女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
19号 (1991.06)  pp. 2 -- 14

◆特集 女が一番似合う映画〜ここが一番似合わない〜




昨年『女が一番似合う職業』という桃井かおりが『グロリア』ばりにハードボイルドす るというふれこみの映画があった。女のアクションという着眼点はよかった。女が銃をかまえる姿には男のそれとは全く違う意昧でのカタルシスがある。それは女にとって胸のすく光景である。だからこそ女のアクション映画に熱烈なる拍手を送るのは女の観客なのだ。

ところでこの『女が一番似合う職業』の桃井かおりに果たして女たちは拍手を送りたくなったのだろうか?????

この映画での桃井の役どころは女刑事。つまり「女が一番似合う」というのは刑事らしい。女刑事、なかなかかっこいい響きである。ところが映画の中の彼女ときたら全然颯爽としていないし、あまりタフとも思えないし、女として共感できない部分があまりにも多いのだ。

例えば、彼女は夏だというのに修道女のように肌をかくす黒っぽい服を暑苦しく着込み、仕事で気弱になってついつい妻子もちの同僚にすがって泣きながらセックスしてしまったりする。

最近の映画で増えている女が主導権を握るセックスシーンには女の性を肯定する明るさがあり、見ていて気持ちいいものがある。ところがこの女刑事は、さみしさからかあるいはもっと別の感情の起伏を表現したかったのか、突然泣き出してすがるように男と寝てしまう。こういうかっこ悪いセックスはできれば見たくはないものだ。特に映画の中では…。

極めつけには凶悪犯の少年とも情交を結び、少年の子どもをみごもり風船のように膨らんだお腹をかかえて犯人である少年をおって全速力で走り回ってしまう。ちょっと待って、なんでこんなことになってしまったの、という唖然とした思いの中、映画はエンドクレジットを迎える。

映画『女が一番似合う職業』で桃井かおりが女である必然性は、実にこの大きなお腹をかかえて走るという点でしかないように思えた。ここには『グロリア』のジーナ・ローランズや『エイリアン2』のシガニー・ウィーバーや『ニキータ』のアンヌ・パリローが突き付けられたどたんばの決断と捨て身の切実さがない。それこそ女がアクションに駆り立てられる必然性であるのに。

かくして女のアクションは日本映画において敗北と終わってしまった、ように思う。なぜそうなったのかといえば、やはり今の日本映画が女に対して正しいアプローチがなされていないからではないだろうか。

映画の中で喋ったり、泣いたり、怒ったり、あるいは黙ったりする女たちに、見ている女が心底引き付けられるのでなければ「女が似合う映画」とはいえない。

女が心底引き付けられるような女がでてくる「女が似合う映画」をやはり見たいではないかというわけで、最近話題の日本映画をワイワイガヤガヤと料理してみた………。トークを読んだ読者のみなさんの御意見はいかがなものでしょうか。


女たちで ワイワイガヤガヤ…

中年の女男のからみが面白い!!
でも、ただそれだけの・ような

『おいしい結婚』

参加者: 地畑(二〇代)、大牟礼(二〇代)、出海(四〇代)、佐藤(四〇代)

◆パッとしない斉藤由貴

佐藤「小津の映画で原節子が鎌倉かなんかに住んでる未亡人でその娘の結婚を考えてやる中年の男たちという映画『彼岸花』を観たことがあるけどそれによく似てるんだ。原が現代版三田佳子で三田の方がもてちゃうのね。三田の生き方はなかなか魅力的だった。同時代のせいかしら」

大牟礼「いえ、やっぱり斉藤由貴はなんかね、パッとしない役だったですね」

佐藤「あら若い人がみてもそう? なんか主体性がないみたいな感じなのね」

地畑「もっとちゃっかりしてるとか、全部母親におまかせっていうね、そんな感じでもないし、なんか中途半端なのね」

出海「母娘の関係で観るとやっぱり三田佳子がとんちんかんだと思ったわ。リアリティがないでしょ」

佐藤「ないない、でもない風に演出してる面もあるんでしょうけど」

出海「冠婚葬祭に関するいろいろな本を買うのがはじまったでしょ」

佐藤「あれは、なんていうの現代版結婚マニュアルみたいで一番気にくわなかったわ。でも未亡人をめぐる三人の男、田中邦衛もいれると四人かな、彼等がよかったからまあまあだった」

