女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
27号   pp.41--48

映画評


  『魅せられて四月』平凡な主婦の一大決心物語
  『月光の夏』
  『少年、機関車に乗る』
  ベトナムを舞台やテーマにした作品について
  映画じゃないけど『ミス・サイゴン』
  ひさびさミーハー鑑賞記および“とーく”の補足


魅せられて四月

平凡な主婦の一大決心物語

佐藤

 ここのところ旅に飢えているので、内容はともかくイタリアの景色がみたいなーとか、 プロバンスの雰囲気にでも浸ってくるかって調子で映画館に足を運ぶことが多い。 だから、思ったほど、どーってことない映画でもそれを満たしてくれると、心豊かに 家路に着くことができるのです。

 この映画はまさにその典型。家計の細かいことにまで口をだす夫を持つ平凡な (センスもよくなくあまり美しくもないので、私は労働者の妻だと思ったけど、 実は弁護士の妻だった)主婦(ジョシー・ローレンス)が、霧に込められたロンドンで 鬱々とした日々を送っている。時代は、一九三九年代。霧のロンドンと羨まし気に 私たちは言うけど住んでる人は太陽がほしいのね。

 そんなある日、彼女は「陽光と花に囲まれたイタリアの小さな城を四月いっぱい貸したし!!」 という広告を見付ける。彼女はこの広告に魅了され、頭はそれでいっぱいになる。 救世軍みたいなところにいってボランティアをしている彼女はそのロビーで、 同じ広告をじーっと見ている寂しげな女性(ミリンダ・リチャードソン)に声をかける。 実はその彼女も、子供もなく作家の夫との間になにやら亀裂が入っている、という設定。 二人は意気投合、相棒さがしの広告を出す。昔のことだし、イギリスとイタリアとはいえ 一応渡航は高価だったに違いないし、お城を借りるのも高かったんでしょうね。今でいうと どのくらいであんなお城が借りられるのかと羨まし気に見守る私は想像する。 一か月三百万?食事を作ってくれる使用人もいるわけだし、一日十万としてそれくらいかなーと想像する。 もっと高いかなー、なにしろお城なんですものね。五百万かもしれない。 『魅せられて四月』ツアーなんて日本の旅行会社が計画しそう。 今のOLはなにしろ金持ちだから。どんなメンバーが集まるかな。 おばさんを集めたら面白いドラマになるよね。

 ところで、応募してきたのは、気位の高い文学づいてるおばあさん (ジョーン・ブロウライト、この作品でゴールデン・グローブ助演女優賞受賞) とおしゃれで男にいいよられてばかりいる貴族の令嬢(ポリー・ウオーカー)。 この四人で四月のイタリアのお城をひと月すごすんです。 それぞれの夫とのやりとりなど色々あって、先発隊二人のたどりついた村は どしゃぶりの雨。よろよろと古いお城に入ってともかくも寝る。そして… 次の日、光が窓から溢れ、窓のそとには青い海がひろがり…花は咲き乱れ、 このシーンがすごいの。まさに映画です。ワワワ行きたあーい。単純に、 もろ単純にそれだけの映画。二人の主婦は、不粋な夫をこの別荘によびたがったりして (なんじゃこれ)清く正しい妻をしたがる。最初の、ふたりの魅力的な行為に比して 全然面白くない。はちゃめちゃの老婦人や令嬢の方がよっぽど楽しかった。 ま、そんな映画です。




月光の夏

神山征二郎監督作品
若村麻由美/田中実/永野典勝/渡辺美佐子/石野真子
小林哲子/田村高廣(特別出演)/山本圭/仲代達矢

宮崎暁美

 太平洋戦争末期に特攻隊として出撃していった音楽学校出の二人の若者と、 その若者たちが出撃前に「月光」を弾いたピアノにまつわる実話をもとにした話である。 私は劇場公開を見たけど劇場はがらがらで空席ばかり。 もっとたくさんの人に見てもらいたい映画なのにと思っていたら、見た人たちの共感を呼び 自主上映が各地で計画されているそうである。

