女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
40号   pp. 54 -- 55

花の影


『花の影』に酔えなかった

TF

 二時間ちょっとの『花の影』を見終わって、一番最初の感想は“あー、長かった”。

 何ととんでもないことを! 監督は今や「巨匠」の 呼び声高い、陳凱歌、主演は人気絶頂張國榮・レスリー様(“レスリーの宮様”とも 言うらしい)・プラス、アジアのNo1女優、鞏俐……。こんな豪華なメンバーで 面白くないと思うなんて、と自分を叱りつけたけれど、何度思い返してみても、 やはり“酔えなかったナ”という違和感が増すばかり。三時間近い『さらばわが愛 〜覇王別姫』は少しも長いと思わず、終わった時には“ああ残念、もっと 見ていたい”と感じたのに……。

○歴史が描けていない
 『さらばわが愛〜覇王別姫』では、主人公達の個人の歴史と中国の歴史がピッタリと 重なりあっていた。清朝末期の混乱、日本軍侵略、国民党支配、文革といった歴史が、 いやおうなしに個人にかかわり、それが人生をねじ曲げてゆくというストーリーが 無理なく理解でき、主人公二人のやり切れない心情と苦悩に深く共鳴した。同じように 『花の影』も中国の近代史を背景にはしている。一九一一年の辛亥革命、 一九二〇年の上海などが描かれるが、それが主人公の人生には全然からんでこない。 主人公がたまたまその時代の人だったというだけで、もっと前の中世でも現代でも この話は成立してしまう。その分薄っぺらいし、上海や北京に特別な意味をもたせようと する分だけ混乱する。私は最初ストーリーがもうひとつのみこめず、原作本とシナリオを 買って読み、やっと“ああ、そうか…”と理解できたと言う始末。余分なお金を 使わせないでほしいぞ、陳凱歌。

○クリストファー・ドイルの撮影が内容と合っていない
 クリストファー・ドイルの画面はとても好き。『欲望の翼』も『恋する惑星』も、 フラフラする画面に合わせてクラクラし、映画に酔った。しかし、この盛大に移動する 画面は現代劇にはピッタリでも時代劇(『花の影』は時代劇として撮っているはず) には合わない。街自体が絶えず動いているような現代香港を映すのに、動き回る 画面は似合うけど、大富豪のドッシリした家や死ぬほどお金をかけてるのが わかる上海セットを、なにもフラフラとカメラを移動させて撮ることはないと思う。 じっくりカメラを据えて見せてもらった方がよかった。惹句に「眩暈しそうな美しい 映像」とあったけど、これは監督の言うことをきかずにクリストファー・ドイルが 暴走し、あげく見ている方が眩暈を起こしたという意味では?

○鞏俐にこの役は無理
 “無理”といっても、これは“力不足”という意味ではない。鞏俐という女優の 存在感が、役をすでにオーバーしてしまっているのだ。古都の旧家で閉じこもって 暮らす深窓の令嬢が外の風に当たってはじけてゆく状況を、鞏俐はうまく演じては いるけれど、ダメです。出てきた瞬間から賢そうで成熟した女なんだもの。白い チャイナドレスや“お口ポカン”で清純さを表現しているけれど、こちらは “だまされないぞ”と身構えてしまう。イメージとしては『哀戀花火』の 寧静(ニン・チン)あたり。あのくらい現代離れした顔と雰囲気なら、ピッタリだと 思える。“無邪気に残酷なことをする”という設定なんだから、無邪気に見える 女でないと辛い。さんざん迷ってミスキャスト、という典型。それにしても鞏俐さん、 少々太りすぎていない? 結婚されたそうで幸せ太りかもしれないけれど、 自転車に乗っている時のお尻には、さすがに目をおおいましたね。養子で鞏俐の お守り役という設定の端午(林健華)とのベッドシーンで、端午が「僕は重い。 君が上に」と言っていたけれど、「絶対鞏俐の方が重い。上に乗らない方がいい」など、 余計なことを考えてしまった。

○そして最後、張國榮(レスリー・チャン)が綺麗に撮れていない!
 実は、一番怒っているのはここである。ストーリーのご都合主義も、 太った鞏俐もガマンしようと思えばできる。レスリーさえ美しく撮れていれば!  しかし、そこに満足できなければ、“何のために見に行ったんだ”と物のひとつも 投げたくなってしまう。

 一月にあったレスリーのコンサートを見たけれど、そのオーラは圧倒的だった。 その後、しばらくはボーッとなっていて、もう一度『ルージュ』『欲望の翼』 『さらばわが愛〜覇王別姫』などのビデオを見返し、『夜半歌聲』は二度も 見に行ってコンサートの余韻を味わい、ついには夢にまで見る始末(モウケた! と思った)。この物凄い影響力は“美貌”だけでは説明できない。レスリーの 内側から溢れだしてくる強烈な自意識によるものだと思う。「自分は美しい。 自分はスーパースターなのだ」という確信からくるナルシズムが伝わった時、 見る側もレスリーの魔術にはまる。

 レスリーに似合うのは“光りモノ”“ヌード”“豪華な背景”など。 『さらばわが愛〜覇王別姫』の時の京劇化粧、豪華衣装、金銀アクセサリーの 数々の中で、彼は妖しく輝いていた。『欲望の翼』のトランクス姿のけだるげな ダンスは、その色っぽさでゾクゾクさせた。『夜半歌聲』では壮麗なオペラハウス (この炎上シーンはすごい。『風と共に去りぬ』のアトランタ陥落シーンを思わせた) を背景に歌いまくり、“歌のうまさ”を強烈に印象づけた。

 前述したどの映画でも、“これぞレスリー”というシーンがありそれにはまって レスリーは自意識を全開して光を放っていた。しかし、『花の影』のレスリーは、 終始眉の間にシワをよせ、暗い顔でどの女もあしらい切れず悩んでいる。こんな 設定のレスリーが美しく見えるはずがないし、オーラも漂わない。着ているものも よくない。肩巾のない華奢な体つきに、現代的なスーツは似合わないのに着せるから 貧弱に見えてしまうし、アースカラーのチャイナ服なんてド地味な服やマッサージ師 みたいな丸黒眼鏡…みんな似合っていない。衣装係はクビにすべきだ。コンサートの 時のラメラメの服や赤いハイヒールは(好き嫌いはあるだろうけれど)レスリーの 本質をよく理解したステージ衣装だったと思う。とにかくレスリーを“その気”に させて内側から光を放たせること、これで映画の成功は約束されたも同然なのに、 それができていないから、この『花の影』には魅力が感じられなかったのだと思う。

 “なぜその映画がつまらないか”なんて証明してみせるなんて、実は虚しい。 この映画はスゴイ、面白い、見所はここ、と興奮して書きたい。美しさの 絶頂期の役者を充分美しく撮って、私たちを陶酔させてほしいと切に願っている。

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