはしないっていうのは確かにそうだけど、パレスチナ人もヘブライ語を学ぼうとはしないよ。

カルロス: でも、工事現場で働いているようなパレスチナ人はヘブライ語を話すよ。

BZ: まあそうだけど、それは極々限られたパレスチナ人だけだよね。それにしても僕はどうしてアラビア語をはじめようって思ったんだっけなぁ・・。

カルロス: 僕等がこの映画を作ろうって決めたころじゃないの?

BZ: 違うよ、カルロス。僕がアラビア語を勉強し始めたのは中学校に通ってたころだよ。放課後になんかひとつの科目を勉強しなきゃいけないってことだったんじゃないかな。でも、はっきり覚えてないんだよ、どうして始めたのかっていうのはね。ただ勉強しようと思ってたってことだけしか思い出せないんだよ。それからまた僕は1988年頃、ジャーナリストとしてイスラエルに住んでたんだけどエジプトに行きたいってその頃思ってたんだよね・・・確か。それなら、アラビア語を勉強するのはいいんじゃないかって思ったんだよ。僕は、アラビア語を勉強しないなんてイスラエルの我々ユダヤ人はなんてばかげてるんだろうって思ったね。そして、パレスチナ人もヘブライ語を勉強しないなんてそれもまたばかげた話だなとも思った。そして大学に行って「アラビア語を習いたいんだけど・・・」って尋ねたんだ。そしたら、「文語アラビア語のクラスならあります。月曜日と木曜日に授業がありますよ。」ってことだった。でも、僕はそんな実用的じゃないアラビア語は学びたくなかったんだよ。人と会話もできないアラビア語を学んだって仕方ないって思った。「僕は実用的アラビア語会話を学びたいんです。」って言ったんだけど、そういうアラビア語はアカデミックじゃないから大学では教えないっていうんだよ。その後そうしたアラビア語教育事情にも変化があって、大学の成人教育ための夜のクラスでアラビア語会話を学ぶことになったんだ。それからエジプトにアラビア語の会話を練習するために行ったりもしたよ。

B.Z.ゴールドパーグ カルロス・ボラド
B.Z.ゴールドパーグ カルロス・ボラド 撮影:もうりなちこ

BZ: そして、この映画を撮ることになってからはアラビア語会話練習用のオーディオカセットテープを購入して勉強したんだ。車の中でもテープをかけて実際に声をだして発音練習をしたものさ。まあ、それはそんなに上達に役にたったとは言えないけど、子供たちもアラビア語で話し掛けてきてくれたからそれは会話の上達の助けに大いになったね。ヘブライ語とアラビア語の単語って似てるんだよ。だからパレスチナの子どもたちの話すアラビア語を聞いて、「あ〜(意味が)わかる、わかる!」ってことがよくあったよ。

ー 文法的にも、とても近いものですよね?

BZ: ”とても”っていうのはどうかなぁ?!

カルロス: ルーツが同じってことなんじゃない?

BZ: そうそう、ルーツが同じなんだよ。だからたくさん似てるところがあるんだ。アラビア語もヘブライ語も互いに単語を借りてきて使ってる。

ー ・・・というのもかつてはパレスチナの土地で共存して暮らしてきたから、言葉もお互いの単語が入り組んでるってことなんでしょうか?

BZ: そうじゃなくて、僕はね、より現代的な次元で単語を互いに借りあってるって話をしたいんだよ。これまで、パレスチナ人もユダヤ人もこれまで長い間お互いに親しくしてきたっていうことはないし・・・

カルロス: ヘブライ語ってもともと宗教的言語だったし、会話の言葉として使ってたわけじゃないよね。19世紀にシオニズムが起こって、古典語ヘブライ語を現代語として復活させる運動が始まった訳でしょ。

BZ: ヘブライ語は会話の言葉として使われるようになってからは170年くらいの歴史しかないってわけだよね。

カルロス・ボラド カルロス・ボラド
カルロス・ボラド 撮影:もうりなちこ

カルロス: ラテン語はさまざまな言語の語源になっていてアカデミックな意味で重要な言葉だし、インドのサンスクリット語も宗教言語として今も存在してるけど、今は話し言葉として使われてる訳じゃない。でも、ヘブライ語っていうのは古典的宗教言語をシオニズムの運動によって割と最近になって話し言葉として復活させた言語なんだってことを思い起こしてほしいんだ。