 特攻隊の基地だった知覧に「特攻平和会館」があるのを知ったし、出撃したものの エンジン不調や不時着でやむなく戻った隊員たちを過酷にも監禁した「振武寮」 というものの存在も知った。

 テレビ東京のドキュメンタリー人間劇場「特攻?青春・いのち」という番組でも、 生き残った元特攻隊員が隊員たちの遺族を訪ねる鎮魂の旅を通して特攻とは何だったのか、 平和の大切さを訴えていた。この旅を続けているのが「特攻平和会館」の館長を務めた人だった。 そして驚くべきことは特攻隊の中に朝鮮人もいたという事実だった。日本の植民地だった 朝鮮から日本の大学に留学し、学徒出陣した人たちだ。当時は日本人として戦争に 荷担させられたのだ。

 この夏「七三一部隊展」が東京から始まった。七三一部隊とは日本軍が中国で行った 細菌戦の人体実験を行った部隊である。人間をマルタと呼び、人を人とも思わなかった。 日本はなりふりかまわず、人の命を犠牲にして戦争を遂行したんだなと、 あらためて思った。この「七三一部隊展」はこれから一年程日本各地をまわって、来年また 東京に戻って来るそうである。ぜひいろいろな人に見て欲しい企画展だ。

 この映画では特攻隊員の悲劇を通して、戦争の悲惨さ、平和の尊さを言ってはいるのだけど、 しかし日本がアジアに対してどんなことをしたのかということには触れていなかった。 二〜三年前に公開されたフィリピンにおける特攻隊を描いた『北緯一五度のデュオ』も、 若者の命を無駄にした特攻隊という描かれ方はしていたけど、 日本軍がフィリピンでした行為については最後にほんのちょっと出てきただけだった。

 日本人は太平洋戦争中の日本軍がしてきた行為についてあまりに知らされてこなかったと思う。 強制連行、従軍慰安婦、軍票などの戦後処理がきちっとなされてこなかったから、 戦後五〇年近くたった今になって吹き出た感がある。もっともそれは日本だけの問題ではなく、 被害を受けた国の民主化が進み、今まで押さえられていたものが言えるようになったということもある。

 アジアの映画を見ると、日本軍の残虐な行為が出てくることが多く、日本人としては とても心苦しい。日本のことを悪く描いた映画はあまり見たくないという人もいる。 でもアジアの人たちがそう思っていることの事実は受けとめなくてはならないと思う。 日本とアジアの未来に向けての関係は、いずれにせよそのことを避けては通れないのだから。




少年、機関車に乗る

曽我部

 十七歳のファルーと七歳の弟アザマットはおばあちゃんと三人で暮らしている。 兄弟は、遠くの町に住む父親に会うために貨物機関車に乗って旅に出た。 旅をしているうちに兄弟は、様々な出来事を体験する。

 駅でもないのに橋の下で機関車が停車した。

 女性から運転士に着替えや食料が渡される。

 なんと運転士の実家だったのだ。線路沿いに走るトラックと踏切まで競争したり、 峡谷を走っている時に機関車に向かって石を投げてくる少年達に出くわしたり、 沢山のポットを持って多くを語りたがらないおじさんが機関車に乗ってきたり・・・。

 細やかな列車の旅は、ファルーとアザマットの期待を脹らませます。 機関車は中央アジアの大平原を走っていく。



 初めて観たタジキスタン映画。一体世界のどの辺りに位置する国なのだろう。 旧ソ連であるとは辛うじて知っていたが、具体的なタジキスタンについての 私の知識は皆無に等しかった。パンフレットの解説では次のように書いてある。

 タジキスタンは中央アジアに位置し、世界の屋根=パミール高原の殆どを有し、 中国、アフガニスタンと国境を接している。他の中央アジアの旧ソ連民族共和国 (カザフスタン、ウズベキスタン、キルギスタン、トゥルクメニスタン) がトルコ民族であるのと異なり、唯一イラン系民族である。一九九一年にソ連が崩壊し、 タジキスタンは九世紀のサーマーン朝以来、実に千年ぶりに独立を回復したそうだ。

