女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
12号 (1989.08)  pp. 42 -- 49

『私の中のもうひとりの私』



**『私の中のもうひとりの私』アウトライン**

何だとハッキリいえないが、ウディ・アレンにはウディ・アレン タッチというものがある。 彼の映像を言葉でいうのは非常にムズカシイ。特有のギャグは彼のほんの一部だし、 ユダヤ的なものもほんの一部。ニューヨークの香りもその一部。 饒舌すぎて英語圏にない日本人が全部理解するのが困難なのも尤も。 本当はなによリも人間が好きなのだろうが、‘わかる奴だけ見に来い’ といった突放しも魅力だろう。ただどの作品にもいえるのは、 音楽をだれよりも個性的に上手に使う映画作家であることだ。 ここ何年かの作品は涙もののスタンダードジャズを連発してくれている。

今回はクラシック。エリック・サティのジムノペディである。 少し前にブームになったが、にわかファンの多い日本人は忘れてしまったのではないだろうか。 主人公マリオンの人生の波をゆったリと追い、ゆっくりと流れる今の時間、体の中の血潮 ・・波を感じさせるこの曲は物語を実に効果的にもりあげてくれる。

主演はジーナ・ローランズ。近々亡くなった鬼才ジョン・カサベデス夫人である。 いつものアレンファミリーからはミア・ファーローだけが出演している。 意外だったのはジーン・ハックマンとアレンのとリあわせ。 エンタテイナーでもない、アクションでもない、演技者たる彼に出会える。

熟年女性の自己発見のシリアスドラマだが、50になって初めて自分を知り、 落ち込むマリオンに希望の光を与える心あたたかなアレンのヒューマンなタッチは失われていない。

なお、彼が私淑するベルイマンの『野いちご』を観てみるのも一興です。 ウディ・アレンの著書も多く、また彼の研究書もかなリあります。 日本では武市好古氏が研究者として有名。


**ストーリー**

権位ある哲学教授であるマリオンは、 執筆のために借りた部屋の隣から偶然精神分析の治療を受けているひとりの妊婦の告白を聞く。 しだいにその妊婦のことが、気になりはじめ、今までの自分の人生を違う角度からみつめはじめる。 知的生活をおくることに満足し、理性を盾に感情を殺していた人生。 いかに多くの人を傷つけてきたかを知る。実弟、友達、哲学の恩師で最初の夫。 かの妊婦の語らいのなかで自分の感情に目覚めていくマリオンだが、心の痛手も大きい。 権位ある医者というブランドに惹かれ、知的夫婦を演じてきた生活にキッパリ別れを告げる。 そして、情熱あふれる本当の自分を愛してくれる男の存在におくればせながら気付くのだが・・・・

彼女と同類項の実父の告白も忘れがたいシーンである


**スタッフ**

監督/脚本:ウディ・アレン
製作:ロバート・グリーンハット
製作総指揮:ジャック・ローリンズ、チャールズ・H・ジョフィー
撮影:スペン・ニクピスト ベルイマンのカメラマン
美術:サント・ロクアスト
編集:スーザン・E・モース

**キャスト**

マリオン・・・ジーナ・ローランズ
ホープ・・・ミア・ファロー
ケン・・・イアン・ホルム
リディア・・・ブライス・ダナー
ラリー・・・ジーン・ハックマン
キャシー・・・ベティー・バックリー
ローラ・・・マーサ・プリンプトン
マリオンの父・・・ジョン・ハウスマン(遺作)
クレア・・・サンディ・デニス
サム・・・フィリップ・ボスコ
ポール・・・ハリス・ユーリン

**ウディ・アレン監督**

1935年、ニューヨーク州のブルックリン生。
ギャグ作家としてデビュー。スタンダップ・コメディアンのキャリアの後、映画界へ。 脚本、俳優も手懸ける監督。演劇の脚本も書く。