大牟礼「そうそう、男の人がよかったですね」

佐藤「男三人の奥さんもリアリティがあったわ。三田のところに行くことがわかってても“いってらっしゃーい、バイバイ”なんて車の姿がみえなくなるまで見送るなんて人、いなそうで結構いるのよね。留袖買ってもらえるんだったらお仲人やってもいいわっていう奥さんもしらけてて面白かった」

出海「中年の会話は面白かったけど、男の子もよかった。みかけは細くてなよなよしてるけど、受け答えとか彼のセリフがすごく現代風だったわ」

大牟礼「ええ、私も彼はあの映画の中で役として生きていたと思う。だから同じように素人っぽいというかあんまり役者じゃないような女の子がくればよかったんだけど」

佐藤「だけど、斉藤由貴も素人っぽく、ねざとやってたじゃない」

出海「浮いてるのね。ほんとに子どもなのかわかっててとぼけてるのかよくわからないのね」

大牟礼「変にうますぎるのよね」

出海「新人連れてきてやった方がよかったんじゃない?」

大牟礼「牧瀬里穂みたいな子が…」

出海「ああ、ああいう感じがいいわね」

地畑「ようするに、斉藤由貴がミスキャストだったってことなの?」

大牟礼「ミスキャストっていうか…でもこれは最初から三田と斉藤でやろうって企画ではあったらしいんですけど」

出海「他がうまくできた割には斉藤由貴が浮いちゃったっていうのはキャスティングの問題になるわね」

地畑「ようするに他のところではリアリティが出ているのに由貴でだめになったと…彼女はあの年代にしてはリアリティのない子なのよね。浮いてるのね、斉藤由貴自身が…」

大牟礼「同世代にも、うけが悪い」

出海「悪いと思うわ。重もったるいんだか、軽いんだかわけわかんないのね」

大牟礼「だから女優として映画で出てくるといいんだけど、あの役にはちょっとという感じがしましたね」

◆労働者なんて言葉は古い!!

出海「トレンディな結婚ということをああいう風に描いたのだけど、若い世代のあなたたちが観てああいうのがトレンディな結婚観なのかしら」

大牟礼「ああいう結婚観というのはわかるような気がします」

地畑「森田監督は三高(高学歴、高収入、高身長)にこだわっている女の子が多いのを皮肉っているんじゃないですか」

大牟礼「でも口では三高なんて言っててもみんな実際は、なんとなく弾みで結婚しちゃって、親のためにいい結婚式でもして…っていうのが多いんじゃないんですか」

地畑「そうそう、私の友だちもみんなそんな風に結婚したわ」

大牟礼「それがいいとか悪いとかいうよりも割とみんなサバサバやっているんですよ」

佐藤「でもあの男の子にリアリティがあるっていったって、あの男の子も三高じゃないの。まあ、家は離別による欠損家庭だけれどね」

大牟礼「でも、あの男の子をエリートでなくしたら映画自体がみじめっぽくなっちゃうもの」

佐藤「そんなことないんじゃない。昔はエリートなんかじゃなくて労働者の息子とかの方がもてたのよ。私なんかあんなエリートな青ちょろい男みても全然魅力を感じないんだけど…中年の男たちの方が魅力あったわよね」