 監督はバフティヤル・フドイナザーロフ。本作は彼のデビュー作にあたる。 デビュー作ということもあって、本作には監督のこういう作品を作るんだという 強い意気込みと若さ(監督は一九六五年生まれ)が感じられる。

 まず映像にそれが感じられる。本作にはカラーではなくモノクロ映像(厳密には セピア・カラー)を使用している。監督は、「カラー映画だと色彩の影に 逃げ込んでしまえる」という理由で大好きなモノクロ映画にしたそうだ。 渋いセピア・カラー映像は観ている者を魅了する。雄大な高原のシーンが多い本作に セピア・カラーは実にマッチしている。

 次に音楽。わくわくさせる反面哀愁を漂わせるギターの音は、旅に出た若者たちの 内面を見事に表現している。旅の途中は、希望に満ちていたり不安になったりするものだ。 音楽に関しても監督の配慮が感じられた。

 それから役者たちの表情と会話。本作は説明的な台詞は一切ない。映像と 役者の表情や行動で映画を引っ張っている。キャスティングは素人のみを起用して、 彼らの日常会話をそのまま脚本に取り入れたこともあって、ドキュメンタリー映画を 観ている印象をこちら側に与える。この方法を用いたことで旅情ものの映画にとどまらない、 私の気持ちを揺さぶる素晴らしい作品に仕上がっている。

 会話は常にぎくしゃくしている。ある者が質問すると質問された側は、 そんな質問なんかしないでくれといった態度をとる(多少相手に気を使いながらも)。 相手の質問に答えたがらないし、自分から自分の気持ちを伝えない。 兄弟は父と会うが、親子らしいムードの交流はほんの少ししかなく、 やはりぎくしゃくしている。ここの登場人物は思いやる気持ちがないわけではない。 相手の気持ちも理解できるだろうし、自分の気持ちも表現したいのだろう。 しかし、どうしてもぎくしゃくとした態度をとってしまうのだ。

 すっとぼけた微笑ましいムードの中でこのような人間の内面を説明なしに描いた フドイナザーロフ監督の力量はすごいと思う。全体的には大雑把に撮られた作品に みえるかもしれないが、デビュー作で大切なことは、自分の撮りたいものを なんの制約も受けずに撮ることである。それをやってのけたフドイナザーロフ監督に、 私はとても魅力を感じる。

 次回作もぜひ観てみたいと思います。




ベトナムを舞台やテーマにした映画について

穂曇

 『インドシナ』は良くも悪くも、フランスの旧植民地ベトナムに対するノスタルジーを 描いた映画だったとは思う。しかし、それだけではなかったから 日本でも二〇数週間にわたるロングランだったのかもしれない。 でも前半はやはり旧植民地へのノスタルジーを感じて、私はムカムカしながら見ていた。 「男と女」「山と平野」に引っ掛けて「フランスとインドシナ」を離れがたいものと言ったり、 フランス帰りの青年に「フランスで自由と平等を学んだ」と言わせるセリフには フランスによって自由と平等を奪われたんじゃないか! とフランス人の思い上がりに 辟易してしまった。

 でも後半、もう一人の主人公である養女がベトナム人としてのアイデンティティに 目覚めていくほうに話の展開が移っていってからは映画に入り込んでいけた。 アメリカ在住ベトナム人のトリン・T・ミンハ監督の『姓はヴェト・名はナム』 の中に、ベトナムの独立に大きな影響を与えたというジャンヌ・ダルク的存在の 実在した女性を讃えた詩が出てきたけど、この養女のような人だったのかもしれないと思った。

