女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
29号 (May 1994)   pp. 54 -- 58

クレルモン・フェラン国際短編映画祭--参加記

松永敏郎

Your film K. has been selected for ......
というファックスを受けたのは去年のイブの日の未明、夜中の2時を回っていた。


妊娠した若い女性が一枚の絵はがきを見たことから精神のバランスを崩してゆく、 というストーリー --- 拙作『K.』は九三年の初春に撮影した二十一分の短編映画だ。
その前の年に撮影に入った長編映画が資金不足で中断してしまい、 まずは短編で突破口を、ということで身近な人に借金をして一気に完成させた…ものの、 事はそう上手く運ぶはずもなく、 ビデオと一緒に企画を持ち込んだ会社にはことごとく無視され、 打診していた海外の映画祭からは次々と「残念ながら…」の手紙が届いていた。 ここで強調しておきたいのは、国内では[無視]され、 海外からはたとえ結果がネガティブなものであるにしろ[返事] があったという事実だ。そんなこんなで完成してから既に八カ月近く 経とうとしていた頃、冒頭のファックスを受け取った。 発信者はフランスのクレルモン・フェラン短編映画祭で、文末には、署名と手書きの Merry Christmas! が添えてあった --- Merry Christmas!

パリから急行で南へ三時間半。クレルモン・フェランに着いたのは映画祭の二日目・ 二月五日の午後。メイン会場内にあるフェスティバル事務局に行くと、 いきなり写真を撮られ、パネルに貼りつけられる。 まだ三割位しか埋まっていないそのパネルを見ると、世界中から監督、プロデューサー、 配給会社、ジャーナリスト等が集まってくるという事が判る。パンフレット、 パス等の書類を受け取ると、近くに用意されたホテルにチェックイン。 部屋でパンフレットを拡げ検討すると、コンペはフランス部門(68本) とインターナショナル部門(69本)の二つに分かれ、それがまたそれぞれ 五、六本ずつのプログラムに分けられ、四つの会場(劇場)で八日間、 朝十時から夜中の十二時までビッシリ、各プログラム三回ずつ上映される仕組みになっている。 『K.』の入ったプログラムは明日が初上映ということで、 その日はそのままホテルでゆっくり休むことにした。
ちなみにそのホテルの部屋というのが浴室だけで、 今この原稿を書いている僕のアパートの部屋(4畳半)くらいはあるという豪華さ。 こんな待遇受けていいのかと自問したのかしなかったのか、 いつの間にか深い眠りに落ちていた。

翌朝事務局に顔を出し、フェスティバルの雰囲気を味わっていると、 一人のマドモワゼルから声を掛けられる。外国の監督という趣向で テレビでインタビューをしたいということだ。フランス語は全く話せない私だが、 変なところでクソ度胸を発揮する性格(たち)で、拙い英語であっさりとOKしてしまう。 夜の七時に同じ場所でということで別れる。 午後二時からいよいよ自分の作品が入ったプログラムの上映ということで、 日本から同行している女性二人と三人でジャン・コクトーと名のついた劇場へ… とビックリ!入口前には長蛇の列。中へ入るとさらにびっくり。千五百人収容という、 二階席まである大劇場。こんなところで自分のつましい16mmプリントが上映されるのかと 少々びびる。一本目のアルゼンチン作品、二本目のギリシャ作品共々、 終わりと同時に拍手が湧く。いよいよ『K.』の上映が始まる〜 上映中から嫌な予感はしていた〜妙に客席の間から咳払いが聞こえるのだ。 案の定クレジットが出ても拍手は数えるほどしか無く、 とどめにブーイングまで一つ食らった。これで完全に打ちのめされた私は、 次のポーランド作品を観ながらだんだんと腹が立ってきた〜 どう見たって所謂BGVでしかないのだ。 それでも最後のナレーションに意味が込められていたらしいのだけれども、 映画で最後のナレーション(ポーランド語。字幕はフランス語で僕にはさっぱりだった) に意味を頼るようじゃ…と思ったところで満場の拍手。 あまりにショックが大きいと無性に眠くなる私は、 このプログラムが終わるとホテルの部屋に戻り、夕方まで寝込んでしまった。 あとで人から聞いた話だが、肩を落として劇場を出る私たちジャポネを、 審査員の一人である女優のソルベイグ・ドマルタン(ヴェンダース作品で有名) が後ろからじっと見ていたそうだ。
目が覚めるともう外は暗くなっていて、気が進まぬままベッドから這い出して 待ち合わせ場所へ向かった。運良く前日から知り合いになっていたパリの日本人留学生に 通訳をお願いして、近くのスタジオに場所を移してインタビューは始まった。 その中で「チャップリンに会ったら何を聞きたいか」という質問があり、私は、去年、 あなたの伝記映画『チャーリー』を見た。劇中、映画がサイレントからトーキーに どんどん移行していった時期にマネージメントしていたお兄さんから 「なぜトーキーを撮らない?今時声の出ない映画を誰が見る!」と言われたのに対し、 "あなたが「世界中の九割の人は英語が話せない。僕はそういう人達の為に映画を創る」 と答えるシーンがあったが、あれは本当のことなのか、と聞いてみたい"と答えた処、 インタビュアーの女性他、スタジオのスタッフ達も大きく頷いてくれた。 これは「自作の上映を見てどうだったか?」という質問に対し、 "他の作品に対してあった拍手がなく大変にショックだった。 確かに自分の作品が他の作品のクレジットタイトル分位の予算しかかかっていないのは明らかだが、 しかし他の作品が〈ジャンル〉としての映画に挑戦しているとは思えなかった" と答えたことと相まってとても効果的だったと思う。 インタビューのことをついでに書くなら、 「好きな監督に会ったらあなたはどういう行動にでるか?」という質問には、 パリでロマン・ポランスキーに会えたら、ぜひ話掛けてみたい"と答えた。 結局、パリで彼に会うことはなかった…
スタジオを出ると、僕達三人と通訳をしてくれたAさんとその彼女のBさんとの五人で、 会場横のカフェのテーブルに着きビールを注文した。僕にとって長い長い一日だった、 と同時に、昼間のショックが随分と和らいでいることに、美味いビールを飲みながら気付いた。 インタビューを受けて本当によかった。