出海「若い人たちはどうなの? ああいう男の子が今は魅力なの?」

佐藤「エリートだけでもてるって感じの?」

出海「いえ、彼はエリートぶってないからもてるんじゃない。あれくらい腰が低くて安定感のある人はなんていったって今はもてるんだと思うわ」

地畑「好感度が高い」

佐藤「エリートならいいってわけ!(声を荒ら立てる)いい大学を出て、大会社に入ってるっていうだけで気分が悪いわよ」

出海「キャラクターがいいってことよ。彼がたとえばコーラを運んでいるおにいちゃんでも好感度があるってことなの」

大牟礼「でもそれだとTVドラマのありふれた話になちゃう」

地畑「ある程度クリーンなイメージをださなくちゃいけないんじゃないかと…」

佐藤「クリーンななによ」

大牟礼「今様な結婚を描いているわけで…」

佐藤「労働者とか貧乏な男では古いというのね」

地畑「今、労働者という言葉は古いんですよ」

出海「あんたの貧乏ってどういう男よ」

佐藤「つまり…労働者出身…よく(爆笑)大体あの男はエリート然としてて気にくわないの、安定してる感じっていうのも気にくわない」

◆『おいしい結婚式』の題名にしてほしい

大牟礼「ふつうよりもちょっと上の人の結婚ではあるけど普通の人が見ても、ああ上だなーとかああいいなーなんて別に思わない」

佐藤「今は昔かなわなかったからみたいな感じで派手な結婚式をしてるんじゃない、みっともない…バカバ力しいから式は豪華じゃなくていいんだと言ってるのはよかったと思うけど」

大牟礼「最後の華美でない自然のなかでのセレモニーをまああそこを一番みせたかったわけで…」

佐藤「だいたいあの若いふたり、一緒になってすぐわかれちゃうんじゃないかって思うわ」

出海「別れようがどうしようが、そんなこと関係ないって思っちゃうけど。あの斉藤由貴が奥さんになったらどうなっちゃうのかって思うわ」

佐藤「こんなこと女にやらせるのなんて、えらそうに自立してる女のようにいってる割にどうってことしてない」

大牟礼「普通の今の女の子はそういう風にいうわけ」

地畑「言う言う」

大牟礼「でも、それを言う斉藤由貴にリアリティがないから、浮いちゃう」

出海「家に帰っても存在感ないしね。三田の質屋の方が存在感があるわ」

佐藤「大体この映画、式がどうこうってことばっかりいってて結婚の中身の討論というかどういう家庭を作るのかなんてことがないのよ」

大牟礼「でも結論自体が結婚の仕方が結論なので、結婚にこぎつくまでのゴチャゴチャがテーマなのだから、他のことは関係がないわけなんですよ」

出海「結婚ってこういうものですってことくらい…なにも残らないのよ。山での式を最後にもっていきたかったのね。だったら、題も『おいしい結婚式』にすればよかったのにね(笑い)
今の若い子の結婚生態を描いてみましたって、いうならこれは単なるルポライターよね。ルポライターでいいんならいいけどやっぱり映画作家といわれるようになるためには自分はどう観るかってものがなくてはだめだと思う。『それから』でもムードとか衣裳を今風にしたらどうかということばかりが先にあって男と女の関係を深く捕えるということはないのね」

地畑「森田監督は若い人に対して結婚は愛情が大事ということをいいたかったみたいですけど」

佐藤「かっこつけて、三田が娘は私に似て“愛を重んじているようです”とかいうシーンがあるけど、すごくパロディっぽくて笑ってしまう。三田と三人の中年男の絡みはよかったけど、若い人が浮いてしまった感じ…」

大牟礼「では、とりとめがありませんが今日はこのへんで終わりにさせていただきます」



『おいしい結婚』シネマメモ
   監督・脚本 森田芳光
   撮影    前田米造
   出演 三田佳子 斉藤由貴 唐沢寿明 小林稔待 橋爪功 斉藤晴彦 田中邦衛

三田の娘斉藤の結婚について三田の亡夫の親友の三人が三田と共に考えてあげるというお話。宣伝文句は「平成ニッポンの結婚事情を森田芳光がスルドく切る!」とのこと。


『グッバイ・ママ』

企画:佐藤光夫
製作:奥山和由
監督:秋元康
脚本:秋元康/寺田敏雄
撮影監督:鈴木達夫

証券会社のアナリスト、かなこはバリバリのキャリアウーマン。
湾岸の高層マンションで一人暮らし。医者の恋人と大人のつきあい。その上ニューヨークヘ栄転…そこへ、前の恋人の子供の出現でかなこのキャリアは…

