女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
35号   pp.60 -- 63

マディソン郡の橋

——通俗的な不倫を永遠の愛に祭り上げた「驚異」!——

松永



 「早くも96年度アカデミー賞最有力!」
 「映画は原作をはるかに越えた!」
などの絶賛の嵐に肩を押されるようにして、映画館へと足を向けた私。 原作も読まず、何の偏見もなく観たのだったが、初めから終わりまでまるで 感情移入できず、沸き起こる気持ちはただ次のようなもの。
☆なんだこりゃ!? これってただの「キンツマ」じゃない?
☆これで世界的ベストセラーの原作を越えたってことは原作はもっとヒドイわけ?
☆これがアカデミー賞の候補?
☆まさか作品賞ってことはないよね。

 この映画を観て感動したという人々には申し訳ないが、どこにでもありそうな 通俗的な不倫話を「永遠の愛の物語」に仕立てあげたあまりのあざとさに、 はっきり言って私は腹が立ったし、ここで振り撒いている「永遠の愛」や「家族の絆」 幻想などは、女性にとって有害とさえ思われるので、この際、徹底的に批判してみたい。

*           *

 冒頭、フランチェスカの娘と息子が親の死後、その遺品の中から日記を見つけ、 初めて母親の不倫を知るくだりでの息子のセリフがひどい。

「子供にとって母親というものは、セックスの欲望などない、聖なる存在だと思いたいのに‥‥」

*           *

 自分が誰の子宮から生まれてきたのかを棚上げに、この種の言葉は二昔前には 受け入れられたかもしれないが、現代の感覚からすると陳腐としか言いようがない。 例え、原作にあったとしても、「母=聖母」的な白々しいセリフは入れるべきでは なかった。だいたい、この二人の子供たち(といっても40代だったと思うが)の演技や セリフがまったくステレオタイプで不自然なのは笑ってしまう。

母親の日記を読み進むという手法で、フランチェスカとキンケイドの出会いと別れの物語が 進行するのだから、その合間に度々出てくる二人がこれではウソっぽい話がますます ウソっぽく塗り固められるというものだ。

 さていよいよ核心の物語だが、これがまた、主人公の人妻フランチェスカにとって、 あまりにも都合のよい展開になっていてあきれてしまう。 最初にはっきりさせておきたいのは、誘惑したのはフランチェスカの方だということ。

●道を尋ねただけのキンケイドに、彼の車に乗って橋まで案内したのはフランチェスカ。
●その日の夕食を家でとるように誘ったのもフランチェスカ。
●翌日、また家での夕食に誘う手紙を橋にピンで止めたのもフランチェスカ。
●不倫をしたため、村中の人から冷たい仕打ちを受けている女性の存在を知って、 家に行かない方がよいのではないか、と電話をよこしたキンケイドに、 「それでも会いたい」と、さらに誘ったのもフランチェスカ。
●キンケイドといる時に、町で見慣れない男を見たから気をつけてと、一人で留守を 守っているフランチェスカを気遣って電話をかけてきた友人の言葉に、 「心配ないわよ」と答えながら、キンケイドの肩に手をまわしたのもフランチェスカ。
●夕食の後、昼間わざわざ新調した胸の開いたドレスに着替えて、 キンケイドをはっとさせ、二人でぴったりくっついてダンスを踊り、ベッドへ誘った?? のもフランチェスカかどうか映画ではわからないが、これだけお膳立てして 乗ってこない男なんて、ないんじゃなかろうか?

 このあと二人は二日間の短い「愛の生活」を送り、家族が明日、帰ってくるという時、 彼女は家庭を捨てて出ていくことはできないと涙ながらに訴える。 「これが生涯に一度の確かな愛だ」(一度でいいから言われてみたいと思うセリフを キンケイドは言ってくれるのだ)と言われながらも、年頃の娘や息子、そして (性的魅力は失せたけれど)誠実でやさしい夫を裏切ることはできないと言って、 大泣きでキンケイドの愛を拒む「悲劇のヒロイン」フランチェスカ。

 しかし家族とのもとの生活に戻ったフランチェスカの心の内を表したナレーションで、 二日目にはもう「キンケイドとのことは遠い昔のことのような気がする」 とかなんとか言ってのけているのだ。彼女の気持ちが変わるのを期待して、 まだ彼が村に残っているのを知っているのに、である。 これが、ただの浮気でなくてなんだろうか?

 そりゃ多少は本気だったかもしれない。熱に浮かされた四日間の中で、すべてを 捨てて彼と一緒に行きたいという思いが、一度や二度は胸をよぎったかもしれない。 しかし、キンケイドが子供もなく、妻とも別れて、カメラマンとして 世界中を取材して歩く生活をしていることを、フランチェスカは 「家族も持たないで自分勝手な生き方をしている」と非難しているのだ。 しかもあろうことか、世界中に自分のような女が何人もいるんだと、 キンケイドに詰め寄ったりもしている。この時の彼のセリフが彼女にとっては、 また都合よくも心地よく、泣かせるものとなっている。 「君にそう思わせたのなら許してほしい……。」

 しかしジョーダンじゃない。すでに見てきたように、彼を誘惑し、四日したら家族が 帰って来るので家庭を壊したくないから終わりにしたい、と言っているのは フランチェスカなのだ。キンケイドとの二度目の夕食のために、わざわざ町へ出かけて 自分を魅力的に演出するドレスを買ったのも、彼によく思われたい 「可愛い女心」だとしよう。 そして別れ話の際に「悲しみのあまり我を忘れて」自分のような女が あちこちにいるんじゃないかと、つい口走ったのも 「女の可愛い嫉妬心」からだと大目にみることにもしよう。

 どこに「永遠の愛」があるっていうの? はっきり言えば、この二人はそもそも 結婚観や人生観が大きく異なっていて、一緒に生きて行くことなどできないんじゃないだろうか。

 その全く異質の二人が、たまたま出会ってお互いの心のスキ間に入り込み、しかも 四日間という期限付きだったから燃え上がることが出来たというだけにすぎないのでは?