BZ: そんな訳で、まさに今を生きるパレスチナに住むユダヤ人やアラブ人がヘブライ語とアラビア語の間で言葉を借り合っているんだけど、そのいくつかの例が映画『プロミス』の中でも出て来るんだよ。ユダヤ人の双子の兄弟ダニエルとヤルコがパレスチナ人の少年ファラジと電話で会話してた時のシーンを思い出してよ。ファラジが”マハスム”って言葉を「検問所」を示す言葉として使ってたでしょ。アラビア語ではホントは”バハスム”っていうんだけどそれはもともとはヘブライ語だったんだよ。現地でパレスチナ人が使う「シークレットサービス」を意味する”シャバク”って言葉も、もともとはヘブライ語なんだ。その他にもいろいろあるんだよ。

カルロス: ヘブライ語とアラビア語が影響を受け合ったり単語を借りあったりしてるっていうことがよく分かるでしょ。

ー 世界各地で映画『プロミス』は上映され、イスラエルでも映画とテレビで上映されましたが、上映後の反応はいかがでしたか?

BZ: さまざまな違った政治的立場の人たちも見てくれたけれど、その殆どがいい反応を示してくれたよ。とても感動してくれて、反応の99%がとてもポジティブなものだった。まあ、例外もあったけど。

ー 右派のユダヤ人も見てくれたんですか?

BZ: まあ、見てはくれたかもしれないけど、映画『プロミス』が彼らにとってのトップ10入りするような映画っていう訳じゃなかっただろうし、ベスト1の映画にはなり得ないけどね。いくらかの右派の人たちはいい評価をしてくれたよ。

カルロス: まあもちろんそんな映画は見ないっていう右派の人もたくさんいたね。主たる観客じゃなかったことは確かさ。

BZ: バスツアーでも組んで彼らが『プロミス』を観にいこうなんてことになるわけもないしね。

B.Z.ゴールドパーグ B.Z.ゴールドパーグ
B.Z.ゴールドパーグ 撮影:もうりなちこ  かげやまさきこ

BZ: 右派のユダヤ人が『プロミス』なんて評価しないって言ったっていう話はたくさんあったのは確かだけど、中にとても興味深い話を聞いたんだ。ある知り合いのユダヤ人の女性がお姉さんを『プロミス』の上映に連れてったんだってさ。そのお姉さんっていうのがまたコチコチの保守的な右派らしいんだけど、映画を見てて突然、パレスチナ人のファラジが短距離走で負けるところでしゃくりあげる感じで泣いちゃったらしいんだよ。その後、彼女は混乱したらしいね。「なんで、私がパレスチナ人の少年がレースに負けたからって泣いちゃったのかしら」ってね。政治的意見を超えて彼女の心の琴線に触れる何かがあったんだろうね。

ー アメリカでもあちこちで『プロミス』は上映されたと聞いています。在アメリカのユダヤ人やイスラム教徒の人たちもたくさん見てくれたと思うのですが、その反応について教えていただけますか?

BZ: アメリカのイスラム教徒の反応のほとんどは、ものすごく肯定的なものだったね。ひとつ、悪評もあったけど・・・。それにはね、こう書いてあったよ。「我々はユダヤ人が作ったこうした映画でなく、何人かのパレスチナ人の映画監督の例を挙げて、パレスチナ人が作った作品を観なければいけない」ってね。ジャスティーンと僕はユダヤ人だけど、多くの人たちが、ユダヤ人によって『プロミス』のような映画が作られたってことに驚かされてたね。多くのアメリカのユダヤ人は『プロミス』を気にいってくれたよ。映画からひとつの未来への新たなるチャレンジを感じたって言ってくれる人たちもいた。保守的な右派のユダヤ人の中には、”パレスチナ人の子どもたちがでてるような映画なんてみたくもない。”っていう人もいたけどね。

カルロス: サンフランシスコやバークリーで『プロミス』を上映したときは観客の中には、パレスチナ人もイスラエル人もユダヤ教徒もイスラム教徒もいろいろ混じってて、上映後の質疑応答・ディスカッションの時にはお互いの意見を述べ合い、交換し合ってくれてとても興味深かったよ。

