女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
22号 (1992.04)  pp. 50 -- 51

「ジャングル・フィーバー」

勝間

公開が一ヵ月遅れたけれど、待たされた甲斐はあった。 私は何ヵ月も前からS・ワンダーのテーマ曲を聴いていたので、 オープニングのメインタイトルからしてノリまくってしまった。

出てくる人々がみんな可笑しい。 主人公フリッパーのおませな娘、ヒロイン・アンジーの頼りない兄さんたち、 フリッパーの友人(スパイク・リー自身が扮する)、 アンジーのボーイフレンド・ポーリーの店のお気楽な常連たち、などなど。

逆にポーリーや、彼が魅かれていく知的な黒人女性オリンのようにまともな人もいる。 あるいはフリッパー、アンジー、ポーリーのそれぞれの父親たちのように、 偏見で凝り固まった古い世代。 娘が黒人男性と交際していることを知った父親(イタリア系)がアンジーを殴る場面がものすごかった。 人種間の確執の深さを思い知らされた。 現代の日本の父親はさすがにあそこまでしないだろうと思うが、 昔はそうだったろうし、今でも勘当騒ぎぐらいは起こり得るから、 他人の国のことをどうこう言えないけれど。

一方、夫・フリッパーの不倫を知って傷ついたドリューを慰める友人たちの会話の場面で、 友人それぞれの個性が躍動していて面白いなと思ったら、 シナリオなしのフリーディスカッションで撮ったのだそうだ。 「黒人の男どもは白人の女を連れて歩きたがる」 「黒人の中でも肌の色の薄い女の子ほどモテる」 (同様にイタリア系の男たちに言わせると 「イタリア系の女は皆ロバート・レッドフォードやハリソン・フォードやウィリアム・ハートが好きなんだぜ」、 つまりWASPばかりがモテるということ。 私自身はこの顔ぶれは好きではないので笑ってしまった)。 では色が白に近ければいいのかというとそうではなく、 ドリューは白人と黒人の混血で子供のころに心ない言葉を投げ付けられ、 つらい思いをしたのだという。 混血というだけで黒人社会の中でさえも差別の対象になってしまうのだと私は初めて知った。

この女たちの場面は大いに共感を覚えたが、古い世代のフリッパーの父の考えには、 何もそこまで…と思った。 昔、白人の農場主は奴隷の女に手をつけ、 夫から顧みられない農場主の妻は黒人の青年の腕に抱かれることを夢見ていた。 それが現代も続いているのだと。 昔はともかく、今はかなり変わってきているのだし、第一アンジーはイタリア系で、 イタリア人の農場主なんて当時はほとんどいなかっただろうし。 アンジーを当時の農場主の妻と同一視するのは暴論だ。 神に仕える善人の彼にさえ、そんな考え方を植え付けるなんて、と改めて差別の歴史を思う。

周囲に見捨てられ、二人の愛情生活が破局を迎えた時、フリッパーは自嘲気味に言う。 「僕とつきあったのは黒人に興味があったからだろう。僕も白人に興味があった」と。 父の考え方に同調せざるを得なくなってしまったのだ。 しかし私にはアンジーにそんな下世話な願望があったとは思えなかった。 ただ何の打算もなく、目の前にいるフリッパーに魅かれただけだと思う。 幼なじみのポーリーに恋人としての物足りなさを感じていて、 フリッパーに気持ちが傾いたと言った方が正しいかもしれない。

本当はポーリー(今注目のジョン・タトゥーロが演じている)みたいな人が一番いいんだと思う。 アンジーにふられて泣くことができるポーリー。オリンの知性に素直に魅かれていくポーリー。 皆がこうならいいのに。オリンとのことをからかう友人たちと乱闘になってケガをしても、 「クズにつまづいただけさ」って笑える彼はすてきだ。

ところで、この作品で初めてスパイク・リーが麻薬の問題に触れたということに賛否両論あるらしい。 確かに最後にフリッパーの兄で中毒者のゲイターの死で終わらせたのは、 異人種間恋愛からのテーマのすり替えだと怒る向きもあろうが…。 だが私はこの作品を群像劇、あるいは4つの家庭劇(フリッパー&妻子、 アンジー&父と二人の兄、ポーリー&父、そしてゲイターとフリッパー兄弟&両親) として見ていたので、私はテーマのすり替え云々とは思わなかった。 父を苦しめ、母を泣かせ、弟を悩ませるゲイターは、 アメリカの一般の家庭で決して珍しくなくなった光景の一部なのだろう。 アメリカを描くときに麻薬は避けて通れない問題なのだ。

フリッパーの家の近くの歩道では、 中毒の女が麻薬を買う金欲しさに通行の男に体を売ろうと声をかけている。 そういう場面は二度あって、初めは彼が娘を連れて歩いていた時で、 彼は嫌悪感で一杯になって女を突き飛ばし、思わず娘に 「麻薬をやるな、やったら殺してやる」と口走る。 幼い娘に将来ああなってほしくないと思ったのだ。 だが最後の場面で同じように擦り寄って来た中毒の女をフリッパーは抱きしめ、 天に向かって「No!」と叫ぶ。麻薬のせいで兄を失った彼は、 中毒者すべてに対し嫌悪感ではなく哀しみを感じるようになったのだ。 私にとっては賛否両論なんて吹っ飛ぶラストシーンだった。 パンフレットで複数の人達が指摘しているように、 次回作「マルコムX」につながるラストシーンなのかもしれない。

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