◆日本の女優にアナリストは似合わない

大牟礼「出海さん、ご推薦のグッバイママをどうぞ!」

一同「(爆笑)」

出海「やだな、私はただ回りをはばからず泣いてしまったと…」

佐藤「しどろもどろしないでよ。(笑い)」

出海「二度見まして、二度とも同じ場所で泣きました。子供が『行ってらっしゃーい』と言う場所です」

佐藤「それ子供が出るからじゃない? 私なんか子供の出るものは必ず泣くわ、感情移入してしまうのよね」

大牟礼「いけませんね。そういう泣かせ方は」

出海「でも、それだけでなく、彼女がニューヨークヘ向かう時、仕事の不安、厳しさ、孤独感、宿命…なんかがひしひしと伝わってきて身につまされた」

佐藤「でも見てないで言うの悪いけどそれ宿命ってほどのことじゃないんじゃない、たとえば『怒りの葡萄』のお母さんじゃないんだから」

大牟礼・地畑「『怒りの葡萄』!! やめて下さい(爆笑)」

佐藤「金持ちのくせに何でかわいそうなの!」

大牟礼「いえ、そう言うことじゃなくて(笑い)私は、話しにリアル性が全然ないと思うんです。キャリアウーマンとしてやるんならもっと若くすべきだと思います。あの年で結婚だとか恋 だとかでウロウロするの変です」

出海「だから、してないと思うけど、松坂慶子は」

大牟礼「でも友達の渡辺えり子はしてましたよ『私、やっぱり結婚だわ』なんて言って。私、前に証券会社に務めていて、回りに女性のアナリストたち知ってるもん。だから、かなこって変」

地畑「アナリストって相当頭が切れないとね」

大牟礼「あそこまでになるなら、もう恋も知らず、ガンガン勉強しないと無理ですよ。それで、ふっと我に返って『あー私の人生はなんだったんだろう』ってくるならわかるけど、松坂慶子 だとなんだかあかるくて庶民的で頭が切れるようにはちょっと見えないし、やっぱり変」

出海「私はそれほど変には思えなかった。妙にリアルなところがあっておかしかったわ。彼女がニューヨークに発つ時、男に言うでしょ『一緒に来て』って。その後『冗談よ』って笑うところなんか大人の恋愛のちょっと屈折した女心が出ていて面白かったけど」

大牟礼「でもあの人じゃあ…」

出海「彼女だからいいのよ。私、ファンになったわ。あれが倍償美津子だったら大変(爆笑)」

佐藤「いしだあゆみは?」

大牟礼「いやですよ、貧乏たらしい」

出海「吉永小百合は?」

一同「(大爆笑)」

地畑「日本にはいませんよ。ほら、友達が『あんたと子供は合わない』っていうわよね。ところが彼女には合っちゃうのね、ぴったり」

大牟礼「だから、それなら母性に目覚めるとかにすればいいんですよ」

佐藤「あ、岩下志麻は?」

大牟礼・地畑「キャー(と悲鳴)」

大牟礼「それだけは止めてください」

◆二〇代と四〇代、映画の見方がこうも違う

出海「でもあれは、疲れをいやしてくれる映画ですよ。ボーと見ていてもあれだけ泣かせてくれるんだから、気持ちいい映画ですよ」

地畑「テレビの乗りですね」

出海「今までテレビにはあって映画にはなかった映画ね。テレビ向きだとかいってバカにしていた世界の映画。でもこれからはああいうやつもどんどん映画になって欲しい。私なら見にいきます。とにかく色々な映画が必要なの」

地畑「でも、やっぱりあの設定は気取りすぎで嫌い」

大牟礼「セリフもピンとこなかった」

地畑「竹内まりやの『リクエスト』に頼り過ぎですよ」

大牟礼「監督は作詞家として売れてる人なのでもう少し才能ある人かなと思ったけどあたり前の人で、あたり前の映画でしたね」

出海「じゃあ、あなたたち20代の人ってあの主人公みたいな女をいったいどう思うわけ、自分もそのうちなるんだろうけど」

地畑「だいたい、いませんねああいうキャリアウーマンは、日本には」

出海「いますよ、官庁や専門職分野探せば」

佐藤「いると思うわ。マスコミ関係にも」

大牟礼「私の知ってる、さっき話したアナリストの女性は秘書で最初入りまして、やる気満々で頑張ってボーイフレンドもつくらないで仕事一筋です」

川海「じゃあ、男がいたらどうなるの?」

大牟礼「もうそっちへ行くんじゃないですか」

出海「それではだめ」

佐藤「そうよ、だめよ。それじゃあ一つしかないじゃない。バッカじゃない。いないから仕事やってるようなもんじゃない、かわいそに(大爆笑)」

川海「彼女、仕事も男も頑張っているじゃない。自然に。緒方拳もそういう彼女にしつこくまとわりりつかないで見守っているじゃない。結構、苦労しながら、それがおかしくでてるんで笑っちゃった」