次の日の朝会場に向かっていると、審査員として参加している日本の大久保賢一さんが 「観客の反応なんていい加減なものだから気にしないほうがいい。 審査員の間でもなかなか面白く観たという意見もあるから。 特に主演の女優は評判がいいようだよ」と声を掛けてくれた。 これはまんざら慰めだけの言葉ではなかったらしく、同行していた主演のその女性が、 やはり審査員の一人であるロイ・アンダーソンに握手を求められたと後で本人から聞いた。
午後には、ドイツ在住で日本の『シネ・フロント』の女性の記者の方と話す機会があり、 映画祭についていろいろと聞くことができた。 クレルモン・フェランはフランス文化庁の主催で、今やショート(短編)では 世界最大のフェスティバルだということ。そしてヨーロッパ、特にフランスでは たとえ短編といえどもプロのスタッフがつき、役者も すでに国内ではスターと言われる人達が出演しているのだと。 道理でホテルといい、審査員の顔ぶれといい、会場の設備といい立派なはずだわと納得。 パーティーも、多い日には三回もやっていたようだ。 フランス部門の作品なぞはあらかた35mmプリントで、インターナショナル部門でも 三分の二くらいは35mmではなかったか。ラストクレジットがローリング (スタッフ・キャストがゆっくりとせり上がってくるアレ)は当たり前。 なかにはシネマスコープの作品まであった。どうして私のチープな作品が選ばれたのかと、 今さらながらに不思議に思えるくらいだった。 観客数も最終的には十一万人を突破したと聞いた(去年が六万二千人)。 それからの五日間は、気になるプログラムを見たり、フィルムマーケットに 顔を出してみたり、夜は市内でチュニジア料理のクスクスを食べたり、 質素なインド料理店へ行ったりと気楽に過ごした。フェスティバル四日目と六日目に 二回目・三回目の上映があった我が『K.』は、今度はどうしたことか なかなかの拍手を受けていた。例のインタビューでも流れたのか? それにしても一回目の上映であれだけ拍手を受けていた他の作品にまるで拍手がなかったり… なるほど、観客なんていい加減なものなのかもしれない。

ここで、私が観た作品の中で印象に残ったものを紹介しておこうと思う。 まずはフランス部門だが、インターナショナル部門中心に追いかけていた為、 こちらはあまり本数を見ていない。しかしあった! 〈TROUBLE OU LA JOURNEE D'UNE FEMME ORDINAIRE〉という作品。 ある日の午後母親に連れられてプールに行った少年が、その母親の浮気 (更衣室でのセックス)を目撃する、というだけのストーリー。 当然セリフはフランス語なのだが、これがストーリーも、感情の流れまでもがよくわかる。 お喋りなフランス映画にもまだ良心はあった、とほっとした。
インターナショナル部門では、エジプトの〈LA FIANCEE DU NIL〉という作品に泣いた。 少女(カタログには十二歳とあった)がナイルのほとりで少年と出会う。 が少女は老人のもとへ嫁がされることになっている。その結婚の儀式の最中、 少女は逃げ出し、翌朝、花嫁姿のままナイルに浮かんでいるところを発見されるというお話。 コンペ部門以外にもロイ・アンダーソンの特集上映だとか色々あったのだけれども、 イラン映画特集で観たアッバス・キアロスタミ (『友だちのうちはどこ?』『そして人生は続く』)の短編には舌を巻いた。 映像と音の強弱で語り尽くしてしまうこの監督の映画センスはやはり群を抜いていた。
日本からは私の他にもう一本、何とアノNHKのハイビジョン部門から 監督ナカザワヒデオで出品されていた。ハイビジョンをふんだんに使ったどう見ても [億]はかかっている(自社の機械を使っているだろうから一概にはいえないと思うが) というシロモノだが、皮肉なことに日本から LOWEST BUDGET ONE と HIGHEST BUDGET ONE が出ていることになってしまったようだ。NHK関係者は来ていなかったみたいで、 残念ながら会うことはできなかった。 そういえば、参加国で配給会社が来ていないのも日本だけだった…