 この映画の中に、去年の東南アジア映画祭の時見たベトナム映画に出演していた チン・ティンという俳優が出ていた。フランス人の警官との通訳の役だった。 東南アジア映画祭で上映された『夢の中のランプ』は複雑な家庭環境に育つ薄幸な少年を 描いた映画だったが詩的な映像がとても印象的だった。この作品で彼はごうつくばりで けちな悪徳商人の役を演じていたし、ベトナムの片田舎での官僚的体質を痛烈に風刺した喜劇 『静か過ぎる町』では官僚主義の役人を皮肉たっぷり、ユーモアたっぷりに演じていた。 彼はベトナムのコメディアンなのだそうだ。

 それにしても同じベトナムを舞台やテーマにしていても『インドシナ』は二十週以上の ロングラン、『ラマン/愛人』も大ヒットしたのにベトナムの映画は結構内容も 良かったのに数回の上映だけ。日本人はまだまだ欧米に目が向いているんだなと 考えさせられた。去年の東京国際映画祭でグランプリを受賞した韓国における ベトナム戦争後遺症を描いた『ホワイト・バッジ』 (シネマジャーナル二四号で紹介)だって、 一般公開された時はがら空きだった。宣伝の仕方も悪かったのかもしれないけど、 アメリカが作ったベトナム戦争後遺症物だったらもっと見にくる人も多かったかもしれない。 私は中野武蔵野館あたりで公開すれば良かったのにと思った。

 そういえばキネマ旬報の臨時増刊号「亜細亜的電影世界」の中の張之亮 (ジェイコブ・チャン)監督の香港映画『籠民』 (シネマジャーナル二四号でも紹介) を紹介するページで、ほぼ確定的といわれたグランプリをどういうわけか逃したと 書いてあったけど、そうなのかなぁ。まあ東京国際映画祭のグランプリには なにかいつも思惑を感じることは確かだけど。今年なんか特にね。私はどちらの 映画の方が好きかというと『籠民』。でも『ホワイト・バッジ』だってアメリカ以外の国が ベトナム戦争をテーマにした意義を感じた。前号でも書いたけど『籠民』の一般公開が ぜひ実現して欲しい。

 やはり昨年の東京国際映画祭女性映画週間で上映された『旅まわりの一座』 ヴェット・リン監督(シネマジャーナル二四号で紹介) の最新作『Devil’s Mark 悪魔の印』もぜひ見てみたい。 昔から言い伝えられた悪魔の印を体に持って生まれた少女の、運命的な悲劇を描いた作品だそうだ。




映画じゃないけど

ミス・サイゴン

穂曇

 カナダで行われたパフォーマンス・フェスティバルに招待参加して、そのまま カナダに居着いてしまった友人から、トロントで五月から『ミス・サイゴン』 の公演が始まり、その初日にカナダのアジア系コミュニティの人たちが、この劇の 上演に対する抗議デモを行ったけど、日本ではこの作品に対する抗議行動があったかどうか という問い合わせの手紙が来た。アジア系コミュニティの人たちの主張は、 「この作品はアジアに対する蔑視であり、買売春を容認するものだ」ということだった。 その後も一月に一回のデモが続いているのだそうだ。

 私は抗議行動が日本でもあったのかどうか知らなかったので、新聞社にも問い合わせてみたけど けっきょくよくわからず、日本では抗議行動はなかったようだという返事を出した。

 『ミス・サイゴン』の日本公演が始まる前の去年三月頃、四月に日本で行われる 「アジア女性会議」のためのプレミア上映でトリン・T・ミンハ監督の『姓はヴェト・ 名はナム』上映会があり、上映後のディスカッションの場で『ミス・サイゴン』 はアジアに対する蔑視や偏見がありそうで問題だという話が出たことは出た。

 しかし、日本では問題意識を持った人たちは「見にいかない」という形で 消極的な拒否に終わっていた。私もその一人だった。そしてそのまま一年以上が 過ぎていた。『ミス・サイゴン』はその間も上演され一年半に及ぶロングランになっていった。 しかも一九九二年度の「ぴあテン」では一位だった。だからそんなにアジアに対する偏見は ないのかなとも思った。でもカナダからそんな手紙がきてこれは見に行かなきゃなと 思って見にいった。アメリカでもアジアへの蔑視と売買春の容認、それに主人公を始め 主なキャストを白人が演じていたりして、アジア系の人たちからの抗議があったというのは 聞いたことがあったけど、日本では全部日本人キャストだし、ミュージカルの訳詞も 岩谷時子さんだということで、その辺はだいぶ薄まっているのではないかと期待して 見にいった。

