女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
35号   p.76
[延吉便り Vol. 2]

三四号に藤岡さんの北京便り を載せましたが、三〇号で『花を売る乙女』、 三一号で『天国からの返事』を書いた橋本さんも 朝鮮語を学びに中国の朝鮮族自治区、吉林省延吉市の延辺大学に留学しています。 彼女からのお便りが届きましたので載せたいと思います。

延吉便り Vol 1

一九九五年一〇月二九日 M. 橋本

 延吉に来て二ヵ月が過ぎました。最初の一ヵ月は新鮮な毎日で東京の生活が嘘のように 感じられ本当に開放されて楽しかったです。一ヵ月過ぎた頃、寮を出て朝鮮族の家庭に 下宿し始めましたが、中だるみが始まって集中できない日々を三週間ほどすごしました。 朝鮮語の方はゆっくり勉強しています。街を歩くのが好きで、一日一回は自転車で 出掛けます。今日の気温は九度。すっかり冬ですね。

 朝鮮族は中学校から第一外国語として日本語を勉強しています。朝鮮族の暮らしが 見れると思ったのに下宿先の母親は日本に住んでいたことがあり、日本好きで、 電気製品は全部日本製です。

 延吉には韓国との合弁会社が多く、韓国人留学生もたくさんいます(延辺大学に 日本人十五人、韓国人一〇〇人ぐらいかな)。私は今、韓国人に朝鮮語を習い、 彼女には日本語を教えています。

 この間、長春の映画撮影所から延吉市にロケ隊来て[登β]小平と朱徳華が尋ねてきた 映画を撮影していました。大きな輸ができていましたが、カチンコもメガホンも照明も なしでやっていました。監督は四〇代前半くらいの男性で、助監督は四〇代後半に 見えました。年令はあきらかに監督より上なのに、助監督は監督からなにか 言われるとよく走っていました。女性スタッフも二人ほどいて、タイムキーパーらしい 仕事をしていました。私は語学がまだダメなので監督の名前も映画のタイトルも わかりません。日本語のわかる人に今度尋ねてみようと思います。

 中国人の話によると「延吉ケチ」と言われているらしく、延吉を嫌っている人が 多いことも知りました。中国人朝鮮族の日本へのイメージ、朝鮮族の暮らし、言い方、 癖、延吉市の人口の三八%をしめる漢族の暮らし、延吉市民の娯楽は?などよく わからない延吉をもっともっと見てみたいと思います。



編集部注
朝鮮族の親日感情についてはこの号のミニコミ紹介のぺージ に載せた『香港電影Magazine ムービースターズ』No14で大庭典亨さんという人が書いた 「歴史の皮肉としての親日感情〜台湾映画『多桑』に寄せて」の中に、〈台湾の本省人と 状況が似ているのが、中国の朝鮮族である〉と、朝鮮族の親日感情についても 取り上げていて、けっこうわかりやすく載っています。

 日本が朝鮮半島を植民地化していた時代には中国東北部に住んでいた朝鮮人は 日本人から支配されていたのに、中国人からは“日本人”としてみられていて、 中国の解放後は〈日本人といっしょに中国人を抑圧した〉と恨みをもたれ、 その結果橋本さんの手紙にもあるように中国人(漢族)からは差別的扱いや嫌われたり ということがあるらしい。だから漢族に対する反感が〈日本人のほうがまし〉 という感清にすり替えられてしまい、それが親日感情に繋がっているのではないかと 大庭さんは展開しています。まさに、歴史の皮肉といえるかもしれません。ですから、 日本人としては、親日感情があるからといって、喜んでばかりはいられません。

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