女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
18号 (1991)  pp. 32 -- 33

映画評



'91年正月映画を観て

勝間

'91年正月映画は面白そうなのがいっぱいでした。 私はそれらの中の数本を観ただけで、 「ドラックストア・力ウボーイ」(シネマライズの前売り記録を更新したんですってね)や 「あんなに愛しあったのに」はのがすことになりそうです。
以下に、何本かについて気ままに述べてみようと思います。

『ミュージック・ボックス』

「背信の日々」でショックを与えてくれたコスタ・ガブラス監督。 今回は、より重いテーマ(四十年以上昔の戦犯の告発)と、設定(父と娘)で、 確かに内容は前作に劣らないが、私の中では未消化の部分が残った。

実の父を告発しなければならなかったラストの後味の悪さのため? いや、 前作でだってヒロインは恋人と対決したじゃない???確かに。 だが恋人とはいえ、相手は何力月前に知り合ったア力の他人。 それに比べ、四十年、男手一つで兄と自分を育ててくれた父に残虐な鬼の本性が隠れていたなんて、 やりきれない。 あえて父を告発した娘の良心に救いを感じると言えなくもないが、 娘の受けた深い心の傷、そしてやがて真相を知るであろう祖父思いの孫。 父の犯した恐ろしい罪への報いは、何の罪もない娘やその息子に心の傷を与えるという形で襲ってくる。ちょうど善良なユダヤ人の多くに、突然虐殺や辱めが襲ってきたように。

今回ガブラス監督は、平凡なアメリ力市民の仮面をかぶって潜伏するナチシンパの残党の問題を掘り起こした。 しかも、この犯人である父はハンガリー出身。 ユダヤ人狩はヨーロッパ全土に及んだことに照明を当てた。 その点は毎度のことながら評価できる。 だが、自分の父が虐殺犯だったという設定に何かリアリティのなさを感じてしまう。 実父ではなく、夫の父とかならわからなくもないが。 自分の家族には優しいが、違う人種に対してはどこまでも鬼になれ、 そしてひとかけらも良心の痛みを感じない。 そういう内面をもう少し追求して欲しかった。 実の父の内面が、得体が知れなかったなんて、ぞっとしませんか?


『ヘザース』

あぜんとしたラスト。私はあまり熱狂的になれなかったな。 私も古い人間?

私自身は、ハイスクールよりそれ以降の方が鬱屈してるから、 大学や会社をぶっとばしてくれるほうがありがたいんだけど。

それにそれに、お嬢様トリオのヘザースより、ウィノナの方がずっとずっと奇麗なんだもん。 で、彼女の劣等感に説得力がない。 いろんな作品に出る彼女の挑戦根性は嬉しいけどね。

女の私はウィノナを奇麗な子だなーってタメ息ついて見てるけど、 男だったら彼女をどうやって見つめればいいんだろう。 彼女に恋い焦がれて死にそうな男がいっぱいいるはず。 男に生まれなくてよかった。

一方のクリスチャン・スレイターは、「ヤングガン2」で目が離せなかった赤丸急上昇の注目株。 彼は銃を構えている時がすごくいい。ブッ飛び男の役ならナンバーワン。 うーん、アメリ力映画界にも年下のいい男が現われたか……。寄る年波の悲しさよ。


『ニキータ』

こりゃいいぜ! 「プリティ・ウーマン」を観てたまった鬱憤を晴らすことができた。 ロンドン・サンデー・コレスポンダント誌の批評 “フランスは「プリティ・ウーマン」に対して「ニキーた」で答えた”は、 まさにその通りで嬉しくなっちゃう。 アメリ力映画によくある勧善懲悪や甘ったるさ、あるいは大向こうを狙った見栄は全くない。 あるのは容赦ないスピードとほろ苦さ。

そのほろ苦さは、特別出演のジャンヌ・モローに集約される。 六十歳過ぎた彼女のシワは決して美しくはない。 だが、老いと見事に向き合う彼女の誇りは立派だ。 美人女優にとって、最後まで女優を続けることは難しい。 だから真っすぐ正面を向いて演じ続けているジャンヌ・モローに敬意を表さずにいられない。