最終日の授賞式。ジャン・コクトー劇場のスクリーンにジャン・ジャック・ベネックスと ジャン・ジュネが現れ、メッセージを述べる。当然何を言ったかさっぱり解らない。 その後壇上に審査員他、関係者がズラリと並ぴさすがに華やか。 審査経過等読み上げているらしいのだが、こちらもさっぱり。 ドマルタンとフランス部門の審査員でこれも女優のクレア・ヌボーがいちいち マイクに近寄ってきて、華を競い合っている感じだ。賞の発表と監督の挨拶が済むと、 二部門、それぞれのグランプリ作品の上映があった。インターナショナルの方はともかく、 フランス部門のグランプリには憤慨した。登場人物のアップとセリフのオンパレード。 これがまたフランス人の観客に大受け。小噺を競っているわけじゃないのに… 今度志ん生の落語アニメが出来たそうだが、出品すればグランプリ間違いなし --- そう思った。例のポーランド映画が賞を獲っていたのにも愕然とした。先述した、 フランスの私の一推し映画がCANAL+賞というテレビ局の賞をもらったのも 皮肉といえぱ皮肉だった・・・映画的だったのに。

振り返ってみると、今回の映画祭参加はいろんな意味で勉強になった。 最初の上映が大変なショックだっただけに、あとはリラックスして眺められたと思う。 よく友人に言うのだが、今回は相撲に勝って勝負に負けたのだと。もっと言うなら、 曙に勝つという大金星を挙げた大翔山がそれでも親方衆に悪く言われている気分だと。 日本の変なアマチュアリズムが通用しないことも痛感した。 創る以上はプロフェッショナルなものを創らなければいけないのだ。しかし私は、 この世界によくある"紹介"や"推薦"を使わず、まったくのコネなしで自分で手紙を書き、 予備審査を通し上映作品に選ばれたことを誇りに思っている。

現地ではいろんな人と知り合い、お世話になった。先述した大久保賢一さん。 いつも優しく声を掛けてくださったその奥さん。『シネ・フロント』の近森邦子さんは、 ベルリン映画祭へ行くと言って途中で帰られたが、アグレッシブでとても格好良かった。 留学生のAさんとパリジェンヌのBさんには 食事の注文にまでお世話になった。フェスティバル事務局の クリスチャン・ギュイノーさん、インタビューのスタッフの方々、彼らの笑顔と "ボンジュール"にどれだけ救われたか。そしてお互い下手な英語で話し合った ドイツのジョーン・ステッガー監督と、英語の達者な韓国のキム・スンス監督。 彼らとは連絡先を交わし合った。
それから、黒づくめでミニスカートにハイヒールという、私の目には一番流行遅れに映った 『流行通信』のパリ在住の女性記者に冷たくあしらわれたことも付け加えておこう。 フェスティバルも最後のほうで来た彼女は、案の定、グランプリを獲った監督に、 にこやかにインタビューを採っていた。一体映画は何本見たのだろう? 何処かの国の配給会社の商売のやりかたを見た気がした。

チャップリンは件(くだん)のセリフを言ったあと、初めてのトーキー 『モダン・タイムス』を撮った。私もそのチャレンジ精神を失わず次回作に取りかかるつもりだ。
だからこの文章を読んだ人で、誰か連絡を下さいませんか?


松永敏郎
一九六四年生まれ。二九才。
早稲田大学卒業後、個人プロダクションに半年勤務。 その後、肉体労働で生計を立てながら、シナリオ、キャメラ、フィルムの特性など、独学。
九二年、第一作にとりかかるが、資金不足であえなく頓挫。
九三年、短編映画『K・』を撮影、完成。この作品で、今回レポートした クレルモン・フェラン国際短編映画祭に参加。

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