 ところがやっぱり、である。アメリカは素晴らしくてベトナムはひどいからアメリカに 行きたいということを強調したような内容で、こんな劇がアジアで上演されて、 しかも一年半ものロングランとベストワンにすることに疑問をもたない日本人の感覚を 疑ってしまった。ストーリーそのものは人種を越えた愛、相手への思いやり、永遠の愛などを 語っているとは思うけど、あまりにもアメリカは良くてベトナムは悪といったような、 アメリカにとって都合の良い内容だと思った。しかも舞台に出てくる女の人たちが、 主なキャストの人を除いてキャバレーや売春宿、繁華街で男を呼び込むシーンが多かったせいか、 露出度の多い姿で出てくるシーンがけっこうあってなんなのこれはと思ってしまった。

 それに生まれてきた子に対して「こんな美しい子、初めて見た」という言葉、 なんだよ白人崇拝じゃないか! と、頭きちゃった。それに「私はあなたのもの」 という言葉が何度でてきたことか、女を物扱いして、いいかげんにしてよねと思った。 岩谷時子さんの訳詩だからと期待して行ったのに、がっかりしてしまった。




ひさびさミーハー鑑賞記

および“とーく”の補足

勝間

『ジュラシック・パーク』(スティーブン・スピルバーグ監督)

 私の不満は恐竜に襲われる時間があっという間だったこと。でもあの長い原作 すべてを2時間におさめろというのは無理な注文。恐竜を見るだけでもチケットの 元は取れてる。中でもティラノサウルスが車を放り投げる場面の迫力、そして 病気で倒れているトリケラトプスの腹が呼吸と共に動く場面の感動が印象に残っている。



『ロァン・リンユイ/阮玲玉』(スタンリー・クワン監督)

 マギー・チャンの素晴らしさばかり印象に残った去年の初見時とは違い、 今回は阮の周囲の人間関係や、阮本人の女優としての素晴らしさに目を向けることができた。 撮影の前に雪の上に倒れて感触をつかもうとしたり、監督の要求に応えようと 幾度も演技をやり直す場面(『新女性』など)。あるいは、「労働者階級の娘の役は 君には合わない」という監督に向かって、黙って毛皮のコートを脱ぎ、口紅を拭って 見つめ返す場面。25号で宮崎さんが紹介した通り、 昨年末から今年の初めにかけて、阮玲玉の活躍した1930年代の作品が東京で 上映されたが、私はインフルエンザにやられて実際の阮の出演作を逃してしまった。 それらを見ていたら今回の感慨も違ったものになっていただろう。

 もちろん今回もマギー・チャンの美しさ、あでやかさに酔った。彼女にはミューズという 言葉がぴったりだった。そして美しいといえば、阮の姉のような存在の林楚楚を演じた セシリア・イップ。マギーとは違うしっとりとした美しさだ。その林楚楚の夫である 黎民偉の役がウェイス・リー。私は24号で 黎は撮影所長か?と書いたが正しくは製作者だということがわかった。黎が妻を 暖かく見つめる場面が私は好きだ。実はウェイス・リーは私の“気になるあの人” の一人なのである。

 今回一般ロードショーで再びこの作品を見ることができて、本当に良かった。 配給の東宝東和に感謝したい。また、パンフの内容も資料が多く(人物解説等) 豪華なのも嬉しい。このパンフは香港映画としては破格の豪華さだと思う。これからも こういう丁寧なパンフの作成をお願いしたい。また、これを機会に スタンリー・クワン監督の『女人心』や『ルージュ』などの未公開作品の公開を 期待したい。



『野性の夜に』(シリル・コラール監督・主演)

 なぜ人は快楽を求めるのだろう? なぜ彼らは同性愛に走るのだろう? そして なぜ行きずりの者同士で肉体を求め合うのだろう?