**フィルモグラフィー**

1965『何かいいことないか子猫チャン』
1966『What's Up, Tiger Lily?』
1967『007/カジノ・ロワイヤル』
1969『Don't Drink the Water』
1969『泥棒野郎』
1971『バナナ』未 ビデオ
1972『ボギー!俺も男だ』
1972『ウデイ・アレンの誰でも知りたがってるくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』
1973『スリーパー』
1975『愛と死』
1976『The Front』未 ビデオ
1977『アニー・ホール』アカデミー監督・脚本賞
1978『インテリア』
1979『マンハッタン』
1980『スターダスト・メモリー』
1982『サマー・ナイト』
1983『カメレオンマン』
1984『ブロードウエイのダニーローズ』
1985『カイロの紫のバラ』
1986『ハンナとその姉妹』
1987『ラジオ・デイズ』
1987『セプテンバー』
1989『私の中のもうひとリの私』
1989『NEW YORK STORIES』(コッポラ、スコセッシとのオムニバス)


『私の中のもうひとりの私』
—アナザーウーマンって誰?—

外山善子

誰にでも思いあたってしまう日常的な物語を作ってしまうのがうまいウディ・アレン。 この映画の中でも見た人が誰でも「あれ、わたしの状況に似ている」 と思ってしまうシーンが散りばめてあって、 わたしはやっばりウディの読みの深さに頭があがりません。

例えば五十歳の誕生日を迎えてしまった戸感いとか、 あるいは姉と弟の関係とか?もっとも我が家の場合は立場が逆になるのですが、 または夫婦の関係とかいったごく些細なことに共感してしまいます。

ウディの映画についてとやかく難しく言ったり考えたりするのはやめます。 彼の使うせりふ(英語の)は時々アカデミックで、そこが笑わせるところであったり、 風刺のセンスも抜群です。 が、彼のどんな映画を見てもどれ一つとしてこ難しいことなど言ってないですものね。 難しいどころか何だか空想好きな少年がその頭の中に思い付いたものを 見境いなしに映画にしてしまっているという感じですよね。 状況や会う人によって人格を変えてしまう男の話『カメレオンマン』とか、 映画の中のお話と自分の生活を混同してしまう女の子の話『カイロの紫のバラ』とか、 何年間ものあいだ眠っていた男が突然現代社会に投げ出される話『スリーパー』とか、 まったく政治に関心のなかった男が一人の女の子に会ってから人生が狂いはじめてしまう話『バナナ』とか、 もうほとんどみさかいなし。 それでも見た後に何か強い衝撃を受けるのは、 笑いの中にほんのちょっとしたスパイスが利かせてあるからです。 そのスパイスは彼がジューィッシュであることにこだわり続けている事だとか、 人間関係の中でわたし達と同じように悩んだり苦しんだりしていることなどを ユーモアやジョークというオブラートに包んで映画にしているからです。

『私の中のもうひとりの私』はウディの映画の中でも 『インテリア』『マンハッタン』『ハンナとその姉妹』 系の比較的シリアス物に属します。ここでも彼の日常性を見る目はおとろえていません。 ちょっとした会話の中に夫婦が衝動に駆られて床でセックスしてしまう話を入れたりする技術はさすがですし、 借りたダウンタウンのアパートの壁づたいに隣の精神科医の会話が聞こえてしまうなど よくありそうなことです。けっきょく主人公(ジーナ・ローランズ)は 精神科医に来ている妊婦(ミア・ファーロー)の話と ジーン・ハックマン扮する作家の書いた小説を読むことによって 自分と自分の人生がいったい何だったのかとフッと考え始めるというところで映画は終わっています。 ウディ少年もおとなになりました。

と、いうことで邦題はどういう訳か『私の中のもうひとりの私』となっていますが 『アナザー・ウーマン』という原題の意味はもっと曖昧で、曖昧模糊としている分 もっと広く深い意味を持っています。邦題のせいで誰れもかれもが狭い一つの見方しかしてないのは賎念ですね。 本当は、というより、もしかしたら「アナザー・ウーマン」というのはミア・ファーローのことも含んでいるのでしょうにね。



