女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
33号   (1995 June)   pp. 48 -- 49

雲南物語

張暖忻(チャン・ヌアンシン)監督作品

							
1994年 製作/香港仲盛電影製作有限公司    北京映画製作所 製作協力/中国電影合作製片公司      シネマスコーレ 撮影協力/岐阜県郡上郡大和町

出海

 日本敗戦の1945年、中国は日本に引き揚げる人達で大混乱だった。そんな中、 家族と離れ離れになり中国の軍人に追われた樹子は手首を切って自殺を図る。 が、親切な軍人に助けられる。傷をいやした16才の樹子は北京で看護婦になり働く。 そこで雲南省の少数民族、哈尼(ハニ)族出身の軍人と出会う。 彼は彼女の手首の傷を見て自分が助けた日本人だと気付く。

 こうして、運命の再会をはたした樹子は軍人と結婚し、彼の故郵、雲南省に移る…。 『おしん』の山形の農村場面のような暮らしぶりが続く中、彼女の夫は病死。 夫の弟と再婚してたくさんの子供をもうける。雲南省の貧しい暮らし、 原始的な出産の場面、哈尼族の男女の風習などを女性独特の繊細な目で描きながら ストーリーは進む。村で難産の女性を助けたことからその勤勉さを慕われ、 助産婦になった樹子は、お産の病院を建てたり、村の子供たちに日本語を教えたり 文化的な活動を活発に行う。この時、雲南省の壮大な山々をバックに子供達と歌う 『春が来た』は素晴らしい。春の訪れの喜びと、日本を愛する彼女の心情は 泣かせる。シンプルな日本の童謡のメロディーと歌詞をこんなに豊かに表現したのを 見たのは初めてである。時は文化大革命。病院は洗脳された10代の男女たちに 破壊されてしまうが、「あなたも、あなたも、みんな私がここで取り上げた子供たち…」 と、慄然と立ち向かい疑いを晴らす。そして、娘の結婚式で歌った『夕焼けこやけ』 が取材に来ていた日本人記者の耳にとまり、こんな山奥に日本人がいたとは… ということになり、記者の計らいで日本の両親がわかり、帰国する。 彼女はしばらく両親の元にいるが、結局夫の待つ雲南省に戻るところで 映画は終わりになる。

 大陸に残された残留孤児については、藤原ていさんの作品など帰ってきた人々の 体験談から知ることができた。新聞などマスコミでも報道されているが、 今の中国での暮らしぶりについてはあまりにも情報が少ない。その意味で、 こういう日本女性がいる…とのショックは大きかった。また、終戦50周年記念作品として 日本でない中国の監督によって描かれたことが興咲深い。

 監督は日本人の残留孤児を同情でも珍しさでもなく、暖かく、愛情深く描いている。 国に関係なく強く生きるひとりの女性への監督の共感が強く伝ってくる。また、 映画は彼女の話しだけでなく彼女の暮らす雲南の地域をドキュメントのように 詳しく描いている。ここは、中国の南西に位置し、ミャンマー、ラオス、ベトナムとの 国境にある山岳地帯。少数民族が最も多く居住しており、地形が険しいため外界と 隔絶されており、個々の民族がそれぞれ独自の社会、文化を形成している。そして、 原始的儀式や祭りを今に伝える地域だという。監督は地域にも興味をそそられていたのは 儀式場面が多くでてくることでも想像できる。山岳民族の淡々とした暮らしぶりは 驚きであるとともにとても面白かった。

 ただ、いろいろな方も言っておられるが、後半の日本の場面が少し違和感があって 残念だった。絵に描いたような物質的に豊かな家庭と、樹子に優しすぎる家族。 両親はいくら敗戦の大混乱の中とはいえ、我が子を置いてきて、戦後ずーと 苦しむわけだからもう少し自責の念があってもいいと思う。もう少し哀しい筈だと 思うのだが始終ニコニコしてまるで親戚の子供を預かるような関係。 それから、両親は彼女の永住を願って役所に手紙まで書くのになぜ家族を呼び寄せて 日本で暮らさなかったか。なぜ中国を選んだか。日本の家族が 「お前はいいが夫や子供はだめ」と言ったのだろうか、それとも彼女が祖国を見て 「やっばり中国で暮らす」と決意する何かがあったのか。後者だと思うけれど、 その辺りをもう少しつっこんで描いてもらいたかった。私の勝手な希望を言えば、 彼女が中国で祖国を思いながら終わる方が映画としては説得力があったような気がする。 あの『春が来た』も『タ焼けこやけ』も今の日本を考えるとより効果的だったと思う。

 中国ではこの他、終戦50周年記念作品には『南京大虐殺』など問題作が控えているが、 日本はどうだろう。女性が目当てのお客様には悲劇の“ひめゆり部隊”。 男性が目当てのファンには大空に散った悲壮な“神風特攻隊”。 もういいかげんにしていただきたい。それしかないのですかと言いたい。 こういう時代だからこそ『日本列島』や『帝銀事件』など若き日の熊井啓さんが 作られた骨太な社会派映画が見たい。たとえば、松本清張氏の『日本の黒い霧』はじめ 数々の作品を読むだけでも終戦50周年を記念する素材がいっぱいあると思う。 使い古された素材を小手先で見方を変えただけではあまりにも貧しすぎるのでないだろうか…。


 この記事を書こうとして準備していたら、監督の張暖忻(チャン・ヌァンシン) さんの計報をお聞きした。そう言えば、この映画を吉祥寺のバウスシアターに見に行った折り、 ゲストで出席される筈の監督がお身体が悪く来日できない旨シネマスコーレの 支配人さんから伝えられた。残念に思ったが、その病いのまま亡くなられてしまったのだ。

 ご冥福をお祈りいたします。


■張暖忻/チャン・ヌァンシンのプロフィール

 1940年内蒙古フホホトで生まれる。62年、北京電影学院監督科を卒業。 同校で教職に就き、上海映画製作所で謝晋監督らの助手を務める。67年、『李四光』 (凌子風監督)の脚本を夫の作家、李陀と合作。81年にバレーボールに打ち込む女性を通じて、 中国運動選手の姿をリアルに描いた『沙鴎』('82金鶏賞監督特別賞/'83文化部優秀作品賞) で監督デビュー。85年『青春祭』を発表、日本で注目を浴びる。その後、 一年間パリに留学し、『花轎涙』をとる。'90には、現代中国社会をドキュメンタリー タッチで描いた『おはよう、北京』を発表、第5世代に大きな影響を与えた。 (プレス資料より)




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