地畑「でもあのおじさん、ずれてるし、ずるい」

大牟礼「私もそう思います」

出海「どうして? 中年のロマンチシズムがうまく出てたじゃない。若いあなたたちにはそう映るのかな。さっきから感じていたけど、佐藤さんや私のような子持ち40代の女と若いあなたたちとでは、女に対する見方が随分違うものね。びっくりしてるところよ」

地畑「あの女性に関しては何とも思いませんね」

出海「では、どういう女なら憧れるわけ?」

地畑「ダイアン・キートンみたいな生き方の女性ですね」

出海「どこが違うの」

地畑「自分をもっている、松坂慶子の場合自分がないんですよね」

大牟礼「要するに、松坂さんの場合は仕事もアクセサリー。ダイアンの場合は意志的に仕事している」

佐藤「『赤ちゃんはトップレディがお好き』では、彼女競争社会を拒否して自分の立場を貫いたでしょ。松坂さんはホイホイニューヨークヘ行くじゃない」

出海「なぜ、それが悪いわけ?」

佐藤「だから、洋画をみなれていると日本映画のこういう向こうを真似たみたいなところのアラが見えちゃうのよ」

大牟礼「ですから、どうせなら純日本風の方がいいんじゃないかって」

地畑「かなこはあの男の子にまで頼ろうとしてるでしょ」

大牟礼「一緒に寝てあげないで、ずーとソファに寝かしてるんだもんね、母性もない」

出海「初めから、そういう形の母性はでてこないのよ、この映画は」

地畑「だから、つまらない」

出海「どうして。なくてもいいじゃない」

佐藤「母性がある方が普通だと言ってるんでしよ、あなたたち」

地畑[いえ、だから、どんな女性なのかわかんないと言ってるんです」

大牟礼「そうですよ。頼ってみたり、一方ではバリバリ仕事する女だったり」

出海「ああいう女性が本当はしたたかな女性なんじゃない。肩肘をはらないで、自然体で、男ができてもコロッといかない」

大牟礼「やっぱり、洋画と比べるからいけないのかな。でも設定があれですもの。松坂さんなら、日本風の職種がよかったんじゃないかな」

佐藤「そうね、『キューポラ』じゃないけど」

大牟礼・地畑「『キューポラ』!!(爆笑)」

佐藤「地味な仕事だって言ってんの」

大牟礼「ええ、外資系でしょ、あれは。でもだったら制服の女の子が上司の女性にお茶を入れたりしませんよ、絶対。女同志を差別化して何ですか、いったい」

地畑「それから、あの家の冷蔵庫の中!(笑い)」

大牟礼「そうそう、KINOKUNIYAか何かで買った横文字の食品の中に『一番搾り』がボンボンあって(爆笑)」

佐藤「バカみたい、協賛してるんだもん」

◆こういう映画が楽しみ

出海「なんだか、私も弁解してるみたいでバカらしくなってきちゃった(爆笑)でも、気を取り直していいますけど、あの女性は不倫ばかりしてるでしょう。それが堂々と主人公になっててどろどろしてないところがいいじゃない。大牟礼さんが、どうせなら母子ものにしたらと言ったけど、これは、現代の母子ものですね。昔は血は水より濃いとかで血の繋がりがスゴイのね。でも今は水が血より濃いこともある。ラストは、男と子供と女が別々の生活に戻っていくでしょう。三者はともに生きる器がない。意志でしっかり繋がってないとバラバラになってしまう関係」

佐藤「設定としてはいいわ、すごく」

出海「昔の三益愛子の母子ものじゃないけど、同じなのね。あれをうまく今に置き換えて観客をワンワン泣かせている」

大牟礼「確かに回りの人達は泣いてましたね」

出海「泣いたからいうわけじゃないけど、これまでの辛気臭いキャリアウーマンが出てくる日本映画に比べたら普通っぽくてよかったわ。設定だけでなく、意志を伴ったこういう女が出てくる映画がドンドン続きますように」

