女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
40号   pp. 52 -- 53

花の影/風月



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 『花の影』は「我愛(イ尓)」と口に出すことができないために、自分も愛する女も 破滅させてしまう男の物語です。彼は何故「愛している」と言えないのか。 ここのとらえ方でこの映画の見方は随分変わるだろうと思います。

 物語の舞台は一九二〇年代の蘇州、上海。十三歳の忠良(張國榮/レスリー・チャン)は 姉の嫁ぎ先である阿片の煙り立ち込める(广+龍)家に引き取られてきます。 使用人として働くある日、姉の夫に無理やり「男にしてやる」と言われ、姉と関係させられます。 彼は耐え切れず逃げ出し、マフィアの首領に見出され上海で凄腕のジゴロとなります。 その首領から、家に戻り、家督を継いだ如意(鞏俐/コン・リー)を上海に連れてこいと 命じられ、辛い記憶しかない蘇州に向かいます。そして、計画通り如意を籠絡し (このあたり唸りますよ。レスリーのジゴロはうますぎる)二人は結ばれるのですが、 彼はどうしても彼女を騙して連れて行けず、ひとり上海に逃げ帰ります。 マフィアの計略で如意は上海に呼び寄せられ、忠良の「仕事」を見せつけられる。 それでも彼女は彼に「愛している、愛していると言ってくれ」と詰問するのですが 彼は答えない。如意は(广+龍)家にもどり、上海の実業家との婚姻を決める。 今度は忠良が粋なスーツも脱ぎ捨てて如意を追う。でも彼女は、もう愛は消えたのと 突き放し、二人に更なる悲劇が……という粗筋なのですが、私の最大の疑問は何故、 女性が皆成熟してないの?という事でした。

 陳監督はこの映画で人間の内面を、「性」というアングルから見た男女の関係性を 描きたかったとの事ですが、男性二人、忠良と端午(林健華/リン・チエンホア) については凄く成功していると思う。存在感があります。太鼓判。だがしかし、 女性にリアリティがない。如意は監督の理想の女性とのことですが、あれでは 悩みが無さ過ぎるぞ。性に纏わる心の動きって、もっと複雑怪奇で矛盾を孕んだものじゃないですか。 子供っぽすぎるんだなあ。

 私は陳監督の映画はこれと『さらばわが愛〜覇王別姫』しか見ていませんが、 女性の描き方は不満です。そのせいで物語が深まらないところがあると思う。 あと二人の忠良を愛する女性たちも凄く単純なんです。姉は忠良が「姉さんとの 体験で僕の愛は絶たれた」と詰め寄っても何も受け止めず、かわいそうなのは 私だけよと言うだけ。天香里の女(ジゴロとしての忠良の情人)はついに マフィアに強請られると「私を愛してた?」と問い、忠良が答えられずにいるうちに 自ら死を選んでしまう。そのために彼は恐慌を来し、ジゴロとして使い物に ならなくなってしまう。そして、如意。美しくて、無邪気で、残酷な役どころです。 忠良に好かれるためには美しくなくてはならない、美しいのは娘ではなく女、 だから処女を捨てると決意し、弟同然の端午(彼は如意に想いを寄せている)に 無理やり自分と関係させる。この単純さはなんだろう。いくら深窓の令嬢でもねえ。 めくるめくとは言いませんが、大人の情念があってもいいじゃないか。 この如意の図太いまでの自尊心の確かさが、忠良の守ってきた何かをつき崩してしまう。 破滅はそこから始まる。如意と忠良の関係は幼い時に性的暴力を受けた経験から自分の 気持ちに忠実になれない男と、素直に思ったことを行動に移せる女との対立なんだと 思うのです。監督はこの対立をどう描きたかったのか。手をこまねいているというのが 私の印象です。監督は「忠良は僕のように悩んでいる」と言っていますが、 監督の中には答えが無かったのかも知れない。

 レスリーは理解していたのだと思う。忠良の心の動き、葛藤、あの表現は見事でした。 コンサートを見ても思いましたが、彼は性的存在としての自分について、考え尽くして きたのだと思う。これは拍手したい。レスリーに見えないもの。ただ忠良に見えた。

 この映画は忠良の心象の表現として見ると、とても素晴らしい。「人を愛せない ジゴロの‥‥」といろいろな所に書いてありますが違うと思う。彼はずっと愛し続けている。 愛が何か貴いものだと知っている。だから姉から逃げ出したのだし、自分が愛というものに 値しない何かになってしまったと思うから愛していると言えないのだもの。 ジゴロという性的魅力を切り売りする生業に就くのもそのためです。 自分を真っ当な暮らしから遠い所に置く事で安心する。その証拠は映画の中に きらきらとちりばめられています。ダンスホールで少女にバラをあげて涙ぐむ所。 天香里の女にだけは自分から「抱いて」と言うところ。私が一番辛かったのは 忠良が如意を初めて抱こうとした場面です。如意は「ここをこうして。知っているのよ、 端午と練習したから」と言う。そこで忠良は深く絶望する。腕の力が抜けるもの。 あれは驚きではない。悲しみです。性を弄ばれる側に立つ者の痛みだったんだと思う。 だって如意が端午にしたことは、姉が忠良にした事と変わらないんだから。 彼のやりきれない思いがスクリーンを越えて伝わるようなシーンだった。 忠良は如意を愛し始めていたけれど、彼女の中に自分を救ってくれない何かを見たのだと思う。 その予感は正しくて、上海でのすべてを捨てて、初めて「我愛(イ尓)」 と口に出してやりなおそうとすがりつく忠良に如意は「あの時言わなかったから駄目。 あなたは恐いんでしょ。心が死んでて人を愛せないことが」と言い放ち、彼を切って捨てる。 そうよ。恐いのよ。それをどうやって乗り越えようか、皆悩んでいるんじゃないか。 分かり合えない人と人はお互いを破滅させるしかないのでしょうか? 答えが欲しいわけではないけど、ここをもうちょっと掘り下げてほしかった。

 それからクリストファー・ドイル。こういう筋のはっきりした映画だと彼のカメラワークは 素材の持ち味を壊さず、しかも自己主張していて、スパイスの効いたいい味出していました。 女からの戦利品を手に意気揚々と上海の町並みを抜け、忠良がダンスホールに馬車を 乗り付けた時、彼のカメラはホールの扉を開けて、私も一緒に連れていってくれました。 彼の息遣いがずっと耳元でするようなカメラワークだった。そうね、これも監督の 仕掛けた「性的」な装置なのかもしれない。セクシーなカメラワークだもの。

 この映画、ハーレークインだなんだと言われていますが、ファンだということで 割り引いて考えてもレスリーの忠良は一見の価値があると思います。

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