B.Z.ゴールドパーグ カルロス・ボラド
B.Z.ゴールドパーグ 撮影:もうりなちこ  カルロス・ボラド かげやまさきこ

ー 第74回アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門にノミネートされ、授賞式に参加するためにアメリカに渡ったサナベルちゃんは、受賞しなかったために、準備していたスピーチは皆の前で話せなかったけれど、100位のメディアからのインタビューを受けて、それを上手にさばいていたと聞きました。特に興味深いエピソードがあれば教えてください。

カルロス: サナベルは将来パレスチナ自治政府議長になりたいって話してたりしてたね。

BZ: サナベルってなんかカリスマ的なものを持ってるんだよね。彼女はね、みんなに自分の話を聞かせたいって思ってたんだ。マスコミにも一般の人たちにもね。サナベルはアカデミー賞のために渡米した後、パレスチナに帰れなくなっちゃってアメリカにしばらくと留まらないといけなくなったんだ。パレスチナの境界線は封鎖され、混乱を極めていたので危険を避けるためにね。彼女はアメリカであちこち移動する時にたとえば空港や飛行機の中で、または浜辺でパーティをやったときなんかに、いろんな人に話し掛けてたよ。たとえばこんな風にね・・・。まずは「こんにちは」って自分から話し掛けていくんだけど、相手が応答してくると、「ごめんなさいね。私、わからないわ。ここの出身じゃないから。」って言うんだよ。そうすると相手は「えっ、そうなの、じゃあどこからきたの?」って聞いてくるから、「私はパレスチナ人なの」ってサナベルは答える。そして、相手はまた、「ここに住んでるの? それともちょっと滞在してるだけの?」っと聞いてくる。するとサナベルは「どっちでもないわね。私はここに引き留められちゃってるのよ。私はアカデミー賞の授賞式のためにアメリカに来たのよ。なぜなら私は映画に出演してて、その映画はアカデミー賞にノミネートされてたの。でも、今はパレスチナのおうちに帰れなくなっちゃてるの。なぜかっていうとイスラエル軍がね・・・・」
って具合にあちこちで1日中話し掛けまくっていたよ。

カルロス・ボラド
カルロス・ボラド 撮影:もうりなちこ
もし第74回アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門を受賞したら僕等じゃなくてサナベルと双子の1人のダニエルにスピーチをしてもらおうって思ってたんだよ。サナベルはこう話す予定だった。「私はパレスチナ難民です。みなさんがご覧のように私には手もあり、足もあり、精神があります。あなた方と同じように。」そしてこの精神を意味する英語”Spirit”って言葉をサナベルはわざと、S”b”iritってわざとpをbにして発音したんだよ。なぜかっていうとアラブ人はPのかわりにBの発音をするからね。まあ、例えば、Palestineのことを”B”alestineとか、JapanのことをJa”b”anとかって・・・。そしてサナベルは続けた「私たちがほしいのは正義と真の平和だけです。」彼女はインタビューされるときはこのフレーズをいつも言ってたよ。そしてサナベルは言葉を続けた。「私たちはイスラエルの占領にうんざりしてるんです。」ってね。

ー イスラエルで撮影しているときに何か妨害のようなものはなかったのでしょうか?

BZ: なかったよ。

カルロス: ちゃんとプレスパスもイスラエル軍やイスラエル政府からもらってたし、パレスチナ側のプレスパスももらってた。検問所ではそれぞれに見せてたよ。こうしたきちんとした許可をもらってイスラエルでのさまざまな規則にしたがって行動してたから特に問題は起きなかった。それと僕等が『プロミス』を撮影してた時期は比較的平和な時期だったからってこともあるね。だから、あちこち移動しやすかった。そして当時はCNNや、NHKのようなメディアがたくさんカメラを持ち込んで取材していたので、僕等がカメラを持ち込んで撮影していてもさして特別視されることもなかったね。

ー 早くパレスチナに平和な時が訪れてほしいと皆が願っていると思いますが、映画『プロミス』をもっと多くの人が見てお互いを知ることの大切さを世界の人が感じてほしいなと思っています。BZさん、カルロスさんありがとうございました。

シネマジャーナル56号にダイジェスト版が掲載されています。

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(取材:かげやまさきこ、もうりなちこ
まとめ:もうりなちこ 写真:かげやまさきこ、もうりなちこ)
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