女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
12号 (1989.08)  pp. 15 -- 20

私にとっての美空ひばりとは?

R. 佐藤

五月の半ばごろだったろうか。会社に出掛ける前に家事をしながら いつも聞いている TVのモーニングショーで美空ひばりのことが話題になった。 私はテープから流れる彼女の「私は大丈夫よ」と言う声を聞いて、 何やら胸騒ぎがして、家事の手を止め、TVに見入ったことがあった。 彼女が死ぬことになった時、多分私は涙するだろうとその時フッと思った。

そして、六月二十四日がきた。この日が土曜日であることは偶然だったのだろうか。 朝の第一報を知ったのはTVであった。朝刊にはまだ、その報はなかった。 土曜日は私にとっての一番大切な日。もろもろの用事をこなす予定があったのだけど、 とうとう私はこの日、一日中TVの前に釘づけになり、溢れる涙をぬぐってばかりいた。 この、今にも目黒の青葉台にかけつけそうな母親の姿に子供はあきれてしまっていた。


ところで、なぜに彼女の死がこれほどまでに私の心をとらえたのか。 最近の、というか彼女が二十歳を過ぎた頃からは、私は、 まったく彼女の情報に関心を示さなかったが、 小学校時代の私にとってひばりちゃんは、まさにアイドルであった。 彼女の昔の歌が流れると、その当時の思い出が走馬燈のように脳裏をかけめぐる。

歌が、庶民の生活の中に、とっぷりと漬かっていた時代。 小さいラジオから繰り返し流れる、ひばりちゃんの歌を聞きながら 私たちの世代は子供時代を送ったのだ。

私は昭和十八年に生れている。美空ひばりの生れは昭和十二年、よく子供はファンになると、 そのアイドルの誕生日を空んじたりする。私もご多分にもれず、 ひばりちゃんの誕生日を空んじていたひとりであった。 そして彼女の誕生日と自分の誕生日が近いので大層嬉しがったことを覚えている。

家城巳代治監督の映画『悲しきロ笛』の封切は昭和二十四年。私が、小学一年の時である。 丁度四、五歳の今でいう幼稚園時代、私の母は結核療養所にいた。そのため、 我が家には年老いたおばあさんが住み込んで家事をしてくれていた。 お金がなかったというわけではないが(多分)なぜか私は幼稚園には行っていない。 その頃、私は千葉県の市川というところに住んでいた。 母がいない為、幼稚園の手続きなどができなかったのかもしれない。 戦後すぐでは幼稚園もなかったのかもしれない。 母がいないことに加えて歌や絵本もほとんどない生活が私の幼児時代だったようだ……。 父は事業に忙しく、休みは千葉の療養所の母の元へかよっていた。 戦争が終わって四年しかたっていなかった。ラジオからは、 戦争で行方のわからなくなった家族の消息を尋ねるアナウンサーの声が日に何回も流れていた。 「尋ね人の時間です」という番組がなぜこんなにあるのか理由もわからず 子供たちはラジオを聞いていた。

私は、母の心配りが届かぬところで小学校に入った。 そこで私はあるつらい事を体験する。私は歌が歌えなかったのだ。お勉強はできるといわれながら、 唱歌の時間の度に私は自分の音程に狂いがあるということを発見した。 歌に慣れていなかった悲しさ。 初めての音楽の授業でお馬の親子の歌が歌えなかった思い出は 長いこと私の日の小さな痛みとしてきざまれていた。 それからもうひとつのこんな思い出もあった。真間川の近くに友達の家があった。 その子のお母さんから、どういう理由かはまったく忘れてしまったけれど 『二宮金次郎』(!!)の絵本をブレゼントしてもらったことがあった。嬉しくて、 私はその絵本を大事に抱えて帰ってきたことを鮮明に覚えている。 きっとこの年になるまで私は絵本というものを持っていなかったからだろう。

母は小学校一年の終わりに退院してきた。そして、彼女の転地療養のため、 父は船橋の海辺の近くに家を買った。私たちはその家に移って行く。

『悲しきロ笛』の頃は映画や絵本どころではなかった我家も母が戻り、明るくなる。 今までの分を取り返すかのように子供たちに愛情を向けはじめた母の手にかかって、 私はパーマをかけさせられる。ひばりスタイルをまねた髪型、大きな右脇の頭上のリボン。 そして、映画にも行かせてもらえるようになった。

この船橋時代。私は映画に目覚めて行く。小学二、三年の頃、私は『あの丘越えて』 『リンゴ園の少女』『鞍馬天狗』『ひよどり草紙』『角兵衛獅子の歌』 そしてマーガレット・オブライエンと共演した『ふたりの瞳』等のひばりちゃん映画を見続けていく。 あるときはお手伝いさんと、あるときは同じクラスの友だちと、私は映画館に行った。 当時、封切の映画館は大神宮下にあり子供の入場料は40円だった。