私の中に、もうひとりの私がいる?
『私の中のもうひとりの私』を観て

佐藤玲子

「私は50歳になった。私は哲学の主任教授であり、夫は著名な医者である。 私は自分の人生を振り返って合格点をつけられる。」…というモノローグから始まる。

意志的でまだまだ美しいスーパーインテリ女性マリオン(ジーナ・ローランズ〉。 彼女が本の執筆の為に借りた部屋の隣は、精神分析医の部屋だった。 そこから、聞こえてくる妊婦(ミア・ファロー〉の自己を深く追求するが故の悩み、 真の愛とはなにか…というとぎれとぎれの声を闘いているうちにマリオンの胸はさわぎ出す。 それと平行して、彼女の身辺に彼女の人生は合格ではなかったのではと思わせる事件が次々と起こる。 彼女の優秀さに比して、ただひとりの弟はできが悪い。 弟の嫁が借金の依頼にくる。その時のマリオンの対応は、素気なくもううんざりという感じだ。 またマリオンの、最初の夫は自分の恩師である。尊敬が高じて老教授と一諸になるのだが、 子供ができたとなると夫に隠して「自分の意志で」胎ろしてしまう。 おれはもう子供をつくる機会がないと訴える夫に向ってマリオンは冷たくこう宣言する。 「私はこれから学問をめざさねばならぬ身。赤ん坊の世話などできません.」…(回想シーン)

親友と思い込んでいた女友達が、マリオンの自己本位の言動にへきえきし、 嬉悪さえ抱いていることも知る。 尊敬できると思っている今の夫も何やらウサンクサイ。 彼女は追い詰められていく。 小説家のラーリーが自分に好意を寄せているのを知っていたが物質的安定を求めて 医者である今の夫を選んだのも自分ではなかったか。

そうだ、そうだ。と私たちは思う。とにかく、マリオンの生き方は、鼻もちならない。 ここで反省しますといってもらったって絶対許せないわーと思うのに、 なにやら最後は、小説の中でラーリーが「私のこと、心優しく描いてくれて、ホッとしたわ」 という風に終わる。

ということはインテリ女が人を傷つけ、人の痛みを痛みと感ぜず生きてきたとしても、 50歳になって目覚め、自分の非を反省したのだから、 そういう目覚めのないまま生きているよりは偉いんじゃない。 なにせインテリなんだから、自分の非をみつけるんだって早いのよ。 だから、許してね。っていう感じで終わるのには、なんというか腹立たしい感じ。 やっぱり、最後はマリオンになにか不幸がおとずれてくれなくては…スッキリしません。 いくらなんだって、ウッディ・アレン様これじゃーマリオンのひいきのしすぎではないでしょうか。

ところで私がマリオンのごとく独白したらどうなる? 「私は、45歳。自分の人生を振り返って不合格点を与える… いいかげんで、意志が弱く、男運も悪く常に貧乏だったし、今も貧しい。 勿論美しくもなく、子供は勝手に生きていてたよりにならない。 人には傷つけられてばかりきた私」だから、私はマリオンのようなタイブの女はほんとに苦手。 人生の失敗者である私は、マリオンと違って痛みのわかるいい女なのよねー (!? それなのにどうして男は私のよさがわかんないのかしら。プンプン。 って格好つけて言っていると、いえ、おねえちゃんは私をバ力にしてばかりいた。 とどこかから妹の声がする。 あなたは私を見下したような言葉を投げることがあったわという親友の声も聞こえてくる。 子供には自己満足の為にオレたちを大学にいれたんじゃない、と言われる。

あーあ、私の中にもやっぱりもうひとりのマリオンがいるのだ。45歳の私。 私の人生、折返し地点。フッと立ち止まって考える。 私はマリオンとは違うわーと思ったけど私もやっばりマリオンなんだ。

50歳になった時、60歳になった時もこんな風に立ち止まって考えてみることをしなくては… 私って何だったのかしらって…ね。



「私の中のもうひとりの私」
魅力的に年を重ねる HOW TO もの?

掲載準備中

『私の中のもうひとりの私』
人生に宿題を残す映画

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