 ゲイを非難するつもりは毛頭ない。ただ、私には彼らが自虐的で痛々しく見えた。 まるで人類全体が病んでいるのを彼らが象徴しているかのようだった。

 ロマーヌ・ボーランジェは主人公と出会うカメラテストの場面から私の目を釘付けにした。 19歳というのに、この存在感。しかし彼女の役ローラには共感できない。

 私が共感できたのは主人公の同性愛の相手サミー(カルロス・ロペス)だ。 自分の潜在意識を嫌悪するあまり自分の肉体を傷つけ、しまいには持て余す情熱を 暴力に向けてしまう、愚かといえば愚かな青年だが、彼が苦しんでいるのがよく分かった。

 ローラのように、一人の男をめぐって惚れたはれたの修羅場のヒロインになれる人って 少ないと思う。ある意味でおめでたいヤツだと思う。彼女が夢中なのは男の人格ではなくて、 彼とのセックスなのだし。

 この作品はロマンチックな少女の恋愛物語でもないし、エイズを前面に押し出した作品でもない。 そういう期待をして見るものではない。私個人は、ゲイについて考えさせられることとなった。 彼らをゲイに、見境のない孤独なゲイに追い込んだものは何だろうと思った。



『クライング・ゲーム』(ニール・ジョーダン監督)

 この作品については、見た人はすべての筋を話してはいけないことになっている。 各国のマスコミではこの約束が自主的に守られてきたし、日本でも守られているようだ。 だから私もすべては話せない。

 私が好感を持ったのは主人公ファーガスの優しい性(さが)だ。彼はIRAの テロリストだが、人質の英国兵(フォレスト・ウィティカー)と奇妙な友情で結ばれる。 非情な仕事を全うするためには、人質に情が移るような会話なんてとんでもないこと。 彼の優しさを見抜いた人質は、自分の恋人の写真を見せて、「おれが死んだら彼女に 会いに行ってやってくれ」と頼む。しかし彼の真の目的は脱出することだった。 そのためにテロリストらしくない優しさを持つファーガスを利用しようとした。 しかし脱走しかけた彼は自動車にはねられて死ぬ。

 アジトを急襲されたテロリストたちは命からがら逃走し、ファーガスは一人で ロンドンへやって来た。そして死んだ英国兵の恋人デイルに会いに行く。 やがて彼の居所をつきとめた組織が、彼を縛り付けるためにデイルを人質にしようと 魔手をのばしてきた時、彼は別れるつもりだった彼女を守ろうと組織に立ち向かう。

 場合によっては命を奪わなければならない人質をいたわるファーガス。一度は 捨てようとした女を見殺しにできないファーガス。命の恩人の背中をも刺さずには おれなかったサソリとは逆に、危険なサソリをも助けたカエルのように、優しい ファーガスの性(さが)。スティーブン・レイが好演。陰影のあるいい俳優だ。

 また非情なテロリスト役のミランダ・リチャードソンは『ダメージ』と共に この作品でも好助演。彼女にオスカーをあげてもよかったのでは、という声も多いようだ。



『水の旅人/侍KIDS』(大林宣彦監督)

 予告編を何度か見て、山崎努の一寸法師が明らかに合成画面と分かるので、 『ジュラシック・パーク』の後に見ないほうがいいよねー、と苦笑していたのだが、 券を頂いたので見に行った(『REX』もタダなら見てもいいよ。REX自体はかわいいし)。

 何だか子供が対象なのか、大人が対象なのかよく分からなかった。どちらも楽しめれば 一番いいのだけれど、そんなことはディズニーのアニメぐらいのレベルにしか 求められないし、無理なら無理でどちらかに絞った方がいい。さすがの大林監督も 夏休み映画ということで子供を意識して、100%力を出せなかったのかもしれない。

 一寸法師は予告編よりは合成が気にならなかったけど、カラスの人形がちゃちだった。

 それにしても主人公の少年は最後に風邪をひかなかったのか、疑問である。

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