大牟礼「ではこの辺で…」

(担当 出海)


『赤ちゃんはトップレディがお好き!』VS『グッバイ・ママ』

◆トークの後で…

『グッバイ・ママ』が『赤ちゃんはトップレディ…』の色々な部分をいただいているのは確か。例えば、主人公がオフィス街を風を切るように歩いて来るファーストシーン、スーツできめた松坂さんの外型(衣服のセンス)、栄転真近か知り合いの死で子供が転がり込むシチュエーション、医者の恋人…、子供の出現でこれまでの生き方を振り返るなど…大きな違いは子供の年齢。だから『グッバイ・ママ』は「焼き直し」。だけど、うまく日本風にアレンジしているのも秋元康の特異な才能だろう。

秋元康といえば、うちの息子が高校の時、雑誌の広告をみて『秋元康作詞教室』に入会してしまい、月々2980円を郵便振り込みしていたことがある。一ケ月でも遅れるとNTTと同じで催促の手紙が届く。ニケ月でさらに厳しいとりたての文面、三ヶ月で法的手段をとりますと脅される。私はそれが怖くて息子をなじりながら全部払い終えたけど、送られてきたのは教科書と思われる大きな本と原稿用紙、つくづく商売の方も上手な人だと変に感心してしまった。

話しがそれましたが、この『赤ちゃん…』のダイアンて、そんなにいいキャリアウーマンとは思えない。なんだか、子供ひとり面倒みれなくて何がキャリアだと笑われてるのも知らず必死で走る馬みたい。若い人たちからバカにされそうだけどダイアンは松坂慶子といい勝負だと思う。特に、会議中にベビーシッターからかかって来た電話での彼女の狼狽ぶりや、おしめがうまくいかずバンバン捨ててしまう感覚。田舎でのサムシェパードヘの甘えぶり…。子供が出現したって色々方法はあるんだから慌てず、仕事を失うほどに狼狽せず、シャーシャーと仕事してこそキャリアウーマン。生活予知能力というか日常感覚を失わない女性のことじゃないでしょうか。アメリカではあらゆる分野で黒人を必ずメンバーに加えるように女性をメンバーに加え社会のバランスをとるやり方があるそうだ。映画でも何人黒人を出したか、女性の扱い方に不平等はないか…それはつまり、黒人も女性もアメリカ社会ではマイナーなことを意味している。日本はまだそのようなバランス感覚すら乏しい。キァリアウーマンといわれる人は日本よりアメリカの方が多い。特に、ダイアンのような企業内でのバリバリのキャリアウーマンは絶対的にアメリカが多い。日本の第一線の女性の多くは専門職、例えば看護婦、教員、弁護士、そして公務員。残念ながら企業にはほとんどいない。そこがアメリカと大きく違うようだ。なぜ企業内に女性のキャリアがでにくいか…それには家制度の問題や、働く男と女の意識、社会の慣習などアメリカと比べるにはあまりにも違いすぎるバックグランドがあるためだ。そういうことを色々考えてしまうと、松坂慶子とダイアン・キートンを映画で比較すること自体おかしいことなのだ。だから、こういうものは、見終わったあとホットして楽しくなるのがいい映画。その点では2作ともいい映画だと思うんだけど…。

(出海)



確かに子供ひとリさえも面倒見切れないダイアンは、母性という面からみた女性という点では、失格だろう。おしめもろくにできない、成長の過程さえも知らない。これでは、『赤ちゃんに乾杯』や『スリーメン・アンド・ベイビー』の男たちと同じだ。しかし、実際のところ、女性の特権が全くない(例えぱ教師のように産休が長くとれるといった現実がないのがほとんど)激しい企業の競争社会で男と伍して勝ち抜いていこうとしていたダイアンのように結婚はともかく、出産や育児を自分の入生設計から外していた女性なら、コメディ仕立てのこのみっともないほどの狼狽ぶリは当然といえば当然だろう。我が身に置き換えてみれば、決して笑えない部分ではある。