*           *

 だがしかし、物語のあざとさはまだまだ終わらない。キンケイドと別れて、時が経ち、 病床についている夫を献身的に看護する老いたフランチェスカに、何も知らない当の夫は 優しく問い掛ける。「本当は君はもっと他の生き方があると思っていたんじゃないか。 だとしたら許してほしい。」 いったい、どこまで都合良く作られているのか。

 その後キンケイドが亡くなり、遺言で遺品がフランチェスカのもとへ送られて来るが、 もちろんその前に都合よく夫は死んでしまう。そして、キンケイドの遺品の中に 例の橋の写真集があるのがいよいよ圧巻の泣かせどころである。 題は「永遠の四日間」。扉には「生涯にたった一人のFに捧ぐ」 さらにキンケイドのポートレイトの首にはフランチェスカからもらったロケットが さり気なくかけられている。すべてはフランチェスカただ一人のための写真集なのだ。 その題名も扉の文章も彼の首のロケットも、そして二人を結びつけた あのマディソン郡の橋の写真も??。

*           *

 いやはや、なんと恐るべきご都合主義的世界! 計算され尽くした構成や脚本は、 見る者が感情移入できる真実味があってこそ賞賛されるものだが、この映画に関しては あきれるばかりのウソっぽさゆえ逆に白々しさの上塗りでしかない。

 たかが映画、こんなおとぎ話があってもいいじゃない、何もそんなにケチつけなくても、 という人がいるかもしれない。 しかし、私が腹を立てているのはそういう表面的なことではない。 若い頃、芸術に親しみ教師として社会に関わりながら生きていた一人の女性が、 結婚して外国の保守的な農村で農婦として家族中心に暮らして行かざるを得ない?? ある意味では現代の閉鎖された主婦にも通じるこうした焦燥感、社会的疎外感を 「四日間の愛のおとぎ話」にスリ替え、この愛があれば残りの人生をまた家族のために 尽くすことで生きていける、という方向に帰結させていることへ腹を立てているのだ。 夫や家族に尽くし夫の最期を看取り、よき妻よき母として充分生きたから、 あの四日間の「家族への裏切り」も帳消しに出来るハズ。 夫には死ぬまで隠し通したし、あなた達子どもには、分別のつく大人になるまで 待ったのだから‥‥と、フランチェスカの遺言に言わせている。この良妻賢母思想の まやかしが許しがたいと言っているのだ。中年のおじさま族が絶賛しているらしいのは、 こういう「良妻賢母の一生に一度の過ち」的興味が潜在的にお好みなのでしょう。 一生良妻賢母じゃ面白くないし、かと言って不倫大好きでは困るし。

*           *

 この映画の原作者も男性で、現在の生活に潜在的な不満を抱えている主婦層、 および夫たちの心をくすぐるツボを充分わきまえているに違いない。ところで原作では どういう描かれ方をしているのか知らないが、橋から灰を撒くシーンで唐突に出てくる、 かつて不倫によって村八分を受けた女性の存在、あれもかなり不自然だ。

 キンケイドと別れたフランチェスカが同じ痛みを分かち合う者として親しくなったと いうことだが、映画では彼女の人となりが全くわからず、従ってフランチェスカと どんな心の交流がなされたのかも一切不明で、いくら灰を撒くシーンに登場しても、 物語の最後の添え物の感をぬぐえない。この彼女との触合いを描くことで、 その後のキンケイドへの変わらぬ愛を貫くフランチェスカ像を浮かび上がらせることも 出来たハズなのに。

 そして、またまた理解に苦しむのは例の娘と息子たち。それぞれに配偶者と何か問題を かかえているようなのだが、イマイチよくわからず、母親の不倫を理解して遺言通り 橋から灰を撒いた後、これまた唐突に解決にむかうという設定。母親の生き方から 何かを学んで、二人のこども達も自分で自分の人生に決着をつけるべく行動した、 という風に描きたかったのだろうとは思うが、前述したように、この二人に全く リアリティがない分、付足しのメデタシメデタシのようでますますウソっぽい。

 映画を観るときは必ずハンカチを握りしめて観る、というくらい涙もろい私が、こ の映画に関しては腹立ち、あきれ、白け切って席を立った。実際、この映画は観る人の 価値観で大きく評価が分かれる内容だと思う。結婚観、恋愛観、ひいては人生観にまで 触れる部分があるので、ある意味ではリトマス試験紙のようなものかもしれない。 私にとっては間違いなく今年のワースト1であろう。

 「世界中の涙をしぼった」雨の中でのフランチェスカとキンケイドの別れのシーン。 物語には何の感動もなかったけど、唯一、雨の中に佇むクリント・イーストウッドの 薄い髪がまるでワカメのように額に貼り付いて、ああ、あなたも年を取ったのね、 としばし胸キュンしていた私ではあった。

(文中、映画のセリフその他で実際と少し、違う表現になっている箇所が多々あると 思われますが、なにしろ映画を観たのが随分前のことで資料もなく、記憶に頼って 書いたことをご理解下さい。)

本誌「シネマジャーナル」及びバックナンバーの問い合わせ:
order@cinemajournal.net
このHPに関するご意見など: info@cinemajournal.net
このサイトの画像・記事等の無断転載・無断使用はご遠慮下さい。
掲載画像・元写真の使用を希望される場合はご連絡下さい。