この間、昭和32年頃の婦人公論をみていたら椎名麟三が、 「映画館の子供たち」というルポを書いていた。 下町と山の手の映画館に入って子供たちを観祭した文(映画は『赤銅鈴之助』)なのだが、 それを読むと下町の映画館は自主的に映画館にやってきた子供たちによって占領されていることがわかる。 TVが子供たちの生活に浸透していなかった時代、 私たちはどこまでも歩いてでも映画館にかよったのである。そして、 男の子も女の子もスクリーンの向こうに夢をみていたのだった。

家の近くにトソハマの方から、ドンガラガッタ、ピピピといってくる紙芝居やのおじさんは 五円のミルク煎餅か十円の水飴を買わなくては、黄金バットの紙芝居を見せてはくれなかった。 のり干場で私たちはかくれんぼをした。 ポンポン蒸気の船に乗って沖の浅瀬にあさりをとりに行った。 港町の学校は子供が多く、施設がないので公民館を使って二部授業をしていた。 しらみがいっぱい髪の毛にたかり、PTAの母たちはかりだされて、 DDTの粉を子供たちの頭にふりかけた。 私は、日曜日になると縁側でブチン、ブチンとしらみを潰してもらった。

私たちのかよう港町小学校にも、山の手の子と下町の子の別があった。 溝口監督の映画で有名になった『赤線地帯』のあるトソハマ、海神の方には引き揚げ者住宅があり、 そこの子供たちの身なりは一様に貧しかった。 私は偽善的にある貧しい姉妹の為に一円づつ集めて傘を買ってあげる運動の先頭にたったりした。


つい先頃、一杯のかけそばの話題が、マスコミを賑わした。 ある人が「みんな本当は貧乏が恋しいんじゃないの。貧乏はもう、 ずーと向こうに追いやってみんな中流のような顔して格好つけてるけど、 貧乏がいっぱいあった中になにか失ったものがどっさり入っているような気がするのではないかしら」 と言っていたけど、六月二十四日の私はまさに、その言葉のとおりだったのだ。 「リンゴ〜」という歌を聞くと、貧しかったあの頃の楽しかった子供時代がよみがえるのだった。

  「笛に〜う〜かれてさかだ〜ちすれば
    山がみえ〜ま〜す、故郷の
   わた〜しゃ、みなしご、街道暮し
    ながれ〜ながれの越〜後獅子」

これは、映画『鞍馬天狗・角兵衛獅子』(昭和二十六年)の中で杉作に扮したひばりが歌った歌である。 切ない響きが好きで私は、いつも口づさんでいた。 『鞍馬天狗』はもともと嵐寛の『鞍馬天狗』だったのだが、 この映画はひばりの『鞍馬天狗』になっていた。映画年鑑を見ると、翌27、28年にも 『続角兵衛卿子』『角兵衛獅子功名帳』などという映画が作られている。 記憶にはないが、多分私は、これらを観ていたことだろう。共演者を見ると、 加藤 嘉、山田五十鈴、月形龍之介などのそうそうたる名が並んでいる。 これならばさぞ面白かったろうと思われる豪華キャストである。 (私は八歳だった)

  「お岩木山のてっぺんを
     綿みてえな白い雲が
    ポッカリポッカリ流れて行き
   桃の花が咲き、桜が咲き……」

これは、「リンゴ〜のはなびらは〜」で有名な「りんご追分」の間に挟まれるセリフ。 私たら子供は、これをまるで三好達治の詩でも暗唱するように暗記した。 子供の頃、教師にむりやり暗記させられると 「はるはあけぼのようようしろくなりゆくやまぎわ…」(枕草子)というように、 今でも口をついて出てくるものだが、それと同じように、 彼女のセリフもふっと口をついてでてくるのだ。 この歌詞は、どんな高尚な詩にも負けないほど多くの大衆が空んじたのだった。 映画『リンゴ園の少女』(昭和27年)は、島 耕二監督の作品である。 山村聡が都会の作曲家に、そして小園蓉子、三井弘次、坂本 武などが脇をかためている。 文芸作品といった感じで、私はこの映画に酔った。その時、私は九歳だった。


そして…私がなんといっても一番好きだったのは『あの丘越えて』、 音楽 万城目 正、監督・脚本 瑞穂春海(この監督の名は今初めて知った。 どんな作品が他にあるのかわかりません)

  「や〜ま〜の牧場の〜夕暮れに
    か〜りがと〜んでるただ〜一羽
   わた〜しもひと〜りただひ〜と〜り
     アオの背な〜かで、目を覚ます
    ヤッホー、ヤッホー 」

昭和二十六年の作品だ。私は、八歳。ひばりちゃんは十四歳だった。 娘になりかけの彼女は初々しく、大学生の鶴田浩二との淡いロマンスが、大自然をバックに展開する。 そしてこの「や〜ま〜の牧場の〜」の歌は私の心を揺さぶった。 それまで音痂だった私は、これを歌うことによって歌が嫌いという状況から脱していったのだ。 ここでも脇役に飯田蝶子、堺 駿二、坂本 武などの芸達者な人々の顔ぶれがみられる。