しかし、このダイアンの人生選択の素晴らしい点は、子供を手放さず、冷たく自分を見捨てた競争社会が以前よリよい条件で彼女を求めたときに、きっぱリと拒否したことだ。ころがりこんできた子供という不幸の種を第二の人生の幸福の種に転化していくたくましさこそ、彼女の本当のキャリアなのだ。一方、『グッバイ・ママ』のかなこは子供を守ろうとするどころか、甘える。母性というよリ、子供に対して自分を守ってくれる小さい異性として接する。彼女のどこが「ママ」なのかわからない。これは最後までしこりになって心にのこった部分だ。

ダイアンとかなこの決定的な違いは、本当のキャリアというものが自分のものになっているかどうかだ。仕事がいい生活のための手段だけになっていないか。ころがりこんできた不幸をいかに幸福に転化していって、人生の転換もいとわない、たくましさをもつことだろう。上司のミスを虎視眈眈とねらっている部下をもち、企業にオンナは必要ないという現実主義の上司をもったタイガー・レディ(ダイアン)と好意的な上司と彼女に憧れ、煽てる部下をもったかなこ。映画そのものの設定にも歴然とした差がある。

(地畑)

わたしたち、こういう映画が、ずっと、ずっとみたかった・・・

『櫻の園』

参加者: 地畑(二〇代)、勝間(二〇代)、大牟礼(二〇代)、出海(四〇代)

『桜の園』
監督:中原俊
脚本:じんのひろあき
撮影:藤沢順一
出演:中島ひろ子・つみきみほ・白島靖代
ストーリー
舞台は私立女子校・櫻花学園の演劇部の部室から始まる。毎年、創立記念日に上演される『櫻の園』だが、その開演までの約2時間、少女たちにはそれぞれのドラマがあって…

◆女の子たちがみんなきれいで・・・

出海「みんなの意見、一致しておもしろかったのね。最近見た日本映画のなかでは」

地畑「すごく自然だった、女子校の雰囲気とか。女の子たちもきれいだったし」

出海「うーん、きれいだったわねー」

地畑「やっぱり、女の人をきれいに撮れないとダメなんですよね、映画監督は」

勝間「私は後から原作をみて、原作のマンガと結構ちがうなって」

(映画をみていないが、横でみんなの話しを聞いていた佐藤さん) 「えっ、マンガなの!?」

勝間「そう、原作の方がもっと本当の女子校生っていう感じで、男言葉しゃべる子とか出てきて、それが映画ではすごくかわい子ちゃんていう感じになってたり。ボーイフレンドの話しももっと露骨だったりかえって、あの原作からよくあの映画をつくったな、と思いました」

出海「つまり映画として成功しているのよ。なんで『死の棘』がだめなのかっていうと(一同「また〜」と笑う*注)、オリジナリティがないのよ」

大牟礼「『バタアシ金魚』なんかも、だから成功だったわけですよね」

出海「原作のスピリットっていうかがちゃんと生きているわけよ」

大牟礼「原作者の吉田秋生って女の子の感情をすごくうまくだす人で、例えば部長の子とつみきみほが、二人だけでしゃぺっていて「小学校のときとかわざと生理用のナプキンみつけてからかうような男子がいて、あたしそういうの絶対許せない。その子が大人になってどんなに偉い人になっても絶対に許さない」「そんなの一生許すことないよ」っていう場面ね。あの辺りとか吉田秋生のエッセンスがすごくよくでている」

地畑「あと部長がパーマかけたことで、なんかふっきれて、ちょっと不良っぽい子たちのことを、前はあまりよく思ってなかったけれど、解るようになるというか、うちとける。ほんとにちょっとしたことでぬけだせた、というのすごく判るのね。リアルだなあと思いましたね」