それから、ストーリーの容赦ない展開。 取調官の手の甲に鉛筆を突き刺すニキータ。 武術の指導官の頬を平手打ちするニキータ。 そして、出口のないことを隠してニキータの判断能力を試すボブ。 これらは観客に対する、いい意味での裏切りである。

最後に、秘密組織の手先であることに耐えられなくなったニキータは、 恋人の前からも姿を消す。ジャンヌ・モローの演じたアマンダは、 ニキータのように任務の重さに押し潰されることはなかったのだろうか。 彼女の出番は早く終わったてしまったが、最後まで観てふっと思った。 出番は短いが、ジャンヌ・モローだからこそ、この役の厳しさを表せたと言えるだろう。

ジャンヌ・モローにばかり誌面をさいてしまったが、 奮闘したニキータ役のアンヌ・パリローと暖かいジャン=ユーグ・アングラード、 そして組織の人間ながら魅力的だったチェッキー・力リョにも拍手を贈りたい。 もちろん、リュック・ベッソン監督にも.



『あんなに愛しあったのに』を観て

しばし昔の思い出にひたる
イタリア映画はいいなー

佐藤

この映画、いやになっちゃう位、年寄りの男優ばかりでてくる。

アントニオ(マンフレーディ)とジャンニ(ガスマン)とニコラ(サッタ・フロレス) は第二次大戦中のレジスタンス時代の親友。 戦争が終わってそれぞれの道を歩きはじめた。アントニオは病院の担架係り、 ジャンニは弁護士、ニコラは中学教師として。 この三人の間にひとりの美しい女性ルチアーナ(ステファニア・サンドレッリ)が……。 私が心ひかれたのは、この女性をめぐるあれこれのエピソードではなく (なぜなら、ビットリオ・ガスマンが余りに老人すぎて、恋という感じに程遠く、 ピンとこないため。他のふたりもしかりなんだけど、 ガスマンは二枚目だけに余計に変だった) この三人の三〇年の軌跡だった。ガスマンは恋人を捨てて実業家の娘と結婚し、 ニコラは地方で教師をしていたが『自転車泥棒』の上映をめぐって保守的な人々と対立し、 職を失いローマに出て映画雑誌の編集を始める。 このニコラを通して私たちは私たちの愛するイタリアの古き良き映画に再会する。 『自転車泥棒』の失業者の姿をイタリアの恥と論じる町のボスに 「ボロ服やごみ溜めにこそ真実がある」とくってかかる。 「これが世の中なのよ、あなたは自尊心を満足させただけ」という妻にニコラは言う。 「そんな世の中は変えるべきだ」と。ニコラはテレビの映画クイズに出演、 『自転車泥棒』の少年はなぜ泣いたのかという問いに 「少年のポケットに監督が煙草の吸殻を入れたからだ」と答えて大金をのがしてしまう。 集会でデ・シーカが演説しているシーン、スペイン広場でのポチョムキンの真似、 トレビの泉でフェリーニが『甘い生活』のロケをしているところ、 単純だけどやっぱりこういうのが楽しくて、嬉しい。そして三人は再会する。 ジャンニはレジスタンスの戦いの最中、ふたりに惜しまれて死ぬ自分を夢想した。 「我々の世代は最低だった」とジャンニ。「君たちは個人主義のくされインテリだ」とアントニオ。 喧嘩をするニコラとアントニオ。「けんかならオレと…オレは君たちを裏切ったのだ」 でも、ふたりはそんなこと聞かずに喧嘩をしている。 ……大邸宅のプールに飛ぴ込むジャンニ。それをアントニオとニコラとルチアーナが見ている。 「彼が嘘をついたのは、自分が落ちぶれたのを恥じたからなんだ」……エンド・マーク。 そしてデ・シー力に捧げるの文字。涙で画面がかすれる。 イタリアン・ネオリズムの映画とともに過ごした私たちの青春、 ジャンニのように生きてしまっている、かつての友人たちはこの映画を、 どんな気持ちで観るのだろうか。私たちは最低の時代を作ってしまったのだから、 最低に生きるより外ないんだと白けて生きていくより外、 私たぢには本当に生きる道はないのだろうか…。