  「丘のホテルの赤い灯も
    胸のあかりも、消えるころ
   み〜なと小雨が降るよるに
    ふしも悲しい口笛が
   恋の街角 路地の細道 な〜がれ行く」

私は、この映画『悲しき口笛』(昭和24年)は、子供の時は観ていなかった。

先日のひばりの葬儀の日、TVでこの映画が放映された。 これは、昭和24年の作品であり、監督はなんとあの『雲ながるる果てに』の家城巳代治。 のちに俳優の組合作りに奔走した原 保美が若い、若い。 戦争によって引き裂かれた兄(原)と妹(ひばり)が出会うまでの話に加えて津島恵子と原のロマンス、 麻薬粗織のからみ、日雇い労働者との交流、そして菅井一郎の落ちぶれたバイオリンニストの悲しみ… などとちょっとテーマがもりだくさんではあるが、あの当時の雰囲気はよくでてる。 もうすこしでイタリアンネオリズム的な感じになったのではないかと思われる気もしないではなかった。 ただ、このひばりは幼いのに、なぜか大人びており、流し目をしたり、 ちょっと格好をつけたりするので、『自転車泥棒』の子供とは比較できず、 その点がいまいちだなーと思った。


小学生時代、こんな風にしてひばりの映画と共に生きた私も、 中学生になると映画の興味は一変し洋画を観るようになり、 そして高校になると社会性のある邦画しかみないという風に変化をしていく。

美空ひばりは、このあと野村芳太郎監督の『伊豆の踊り子』、 五所平之助監督の『たけくらぺ』に出演する。 そしてこれらをピークに香り高いといわれる映画からは遠ざかって行った。


今、美空ひばり旋風が日本中でまき起こっている。 ブームに便乗してここのところ出版されたひばり読本が、書店には山積みになっている。 それらをちらちらと立ち読みしたり、TVの特集をみたりすると、知らなかったエピソードが多くあり、 興味がつきない。家族、姉弟、母と娘とはということまで、 じっくりと考えさせられる資料を彼女は提供してくれる。

「大衆とは、何?、庶民とはなに?」という野坂昭如のインタビューに答えて、 母の喜美技さんはこう答えたとか。 「大衆とは、相手の目をみて話すことのできる人です」と… (黒メガネの野坂さんはこの時どんな顔したのかしら)

彼女の肩には暴力団がらみの弟たちの甘えがいつもつきまとっていた。 悪の道に走った弟に宛てて切々とその改心を訴える、姉ひばりの手紙を読んで私は胸が痛くなった。 教養がないということを隠そうとせず、上品ぶることを嫌ったひばり。 小学校時代巡業について行った家庭教師は、彼女に世の中の仕粗みをわかってもらおうとしたとか。 労音の舞台にも立ったひばり。彼女の持って生れた天性の庶民的情念を進歩的文化人は、 どう評価し学びとろうとしたのだろうか。あの、けばけばしいセンスのない服装は、 庶民がお金を手にした時に嬉しくてついつい身につけてしまう行為と同じではなかったか。 彼女は無理に背伸びをして教養を得ようとはしなかった。


私も、大衆的であるとか庶民的であるとか言われることがある。 たまたま誕生日が近いということで私の資質は、ひばりに似ているなと(!?)思うことがある (同じ双子座だし)。けれど、実は私は、心の奥底で大衆(無知な)を侮蔑している。 私は彼女とは似ても似つかぬいやな女なのだ。 格好をつけて、大衆に奉仕するなどとおこがましいことを言っても 実はひばりちゃんの万分の一も大衆に対して奉仕など、していない。 庶民の味方と口でいう人が、徹底して庶民的でないということはよくあることだ。 私もご多分にもれずというところだろうか。


彼女が逝ったことで、私たちは、自分の過去を振り返ってみるひと時を持った。 多くの人はこれで、昭和が終わったと述懐した。 そして、彼女が何故に、これほどまでに大衆の心の中に入っていけたのかということを あらためて解明したがり始めた。ミーハー的なものには、目もくれなかった新聞雑誌でも、 彼女の特集を組んだ。この難題は解けるのだろうか。 いえ、この疑問符は永遠に解けはしないだろう。

なぜか?そんなことを解くのに一生懸命になるなんてこと、木当の庶民はしないのよ、 と天国でひばりちゃんがつぶやいている…私には、そんな、気がするからである。


心から、ひばりさんの御冥福をお祈り致します。

本誌「シネマジャーナル」及びバックナンバーの問い合わせ:
order@cinemajournal.net
このHPに関するご意見など: info@cinemajournal.net
このサイトの画像・記事等の無断転載・無断使用はご遠慮下さい。
掲載画像・元写真の使用を希望される場合はご連絡下さい。