大牟礼「そのパーマをかけて出てくるシーンだけど、「(パーマが)似合わない?」「いいですよ、とっても」「昨日の夜やっちゃった」という会話をある評論家は“突然パーマをかけて登校して、昨晩「ボーイフレンドとやっちゃった」という部長は…”なんていっているのね。やるっていったらすぐセックスと結びつけちゃう、でもどう考えてもあのシチュエーションでセック スがでてくるのはおかしい。
例えば侯孝賢が台湾語で映画をとって、初めて台湾人にとって自分の言葉で語られ、語る映画がでたわけで、少し大袈裟かもしれないけれど、この映画もそういえるんじゃないかと思った。今までだれもが当然と思っていたような映画の中の共通語があって、そこに生きた言葉が登場したというか。それで実際に同じ日本語であっても意味が理解できない日本人がいるんだってことを浮き彫りにしたという気がするんです」

出海「私なんかは、やっぱり女子校でセーラー服で、世間一般の中にはセーラー服っていうと脱がして、犯してっていうシンボルみたいなところがあって、いろいろな映画の中でもそういう先入観で動いているところがあると思う。で、この映画にきて初めて本当のセーラー服の中身が描かれているな、と」

◆女子高生と同じ視点

地畑「監督の中原俊ってホント女心がわかるっていうか」

大牟礼「異性としてではなくて、同性として判ってるって感じ、この人、女になりたかったんじゃないかって思っちゃう」

出海「人間って、少なくともいいものを創るひとって両性もってなきゃ、ダメなのよ」

大牟礼「マッチョじゃダメ」

出海「ダメ、ダメ」

大牟礼「ヨーロッパ映画で『彼女たちの舞台』ってあったけれども、演劇学校の学生の女の子だけがでてくる。やはり監督と女優たちとが共謀してつくっている、という感じで」

出海「これなんかもまさにそれだと思う。2ヶ月間ずっと合宿して、彼女たちの世界ができて、それを引き出していった」

地畑「視点が違う。低い視点で、っていうのか、彼女たちと同じ視点なのね」

出海「あと、あの記念写真のところ、すごくよかったわ。二人で(部長の中島ひろ子と白島靖代)どんどんカメラに寄っていくところね」

地畑「う〜ん、あそこはよかった。それを耐えてるつみきみほも、賞とったけど、やっぱりよかった。あ一ゆーのあるのよね」

出海「レズビアンとは違うのね」

大牟礼「でも友情ではない」

出海「あれはね、他人への愛情ってあるでしょ、子供の愛から大人への愛への間なのよ。これから他人を愛するようになる入口っていうか。それをレズビアンっていう人がいるけど、でも違うのよ。 絶対に」

大牟礼「男にだってあるでしょ、そういうの。でも男はそのままホモセクシュアルになっちゃうじゃない」

出海「男は攻撃的だから、手をだしちゃうのよ。女は待つ方でしょ両方とも待っちゃうの」(笑)

佐藤「女は精神的なものとかが、すごく重要だしね」

地畑「男の人が回りにいたら、男の入の方にいくかもしれないけれど、自分しかなかった世界に、他人が入ってくる変わり目なのよね」

大牟礼「女子校の人が多いんだけど、共学の人はどうなの?」

勝間「やっぱりそういうのはないけど、男の子の方に目がいくから。でも私もあの部長さんがすごくステキだと思って、つみきみほの気持ちがすごくよく判った」

大牟礼「誰でも、だれかに感情移入ができるのね」

地畑「キャラクターもそれぞれリアリティーがあって、よかった」

大牟礼「で、彼女たちが反抗しているのは、学校っていうか、体制、つまり男のつくった仕組みなんだと思う」

地畑「嫌われている先生も男でね。すごい不気味な現われかた」

出海「スタイルから入ったものじゃないのよね。実から入っている構成がどうのというのじゃなくて、映画でしかできない世界を作りあげたのね」

佐藤「あら、みんなべタほめね。私の回りのおじいさんなんかは、なんで『櫻の園』なんてっていうのよ」

大牟礼「おじいさんじゃ無理よ。男であることとか、大人であることになんの疑問ももたない人には、ピンとこないという気がする」

地畑「みんな誰でも1回は通る道なのよね。大人にしたら、なんでパーマかけたぐらいでってなるかもしれないけれど、やっぱりそれがスゴイことである時期ってあるのね」

出海「まだ見ていない佐藤さんが、どういう感想をもつか楽しみね」

佐藤「絶対にみまーす」


*注 出海さんの『死の棘』に関する評は シネマジャーナル17号にでています
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