『ラ・ファミリア』(87年)を観てガッカリしたスコラ監督だったけど、 『特別な一日』(77年)とこの映画は素敵!です。ちなみにこの映画の製作年度は74年です。



浅草名画座で観た『われに撃つ用意あり』

佐藤

高知から田辺君がやってきて、これを90年度の傑作という人がいるのでぜひ観ていきたい。 今上映しているのはここしかない、という。私はいつも忙しいのだけど、 その日は、高知で世話になっている田辺君につきあおうと思っていたので、浅草に連れて行った。

子供の頃、わたしは母に連れられて、国際劇場にかよっていた。 レビュウーと一緒に、映画もそこで観たように思う。あの頃はそれが娯楽だった。 でも、子供時代をすぎると浅草で映画を観るということはまったくなくなった。 六区の映画館街が現在どんな風になっているのかということは知識として知っていたが、 実際に足をふみいれる機会はなかったのだ。 雷門のある賑やかな参道を抜け、左手に折れると、 寅さんが羽織るようなジャンパーや背広を売る店やがあらわれる、 観光客の多い隣の賑わいから一転してこの付近はひと気がなく、 それに続く映画街も閑散としている。道幅がやけに広い。 名画座の前の一枚の張り紙に私の目は釘付けになる。 「極端に異臭を放つ衣服を着ている人の入場はお断わりします」…とあった。

火曜日の昼下がり、映画館内は、がら空きだろうと想像していたら、入ってびっくり。 客席の半分以上が埋まっている。目をこらして見ると、 極端ではないが異臭を放つ寸前のようなひとが多い。 ぼさぼさの頭をベルトでおさえた自髪まじりのおばさんは、 身をのりだし前の椅子に肘をついて映画に見入っていた。

ここにいるほとんどのひとは、 新宿闘争にかかわるインテリたちのぼやきの意味を考えるために入館したのではない。 やくざに向かってたったひとりで戦いをいどむ、原田にかすかな思い入れがあるだけだろう。 観客が多い割にどよめきも笑いもすくなく(私たちの笑いやつぶやきが浮いて聞こえたくらい) ひとり、ひとりがこの映画館の片隅で孤独をいやしている様子に胸が痛んだ。

私は「ベトナム反戦と言ってたのに何故難民支援なのさ」というセリフや 「予備校で稼いでるっていうのに、力ンパするっていったらたったの一万なんだから」 という言葉がいちいち面白く笑ってしまった。 若松という監督は、36年生まれだそうで、全共闘世代だとばかり思っていたので驚いた。

この映画を観ながら私は大島渚の『日本の夜と霧』を思い浮べていた。 新宿のゴールデン街にあるようなスナックで(原田芳雄がマスターをしている、 彼はマトモにいけば大学教授位になれる秀才という設定)昔の仲間が集まってくる。 20年前の思い出を背負って…

ここでも同窓会だ。でも、オジサンやおばさんは元気がない。 というかどうしていいのかわかんないのだ。 ただ、若者のだらしのないのにはヤケに腹だたしいの。 ここのとこ、私の心情にぴったりで苦笑してしまう。 誰も何もしないんだ、クソッタレ!という感じで原田はもぞもぞと動き出す。 同志的気分の抜けない桃井かおりがそれに付き合う。 …やくざの親分を殺したってどうっていうことないんだけど、 彼にはそれをすることくらいしか自分のアイデンティティを示す道がないのだ。 気持ちはわかります。でも映画館で笑いもせず時間をつぶしている人々の生活は、 そんなことしてくれてもヤッパリ変わらない、っていうのが悲しい。

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