女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
14号 (1990.04)  pp. 57 -- 60

李長鎬映画祭から
見果てぬ夢の再認識のために

O. 亮子

『旅人(ナグネ)は休まない』はセピア=現実とブルー=回想及び超現実、 幻想の画面が交差し、哀調と祝祭の混在する厳しく美しい映画だった。

行き着くことのない?常に夢に終わる「故郷」、南北の分断、死と離別、 「旅人(ナグネ)」、船、女の思い、男の思い、巫堂(ムーダン)、パンソリ、 歌と踊り・・・・が、時に長く時に短いショットの中に現れては消え、消えては現れる。

男(金明坤)は死んだ妻の故郷を探す旅人(ナグネ)、 女(李甫姫)は北の故郷に帰ることを夢見る重病の老人の世話をする看護婦。 老人は故郷に帰る事なく連れ戻され、男も妻の故郷を探しあてることなく 看護婦と新しい生活(現実)を始めようとする。

ラスト、ソウルヘ向かおうと船着き場へ来た二人は川原でクツ(鎮霊祭)に出合う。 女は突然憑依し、巫堂に替わって踊りだす。 男は為す術も無く、船の上で絶叫する。

巫堂(ムーダン)の誕生によって、女の勝利、男の敗北に終わるという。


この映画に限らず、李長鎬の映画において、 強くたくましく積極的に生を肯定してゆくのは常に女の方だった。 男はいつも女の回りをうろうろ回り続ける存在だった。

『暗闇の子供たち』で運命に翻弄され、 不幸のどん底へと落としめられるヒロインの娼婦(羅暎姫)が最後に、 両足のない傷痍軍人に対して見せる慈愛は圧倒的な生の勝利だった。

『馬鹿宣言』の、実は娼婦のえせ女子大生、李甫姫は元気に可愛く飛び跳ね、 けんかしても男をこてんぱんに叩きのめす。叩きのめされるのは、ちびとでぶの馬鹿二人。

『膝と膝の間』でも慣習に果敢に挑戦するのは女(李甫姫)で、 男(安聖基)は家ーこれを支配しているのも母親なのであるーを突き破ることが出来ない・・。

そう、『外人球団』でもヘソン(崔宰成)はオムジ(李甫姫)のために、 最後の試合でわざと負けるのだ。

『旅人は休まない』で始終うつむいている男、金明坤に対し、李甫姫は上を向いて、 いつも顎の線を出している。

強い女と弱い男。

メロドラマの中であれ、神話の中であれ世の中の中心、映画の中心には女がいる。 女の回りでは男がぐるぐる回っている。 悲劇も不幸も全部引き受けて、最後に圧倒的な強みを見せるのである。

「([理念イデアとしての巫堂]とは)優れた世界観をもった巫堂の登場を期待する、 ということ…ある種のメシア待望のような考えになってくるのかもしれません。」 と李長鎬は言っている。

メシアは救済するものである。ジャンヌ・ダルクは自らを犠牲にして救済へと導いたけれど、 李長鎬の巫堂たちは、救済の道を指し示しているのだろうか。 未解決の絶望をさ迷い、果たせぬ夢を抱き続ける男に夢と安住の地を与えるのだろうか。

そうではないような気がする。

彼女達は、男達を突き放す。『ナグネは休まない』のラストで憑依し踊る李甫姫は、 現実へ戻ろうとする男をふたたび絶望へと突き放す。

絶望は、悲観や厭世ではなく、現実の生活の中に埋没しようとする夢の再認識のようなもの。 絶望を再認した時の叫びが、悲痛であればあるほど夢は再び純粋な状態で呼び戻されることだろう。

女に突き放され、開き直られた男は、絶望を、未解決の夢を再認識するしかない。

女と男は決定的に対立しながら、見果てぬ夢を抱き続ける。

その先にあるのはブルーの現実なのだろうか。それともセピアカラーの幻想なのだろうか。




「恨」(ハン)と「怨」(オン)など

韓国人の精神的特質を理解するのに、よく引き合いに出される「恨」ハンは、 感情や情諸の中に潜む痛みだといわれる. この痛みを断念できずにもとに戻そうとする欲求が激しければ「恨」となり、 これを「解く」過程で生じるエネルギーが「恨」の肯定的な面だという。

「恨」は内向性の感情で遂には自己破壊で終わるが、 これに相対する「怨」オンは外向性の感情なので他者破壊=復讐で終わる。

「恨」は平凡で日常的な生活の中からは生まれず、 不幸や災難といった人生の絶望的状況に出会ったときに生ずる。 絶望に直面しながら、それを絶望として受け止めようとしないとき「恨」が「結ぶ」。

*(「結ぶ」と「解く」は対立する語で、例えば、春は「解く」であり、冬は「結ぶ」、 健康が好転すれば「解く」で、悪化すれば「結ぶ」という具合)。

「恨」は、たとえば恋人を失った場合、離別を肯定しその愛を諦めて再出発するということをせず、 恋人が帰ってくると信じ、愛の幻想のなかで生きるときに生じる。 このとき、彼(彼女)は、恋人を失った絶望=うらみと、 帰りを信じる未練=愛といった二極の矛盾する感情を合わせ持つ事になる。

極端に抑圧された感情が昇華する=「解く」とき、「恨」は克服と超越を経験し、 一段高い所に上がる結末を迎える。


以上長々と「恨」について聞きかじったことを並べてみたが・・・・


先日『イザベルの誘惑』を観ながらどこかで観たような???という疑問に陥ってしまった。

妻の純粋な愛に疑問を持ち、彼女に昔の恋人との情事を焚きつける男、ブリュノ。 しかし、そんな彼の元を去って行く妻への愛を諦めることもできず、 次第に均衡を失って行く。憎悪、嫉妬、恨みが激しけれぱ激しいほど妻への愛、未練、 欲望も度を越してゆく。愛を肯定することも否定することもできず、 肯定と否定という二律背反する感情を同時に進行させてゆく。

これは「恨」(ハン)ではないか。 「明確ならざるもの、フランス人(語、的)にあらず」のフランス人の行動が、 巫堂(ムーダン)と精神主義の韓国人の心情で理解できてしまうなんて。 地球ってやっぱり狭いのね。

それにしても単純に「愛しているよ」と言えぱ嘘になり、 「嫌いだ」と言って突き放せばやはり嘘になる。 人間てなんて複雑な生き物、愛って一体何なのでしょう。





李長鎬(イチャンホ)映画祭
Lee Chang-Ho Film Festival in Tokyo 1990


渋谷シードホールで1月18日から23日‘韓国映画の枠組みを超えて’と題して 李長鎬映画祭が催された(以下は、上映作品)。 この後、中野武蔵野ホールで『暗闇の子供たち』と『馬鹿宣言』 がロードショー公開される。


風吹く良き日/Thank God It's Windy/'80 安聖基 *
暗闇の子供たち/People in the Darkness/'81 羅暎姫、安聖基 *
馬鹿宣言/Declaration of Fools/'83 李甫姫、金明坤 *
寡婦(やもめ)の舞/Widow Dance/'83 李甫姫 *
膝と膝の間/Between the Knees/'84 李甫姫、安聖基 *
於宇同/Er Woo Dong/'85 李甫姫、安聖基
外人球団/The Base-ball of Horrible Outsiders/'86 李甫姫、安聖基
旅人(ナグネ)は休まない/The Man with the Three Coffins/'87 李甫姫、金明坤
ミス・ユニコーン/Miss Rhinoceros and Mr. Korando/'89 チョン・ギュス、パク・ヨンソン

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